こんにちは、浜崎洋介です。
前回のメルマガでは「文化」は「教育」では身につかないという話をしておきましたが、せっかくなので、今回も「文化」についての話を、もう少し深めておきたいと思います。
実は、イギリスの文芸批評家のT・S・エリオットも、「教育」と「文化」の差異について、興味深いことを語っていました(ちなみに彼が立ち上げた雑誌が『ザ・クライテリオン』でした)。たとえば、エリオットは、『文化の定義のための覚書』(照屋佳男、池田雅之監訳)のなかで、人工的に整備される「文明」(教育制度)に対して、その人工性ではどうにもならぬ「文化」(真の教育)の本質を次のように説明していたのです。
すなわち、「文化の諸条件は人間に『自然発生的に』生じる」のと同時に、だから「文化」は「個人の自己修養に関わりがあるものとして扱われるときは比較的理解しやすい」のだと。
どういうことか。
エリオットの言葉は、基本的に「文化」(カルチャー)の語感のなかかに「カルティベイト」、つまり「自然」の栽培、耕作のニュアンスが含まれていることを前提にしています。そして、人の「人格」を育て上げる「教育」の営みも、本質的に、この「カルティベイト」の感覚に基づいていなければ無力であると言っているのです。
実は、それに因んで面白い比喩を語っていたもう一人の文学者がいました。
日本の文芸批評家の小林秀雄です。
たとえば、「文化について」(昭和二十四年)というエッセイの中で、小林は、「文化」の仕事を、リンゴの樹を栽培し、育てることとして語っていたのです。
リンゴの樹は、人が気候を読んで手入れをしたり、肥料を工夫したりすることで、どうにかしてあの赤い実を実らせることができるわけですが、しかし、その樹を伐って、たとえば家を作ったり下駄を作ったりすれば、もうそれは「カルティベイト」とは言えない。なぜなら、実を実らせることは、元々リンゴの樹のなかにあった素質を人の手を借りて実現させることですが、下駄の方は、リンゴの樹に内在している素質(生命力)とは関係していないからです。つまり、下駄は「自然発生的」ではないということです。
ちなみに、この〈カルチャー=カルティベイト〉論は、そのまま日本の近代化論にも応用が利くものとしてあります。たとえば、夏目漱石は、この「文化」と「文明」との差異を、日本における「内発性」と「外発性」の問題として次のように語っていました。
「西洋の開花は内発的であって、日本の現代の開花は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出て発展するという意味で丁度花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水の如く自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います。」「現代日本の開化」明治四十四年
漱石は、近代化した日本は、自らの素質のなかにはない「西洋文明」を外から無理やり接ぎ木してしまったがゆえに、「自己本位の能力」(強い生命力、自信)を失ってしまったと言います。そして、それゆえに、近代日本人は、「どこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません」と言うことになるのです。
つまり、どんなに多くの知識や論理を外部から取り入れても、それが自分自身の素質を育てるものになっていなければ、人は「自信」を失って行ってしまうものであり、また、それゆえに、自分自身の「生き方」や「人格」を完成させる可能性のない知識や論理は、「文化」にとっては、むしろ害悪だということです。
私は、ここにこそ、明治以来、日本人が抱え続けて来た「空虚の感」(ニヒリズム)の原因があり、また、近代日本の「教育」が空転してきたことの原因があると考えています。が、いずれにせよ言えるのは、「外からおっかぶさった他の力でやむをえず」なされた教育では、「考える」ことの喜びは、これから先も間違いなく得られないだろうということです。
ところで、小林秀雄によれば、「かんがふ」という言葉は「かむかふ」の音便らしいのですが、「か」を強調音として考えれば、「むかふ」とは「身(む)」と「交(か)ふ」の合成語らしい(「考えるという事」昭和三十七年)。つまり、「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験」を指すということになるのです。
しかし、だとすれば、外から強制された知識や観念、つまり、物と親身に交わらない概念語――民主主義・平和主義・自由主義・LGBT・フェミニズムetc…――を操作することを何よりの価値としてきた「教育」こそが、むしろ、この国の「文化」――つまり、自然をカルティベイトすることによって自然(物)と交わっていくことの喜びを壊し、また、この国の言葉を「混乱」させてきたものの中心にあるものだとは言えないでしょうか。
昨今の「教育改革」によって「文学部」が潰され、その代わりに「国際文化学部」などという噴飯ものの学部が多数生まれてきていますが、しかし、それも今では、かわいく見えてくるほどに歯の浮いた言葉たち――「スーパーグローバル教育」やら「早期英語教育」やら「アクティブラーニング」やらについてのお喋りが、教育界ではまかり通っています。
まず、この言葉たちの、物と親身に交わることの喜びを一ミリも知らないであろう軽薄な姿を見てください。ここには、「自然発生的」なものを引き受けようとする覚悟も、それを基に「個人の自己修養」を成そうという気概も何もない。あるのは、「自己本位の能力」を失いながら、ますます高まっていく不安とエゴイズムと空虚の感のみです。
果たして、今こそ、私たちは江戸の知識人たちが「独学」から身を起こし、それゆえに、まさに国際的にも通用し得たという事実を振り返っておく必要があるのではないでしょうか。いや、少なくとも「学問」とは、まず「物と親身に交わる事」の喜びによって支えられていることの事実を想い出さなくてはなりません。それだけが、私たちの「文化」を、まさしく「生きたもの」にしてくれるものなのですから。
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