2011年に東日本大震災が生じて以来、
国土強靱化やデフレ脱却などについての
「国内の実践問題」に積極的に従事する代わりに、
それまで一定の時間を割いていた
国際的な学術活動を取りやめました。
・・・ですがこの度、昨今の「諸状況の変化」も鑑み、
本年より、国際的な研究活動を一部、
再開することといたしました。
ついてはこの度、当方の心理学研究の拠点だった
スウェーデンのある大学からオファーを受け、
実に7年ぶりに(!)海外出張に行ってまいりました。
https://www.kau.se/ctf/samverkan/samverkan/natverk-och-samarbetspartners/ander-visiting-professorer
彼の地では5日間だけの短い滞在でしたが、
日本の政界やメディア界、学界の諸々を忘れ(失敬!)、
古い仲間達やかつての指導教官達と、
純粋に研究だけに従事するその日々は、
実にすがすがしい時間となりました.
その研究成果はこれから、
学術誌上で公表してまいりますが、
今日は、飛行機で観た映画についてお話したいと思います。
・・・まず、行きの便で、クリント・イーストウッド監督の最新映画、
『15時17分、パリ行き』を観ました。
この世知辛い世界の片隅でマジメに生きてきた「心ある人々」が、
テロリストからパリの人々を救い出すという、実話に基づくお話。
この素晴らしい映画についての詳細は
柴山さんの解説をご参照頂くとして・・・
https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180313/
今日は、帰りの便で観た、
同じくクリント・イーストウッドの90年代の映画
『マディソン郡の橋』についてお話したいと思います。
「恋愛」しかも「不倫」の映画と聞いていましたので、
良いとは聞いていたものの、半信半疑だったのですが―――、
見終わってもその衝撃をいつまでも覚えている程に
本当に素晴らしい映画でした。
この映画で登場するのも、
この世知辛い世界の片隅でマジメに生きてきた「心ある人々」。
その詳細は、全編を観て頂くしかありませんが、
平凡な主婦であるメリル・ストリープが、
夫と子供達が不在にしていた四日の間に、
彼女の家の近くの橋(マディソン郡の橋)を撮影しにきた
カメラマンのクリント・イーストウッドに巡り会います。
ごく自然な会話と流れの中で、
惹かれ合い、恋に落ち、結ばれます。
しかしその時間も四日で終わります。
そして、クリント・イーストウッドは、
最後に彼女に、こう言います。
「今から言う言葉は、これまでに言ったことが無い、
そして、これから二度と言うことは無い言葉だ。
これは生涯に一度きりの確かな愛だ」
でも彼女は、彼と家を出ずに、
家に留まることを決意します。
そして、もう二度と彼と遭うこともなく、
彼女は家族とともに過ごし、
彼女の夫の死を見届け、その生涯を終えます。
・・・そして彼女の死後、
彼女の弁護士が、
彼女の子供達に遺言を伝えにやって来ます。
その遺言の中で、
その「永遠の四日間」の真実が子供達に伝えられます。
そして彼女はその遺言を通して、
自らを火葬にして、その灰を、
その「永遠の四日間」をもたらした、
あの「マディソン郡の橋」に撒いて欲しいと
子供達に懇願します。
つまり彼女は、「彼女の生涯」を家族に捧げ、
「彼女の死後」をあの四日間の彼に捧げんとしたのです。
・・・・
筆者は、2014年に出版した学術書「大衆社会の処方箋」にて、
我々の精神が俗悪なるもの堕落すること(=大衆化)を避けるには、
「独立確保」と「活物同期」が求められると論じました。
http://amzn.to/1i93IiW
それはつまり、我々の精神を堕落させる、
「死物」から我々の精神を遠ざけ、
独立を確保する(独立確保)と同時に、
生き生きとした活力ある存在、つまり「活物」に、
自らの精神を同期させること(活物同期)が、
私達が生き生きと活力ある形で生きていく上で
何よりも大切なのだ、という話です。
いわば、保身や出世やカネの事ばかり考える、
コスい小汚い奴らからは「距離を置き」、
時に、彼らからの「隷属圧力」から全力で「逃走」し、
本当に美しいものや善きことを大切にしながら
活き活きと生きている人々や芸術、
さらには、大自然や大いなる大地に、
自らの精神を「同期」させ、
