【浜崎洋介】小人閑居して不善をなす――「文化」喪失の果ての戦後日本 

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 先週のメルマガでは、福田恆存の「教育の普及は浮薄の普及なり」(齋藤緑雨の言葉)というエッセイを引き合いに出して、「偏差値エリート」の「醜悪さ」に言い及んでおきました。が、それは裏を返して言えば、この国が、「具体的な他者に対する適切な距離感」(礼儀)を価値にはしてこなかったということを意味しています。

 かつて、福田恆存は、「文化」は「教育」では身につかないと語っていましたが(『私の幸福論』ちくま文庫)、それとは逆に、戦後は「文化」を焼き滅ぼしてしまったその穴を、「教育」で埋め合わせようとして悪あがきを繰り返してきた時代だったと言えるのかもしれません。その結果が、ここ最近繰り返されてきた、「教育」があるはずの大学生による醜悪な事件だったと言えないことはない――記憶に新しいところで言えば、二〇一六年の東京大学、慶応大学、千葉大医学部の学生による集団暴行事件が思い出されます。

 ところで、「教育」とは、受け渡し可能な「論理や知識」に関係していますが、「文化」とは、受け渡しが難しい――ということは、それは基本的に、生活習慣のなかの躾でしか身につかない「論理や知識」の〝使い方〟に関係しています。いや、だからこそ、それは「生き方」とか「常識」に裏付けられているのであって、言ってみれば、絶えず流動変化する関係のなかで自己と他者との適切な関係性を作り出していく力、日常的ではない物や他者に直面したとき、それとの距離を即座に把握し適切に行動する力としてあるのです。

 しかし、だからといって、それを難しく考える必要はないので、それは私たちが、他者と付き合い、折り合っていく際に日常的に必要としている力でもあります。それは、まず第一に、自分と他者との資質(性格や感情の傾向)を直感する力としてあり、第二に、そのお互いの資質の違いに対して距離をもって眺めるだけの余裕(冷静さ)としてあります。そして、その上でようやく、私たちは、他者との距離を埋めるためには何が必要なのかを考えるために、「論理や知識」など、第三の力を呼び出しはじめることになるのです。

 しかし、だからこそ、「文化」の穴を「教育」で埋め合わせることはできないということは肝に銘じておかなくてはなりません。いや、逆に言えば、この第一と第二の力(自/他の把握+余裕)に支えられていない「論理や知識」は害悪でしかありません。それは、他者に対する〈距離=節度〉を見失っているがゆえに、ときに自虐的な知性(サヨク?)や、異常にナルシシスティックな知性(ホシュ?)へと堕していきます。この国の「知識人」が、いつも卑屈であったり、尊大であったりする理由も、おそらくそこにあります。

 彼らは、自他の資質を把握できないがゆえに、自己に対しても他者に対しても距離がとれません。距離がとれないから、他者に適切に近づくことができない。近づくことができないから、その間を無理に埋めようとして「論理や知識」を暴走させてしまう。そして、頼るべきものが「論理や知識」しかないから、それらを「権威」としてしまうのです。

 だから福田恆存は、こう言うことになるのです。今日、「高い教育を受けた人ほど教養がなく、現代文明の先端をいく都会人ほど教養がない。そういいきってさしつかえないものがあります」と。そして、それに比べれば、電車内で、「窓を開けたいと思うが、迷惑ではないか」と丁寧に聞いてきた、「おそらく小学校くらいしか出ていない」老女の方が、ずっと「文化」を身につけているように見えるのだと。なぜなら、彼女には、見知らぬ他人に対する適切な配慮が、他者に対する適切な畏れの感覚(距離感)があるからです。

 なるほど、私自身も、これまで掃いて捨てるほどの「偏差値エリート」と出会ってきましたが、「無学」だった祖父ほどの存在感を持った人にはほとんど会ったことがない気がします。幼くして父(曾祖父)を失くした祖父は、小学校しか出ない身で戦争に行き、シンガポールで腹に銃弾を受けて帰国し、その後は、その不自由な体でなんとか働きながら、息子(私の父)や、自分の弟たち(私の大叔父たち)までをも大学に上げたという人でした。

 今なら、愚痴の一つや二つ出てきてもおかしくない境遇ですが、愚痴どころか、祖父は自慢さえ口にすることがなかった。さすがは戦前生まれだと言うべきかもしれませんが、私の記憶に残っているのは、その語り口の穏やかさと、いざというときの腹の座り方です。それは、「サヨク」の饒舌とも、「ホシュ」のヒステリーとも無限に遠いものでした。もちろん、その寡黙さは、祖父の「無学」に起因しているのかもしれませんが、少なくとも、その穏やかな態度が、私に他者への適切な畏怖感を教えてくれたことだけは確かです。

 しかし、では、どうして私たちは、これほどまでに「常識」を失くしてしまったのか。私には、敗戦による過去の否定と、〈九条―安保〉体制と馴れ合いながらの高度成長、それによる「歴史」の忘却ということが大きく影響しているとしか思えません。

 「歴史」を失ってしまえば、記憶喪失の個人の場合と同じで、私たちは自信をもって「生き方」を育てあげることができません。「生き方」を見失えば、「論理と知識」の使い方も分からなくなってしまう。さらに、その使い方も分からないままに膨大な「論理と知識」を背負い込めば、それを重荷として、小人はイライラしてきてしまいます。そして、そのイライラが募れば募るほど、他者に対する適切な距離感=常識を失ってしまうのです。

 こうして戦後社会は、これほどまでに「醜悪」になってしまったわけですが、しかし、嘆いていても仕方がありません。この「醜悪」さから身を守りながら、いかに、それと付き合っていくのか、それこそ私たちの「常識」が問われてくるところなのだと思います。

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