『表現者クライテリオン』では、
読者の皆さんからの積極的な「投稿」を募集しています。
https://the-criterion.jp/about_letters/
・・・というのも、今から約15年程前、
当方が「書き手」としては、「学術論文」しか書いたことが無い時代に、
「言論活動」を始めたきっかけを与えてくれたのが、
当時の雑誌「発言者」の投稿欄だったからです。
つまり、今、当方は『表現者クライテリオン』はじめ、
様々な場所で、公的に発言する機会が増えましたが、
そのきっかけを与えてくれたのが
「発言者」の投稿欄だったわけで、
こういう場を設けておくことは、
次世代にとっても大切なのではないかと―――思ったからです。
今でもその時に掲載してもらった原稿は、
当方のホームページでご覧頂けますが・・・
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/wp-content/uploads/2013/09/inutsu.pdf
今、ざっと読み返してみても、
不思議なもので、一文一文、
「そうそう、こういう文章かいたよなぁ」
とはっきりと思い出すことが出来ます。
それだけ「一文一文、一生懸命書いた」からなのだと思いますが、
なぜ、そんなに「一生懸命書いた」のかと言えば、
それが喫茶店や居酒屋での冗談話ではなく、
「雑誌」という「公器」に掲載され、
活字という形で半永久的に残りうるものとなるから――です。
万一、そこで、間違った事を書けば、
「恥」が半永久的に公衆に「曝され続ける」
ことになります。
そうなれば、当方は人前でもう二度と、
偉そうに自説を開陳するなんてことは、
出来なくなるでしょう。
だから言論というものは、本来、
「(言論人としての)生命」を賭した命がけの行為―――
なわけです。
・・・というような事を、
当時の「寄稿」を通して初めて学んだわけです。
さて、当時の原稿を読み返して思い起こしましたが、
当時の当方の「気分」は、次のようなものでした。
―――そもそも、筆者は当時、
職場にいってもテレビを見ても映画を見ても、
「大人の世界」はウソとゴマカシが実に多く
何とおぞましいものかと日々、感じ続けていました。
しかも、彼らが「悪人」として見なされているならまだしも、
「普通の人達」こそがウソとゴマカシにまみれた
凄まじく野蛮な振る舞いに日々従事しているわけで、
しかも、そういう輩に限って、
高く評価されたりしていた訳です。
そうした人達の振る舞いや、
彼らが評価されるという状況それ自身の野蛮さに、
当方は日々、「愕然」とし「辟易」し続けていました。
そんな気分で生きていた時、
その鬱屈した不満を表現し、発言する
「言論誌への投稿」という行為は、
筆者のそのストレスを「建設的に成仏」させる、
うってつけの「公的振る舞い」となったのです。
なぜなら、その不満の論理的背景を描写して見せることは、
蓄積された「ストレス」をエネルギーとして活用しつつ、
1)この世の不条理の構図を分析し、
2)その分析内容を、公衆に向けて「分かり易い形」で公表し、
3)皆の「不条理の構図の理解」を促し、
4)それを通して、「その不条理の構図の改善」を果たす、
という「公共的」な実践活動を行うものとなったからです。
すなわち当方にとっては、
「言論活動」には、
私的な意味でも公的な意味でも、
半ばそうせざるを得ない必然性があったわけです。
逆に言えば、「言論活動」という「公的活動」に
当方が巡り会うことが無ければ、
この世間の中で居心地の良く生きていくことができず、
もっと激しい不満を抱え続けたまま生きていたかもしれません。
もちろん、本来なら「学術活動」だけでも、
不満無く楽しく従事できた筈で、
筆者は子供の頃からそれを夢想し、
それなりに努力して大学教員になり、
様々な学会で研究活動を続けたのですが―――
残念ながら、今や世間の腐敗は、
「学術界」にも深く及んでおり、
そこはユートピアでも何でも無かったのです(苦笑)。
そういう意味で、筆者は、
「言論」というものを教えて下さった
「表現者」という言論空間、
そしてそれを作られた西部先生には、
心から深く感謝しています。
そしてこうした認識から、
後期の「表現者」では休業していた「投稿欄」を、
この度「復活」させることにしたわけです。
―――以上は筆者が「言論」を行いはじめた必然性を
一例としてご紹介差し上げたわけですが、
言論を行う必然性は筆者のそれ以外にも、
様々にあり得ると思います。
そうした方々が、
少しでも「息をつく」ことができる
自由な空間を拡げるためにも、
本誌表現者クライテリオンは、
(原稿料をお支払いする)いわゆる「プロの書き手」に加えて、
「一般の方々からの言論」を広く受け付け、