共に生きていくことが大切なのだ――
と言う話を、ヘーゲルやニーチェ、キルケゴールやオルテガ、
ハイデッカーなど、様々に「生の哲学」を語った人々の
て議論を踏まえて、論じたわけです。
・・・しかし・・・
一体何が活物で、何が死物なのかを、
いつも明晰に判断できるとは限りません。
メリル・ストリープにとっても
クリント・イーストウッドにとっても、
間違い無く、お互いの存在こそが「生涯最高の活物」でした。
しかしだからといって、
彼ら二人の「日常」は、下らない、
逃走すべき「死物」だったとも
必ずしも言いきれはしません。
だからこそ、メリル・ストリープは、
彼を捨て、あの退屈な日常に舞い戻ったのです。
一方で、その四日間は「四日間」であったからこそ、
「永遠」となり得たものの
仮にそれがさらに長かったとしたら、
あの輝きがいつまでも持続していたかどうかは分かりません。
つまりこの世の「死物」と「活物」は、
時に、容易に区別できるとしても、
時に、その区別は至って難しいのです。
・・・しかしだからといって、
「死物を忌避し、活物を求める努力」を
辞める訳にはいきません。
だから、そんな努力を決して辞めない人達を
「心ある人間」と呼ぶとするなら、
時に距離を置いたり、時に距離を縮めたり、
あるいは、時に逃げたり時にやり直したり戻ったりーー
そんな旺盛なトライ・アンド・エラーが、
「心ある人間」の短い人生の中で、
幾度も求められるのです。
メリル・ストリープとクリント・イーストウッドの場合は、
二人に死が訪れるまで「やり直すこと」を回避しました。
しかし、例えば、筆者の場合なら、
今まで「活物」と見なして同期せんと志してきた
日本の政治や行政や世論の「死物」性に着目しつつ、
その距離を改めて見直し(独立確保)、
当方が七年間、回避していた
国際的学術的界の「活物」性に着目し、
その活動の自らの心身を一定委ね始める(活物同期)、
―――という程度の「調整」は、
限られた時間と能力をしか持たぬ我々人間にとっては、
一定必要なのではないかと、思います。
(そしてそれと同じ事は無論、
「言論誌」の編集や「言論活動のあり方」、
さらには「師匠と弟子」を含めた
あらゆる人間交際についても言えるでしょうし、それこそが、
あるべき「保守」の態度と振る舞いなのだと思います)
でも、そんなトライ・アンド・エラーができるのも、
「永遠」と思えるものの光なり影なりを、
その心で確かに感じ取ることができる「力」があるからに他なりません。
それはつまり、活物を確かなる活物と感得できる心の力です。
メリル・ストリープとクリント・イーストウッドは
確かにその力を持っており、だからこそ、
その四日間の中にその「光」を確かに感じ取ることが
できたのでしょう。
だから私達は、そんな光を見いだす力を磨きながら、
日々、様々なものと距離を取ったり縮めたり、
時に逃走したり舞い戻ったりしていく他ないのでしょう。
・・・・それにしても、良い映画というものは、
実にいろいろな思いを想起させてもらえるものですね。
この映画を紹介頂いた方に、
心から感謝の意を表したいと思います。
読者の皆様におかれましても、
時に雑誌やメルマガを読みながら、
時にあれこれ映画や音楽に幾ばくかの時間を使われるのも
いいかもしれませんね。
追伸1:
わたしたちが現実的に同期しうる最大の活物こそ、「ナショナリズム」です。是非、本誌新刊の「ナショナリズム特集」、じっくりお読みください。
追伸2:
そのナショナリズムについて、KBS京都の「週刊ラジオ表現者」で、30分間しっかりお話しました。是非、下記からご聴取ください。
https://the-criterion.jp/radio/20180618-2/
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コメント
この映画、遅ればせながらつい先ほど視聴しました。
凄く良い映画でした。
柴山先生の映画の記事で勧められていたもの(『半地下の家族』、『15時17分、パリ行き』)も良かったです。
また映画のお勧めがあればこの他にも教えていただければと思います。
最近はコロナの影響もあり、家で過ごす時間が増え、アマゾンプライムに入っている人も増えたと思うので、以前より反響は大きく出るのではないかと思います。
どうぞよろしくお願い致します。