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【浜崎洋介】知るためには捨てよ――すき間に育つ「智力」について

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 前回のメルマガでは、戦後日本の〈ナルシシズム=統覚麻痺〉を乗り越えて、適切に「ナショナリズム」を考えるために、今、必要なのは「ユーモア」ではないのかという議論をしておきました。つまり、眼前の対象に眼を凝らす以上に、その対象と自分との関係を振り返り、そこにある自分の「性格」(ユーモア)を眺め、それを引き受け直すための〈距離感=余裕〉、それこそが、今、必要とされているものなのではないのかということです。 

 というのも、この〈距離感=余裕〉なき議論というのは、必ず知的貧血を引き起こすからです。対象に囚われ、自分と、自分が論じている対象とを同一視してしまうと、まず、対象に対する批判と、自分に対する批判とが区別できなくなってしまう。それゆえに言葉は、外に向かっては、ますますヒステリック=攻撃的になっていく一方で、内に向かっては、ますます固い殻のなかに閉じこもっていくという悪循環を呼び込んでしまうことになります。

 ただ興味深いのは、この〈距離感=余裕〉の議論が、政治や言論の世界だけではなく、純粋に知的な世界――数学などの世界――についても当て嵌まるらしいということです。

 たとえば、世界的に知られる数学者の岡潔は、思考における〈距離感=余裕〉の必要について、自分が体験を交えながら、次のようなエピソードを紹介していました。

「私が中学生(現在で言えば高校生)のころ、数学の試験は答案を書き終わってからも間違ってないかどうか十分に確かめるだけの時間が与えられていました。それで十分に確かめたうえに確かめて、これでよいと思って出すのですが、出して一歩教室を出たとたんに「しまった。あそこを間違えた」と気づくのです。(中略)教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直感ともよぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、心情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。」(「数学を志す人に」1963年)

 最近では、小林秀雄との対談『人間の建設』などでも知られている岡潔ですが、もとはと言えば、「多変数解析函数論」で、当時世界中の数学者のあいだで未解決だった三つの難問を一人で全て解いたことで知られていた天才数学者です。ほかにも、手を変え品を変え、岡潔は、この向こうから「光が射し」込む瞬間について様々に語っていますが、要するに、天才数学者が頼っていたのも、ある種の〈距離感=余裕〉のなかに生れてくる「智力」、つまり「緊張がゆるんだときに働く」「大自然の純粋直感」だったということです。

 しかし考えてみれば、岡潔が取り組んだような数学の難問ではなくても、似たような話はよくあります。実際、私自身も、古本屋を覗いているとき、散歩をしているとき、電車の車窓を眺めているとき、銭湯に浸かってぼうっとしているときなどに、突然、それまで行き詰っていた論文や原稿の突破口が見えてくるなんていうことはよくありました。

 そして、この経験から岡潔は、「智力」を鍛錬するには、「ちょうど日本刀を鍛えるときのように、熱しては冷やし、熱しては冷やしというやり方」が一番いいのだと言うのです。

 なるほど、頭を熱してばかりだと――つまり、ある問題(対象)に集中してばかりだと、知らず私たちは視野を狭めてしまっていることがあります。いや、何かについて考えるということは、意識的に視野を狭めることだと言うべきです。事実、視野を狭めない限り――無限の宇宙からある有限な一領域を切り取らない限り――私たちは思考することさえできません。しかし、それは同時に、自然の一部を敢えて切り落としていることを意味しています。

 だから、頭は熱し過ぎてはならないのです。自分が切り取った図式(規則)に自分自身が囚われてしまえば、逆に自然からの多様なメッセージは聴き取れなくなってしまう。「自分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくる」というのが本当なら、その「働きかけてくる」智力に対して、私たちは、身を開いておく必要があるのだということです。

 しかし、それなら人は、「知性」を身につける前に、まず他者(自然)に対して身を開くことのできる「信頼感」を養っておく必要があるということになりはしないでしょうか。その「信頼感」のなかでこそ、人はようやく「自然の純粋直感ともよぶべきもの」を受け取ることができるのだとすれば、頭を熱してばかりの「知性教育」は、人間の「智力」の発達にとっては、むしろ有害だということにもなりかねません。「人は壁の中に住んでいるのではなくって、すき間に住んでいるのです。むしろ、すき間でこそ成長するのです」。

 果たして、だからこそ、「待つ」という態度が大切になってくるのではなかったでしょうか。たとえば、ボタンが花を落とすと同時に木の中につぼみを作り、それを芽吹かせるまでにまた一年間の時間を「待つ」ように、人の「直感」も、それが自然(他者)との交わりのなかにつぼみを作り、熟し、「知性」を纏って芽吹いてくるまでには、長い時間を「待つ」必要があるのです。「本を読むことより、本を読みたいと思うことのほうが大切」なのです。

 ところで、先ほど触れた小林秀雄との対談『人間の建設』(新潮文庫)ですが、その末尾は、岡潔の次のような言葉で締め括られていました。

「理性というものは、対立的、機械的にしか働かすことしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。(中略)われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわらない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり、理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということが分からない。」

 ということは、現在の「知性教育」は、ますます「自分が泳いでいるということが分からない」ような魚ばかりを育てているのだということになるのかもしれません。「知るためには捨てよ」という言葉の意味は重いと言うべきでしょう。

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