掲載いたしたいと考えています。
こうして自由な言論空間が活力ある形で広がっていくことだけが、
今の日本、そして世界の「閉塞」を打開する、
唯一の道となるに違いありません。
是非とも、本メルマガ読者の皆さんも、
メルマガや本誌の原稿をお読みになる事に加えて、
「ご投稿」もご検討願えますと幸いです。
追伸1:
最新号のご寄稿は、下記よりご覧頂けます。
https://the-criterion.jp/about_letters/
例えば、馬場慎一郎さんは「世間の議論の多くが次元の違う事をごちゃまぜに論じている、だからこそ議論が混乱しているのだ」と指摘し、神下正弘さんは「今や森林は、政府の緊縮のせいで手入れが出来なくなっており、激しく荒廃しつつある」と警告を発しておられます。
福谷啓太さんは「観光地でバシャバシャとスマホで写真を撮り続けるという光景」に対して、滝脇道弘さんは日常の中で見る、父と子の弛緩しきった関係性の情景」に対してそれぞれ違和感を描写しておられます。その他にも様々なご投稿を頂いています。ご関心のものがあれば是非、お目通しください。
追伸2:
先週の「週刊ラジオ表現者」は、日本はアメリカの属国に過ぎない――という事を暗示する「戦後文学」についてお話しました。是非、お聴き下さい!
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=xDDL2zTrpQw
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コメント
新型コロナは重症化コロナに
言葉の内容を正確に伝えることは非常に大切です。
例えば、現在蔓延中の疫病名として政府は、「新型コロナ」と何の根拠も国民に示すことなく、あっけらかんと昨年春命名されました。この疫病の国際的な公式名称は【重症急性呼吸器症候群コロナウイルス】(SARS-COV2)のはずなのですが、「新型コロナ」の新型に相当する文字が公式名称表記のどこを探しても全く見当たらず、何を根拠に新型としたのかは推察の域を出ませんが、仮に「2」を新型と解したとするならば余りにも政府の命名法は杜撰すぎると言えないでしょうか。
亡くなられた方には、ご冥福を申し上げますが、なぜ蔓延が収束しないのでしょうか。私には「新型コロナ」と聞けば懐かしの車メーカーの名前としか思えません。そして根拠のない「新型」を病名に冠したところで、疫病の怖さなど国民に全然伝わりません。こんな「新型」という杜撰な命名こそが収束しない要因だと確信しています。その確信の理由ですが、世の中というものは悪因悪果、善因善果の理にて動いているからだと言えないでしょうか。もちろん他にも、収束しない複合的要因があることも考慮されますが、昨年春の時点で、発生国中共への政府の忖度で、非科学的根拠のいい加減な病名を付けた(悪因)から、現在のパンデミックを招いている(悪果)ともいえるのではないでしょうか。
人間は、日常的に「新型」を繰り返し見聞きするのと、「重症」を繰り返し見聞きするのとでは、どちらが疫病の怖さをより強く自分の潜在意識に刷り込めるかは、申し上げるまでもなく後者であります。政府といえど、過ちては改むるに憚ることなく、可及的速やかに公式名称の「重症化(性・型)コロナ」に改称あれば、より多くの国民の、この疫病に対する危険回避意識がアップされて、その意識がひいては在宅(自粛)率アップにも必ずや繋がるものと信じています。
今のステージに至っては、一刻も早い蔓延収束のために、政府による、あくまで科学的根拠に基づく、そして発生国への忖度一切なしの、そして疫病の怖さが一目で誰にもわかるための、そして一人でも多くの国民を救うための、「新型コロナから重症化コロナへの改称」宣言が絶対に功を奏するものと思います。難敵ウイルス戦争での「兵站」のなかでは、海外のロックダウン作戦や所得補償・粗利保証作戦ももちろん大事ですが、それらと比べて財源のかからない点では比較的実行容易な「改称宣言作戦」といえるかもしれません。
藤井先生
初めまして。
偶々4月下旬ごろ、今迄聞いたことも無い「ラジオ京都」で先生の歯切れの良いお声を、「僕らの仲間のウイルス研の人たちも致死率考えたらね、恐れることないですよ。。。。。云々」と耳にして我が意を得たりでした。番組の中で編集長と呼ばれている??どなたか不明のまま5月にやっとネット検索で「クライテリオン」にたどり着きました。
以下一市民として日頃の感想をここに投稿させて頂く有難い機会を得ました事感謝申し上げます。
資本主義というのは持続するためには、絶え間なく人々の心に欲望を掻き立て続けなけらばならないものだと思いますが、そうですか? 経済の門外漢の私の質問です。
新幹線こだま、ひかり、のぞみ、で次はリニア新幹線。。。。その次は宇宙旅行?
世代は変わりますから、リニア時代に生まれた子供は何の乗り物を希望するのでしょうか? これが人類の進歩なのでしょうか?
懐古趣味でしょうが、50年前に訪れたホノルルはタラップに立つと現地女性がかぐわしい花のレイを首に掛けてくれてパイナップルジュースのコップを差し出してくれました。夕方になると女性は正装のムームーに着替えトロピカルナイトがスタートしました。
所が今はどうでしょう!ワイキキビーチでは芋の子洗うイタリア人の多数がピッツアをほおばり、夕方からは林立するホテルというホテルの壁には娼婦達が立ち並んでいます。50年前スイスアルプスではペンションのマダムは夕食にはドレスに着替え客人に挨拶して回り優雅な時間を満喫しました。ドイツでは重いスーツケースは一度も自分で持ったことはありませんでした。老若男性が手伝って運んでくれました。コートは小学生の男子までもが着せ掛けてくれました。女性を大事に扱う文化習慣がありました。
所が10年前に久しぶりにスイスのルツェルンに行くと中国人が多数いてホテルのロビーで即席ラーメンを啜って絨毯の上には食べ散らかしたゴミが散乱していました。
現在のこういう変化が人類の進歩でグローバル化の結果なのでしょうか?
私達は一体何を得て何を失ったのでしょうか?スマホは便利だと皆が言います。スマホ中毒という言葉は存在しますか?文部省の女性が言っていました。「ビルゲイツやSNSの創始者たちは大人を中毒にして画面を見ずにはおれないように作っているから自分たちの子供を中毒から守るためにスマホは金庫に置いている。」と。
それを聞いて私は昆虫学者の話を思い出しました。外来種のある種のハチは日本でテントウムシの体に針を刺す。するとテントウムシの脳細胞は完全に破壊されて本能だけが残り、ひたすら天敵のハチの幼虫をお腹に抱えて育てて羽化まで必死に保護する。これを何度も繰り返す。哀れな残酷物語です。こう考えられませんか?人間もスマホ中毒にさせられ、脳細胞を破壊されて思考停止で本能の食欲とゴシップ好きが残り、飽くなき美食を求め、ネットでゴミ情報を求め続ける。ラーメン屋の前に3時間並ぶ若者の姿を見ます。電車の中で下を向いて指を動かし画面に食い入るように見つめ周囲の人間も風景もを眺めることもせず、ある時は自分の頭上の満月を仰ぎ見ずにスマホ画面の月を夜道下を向いて眺めています。所でアメリカのアーミッシュという団体は開拓時代の生活を頑固に守り通して暮らす集団です。電話なしの生活に「不便でしょう?」と尋ねると「電話が便利なのは分かります。でも電話を持つと人々は互いの家を訪問し合わなくなりますから。」と答えたとか。私はいつもこの話を思い出すのです。世間では人類の進歩とよく言います。私は良くわかりません。バカになったようにも思うのですが。どうか良き回答を待っております。