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【浜崎洋介】「倫理と道徳」の違いについて――35歳ネオパンSSさんからの質問にお答えします。

From 浜崎洋介(文芸批評家) 

「倫理と道徳」の違いについて――35歳ネオパンSSさんからの質問にお答えします。

 こんにちは、浜崎洋介です。

 今日は久しぶりに、35歳・ネオパンSSさん(以下、ネオパンさんと呼ばせて頂きます)からの「道徳と倫理の区別について」というご質問にお答えしいたいと思います。

 ネオパンさんは、日々看護師として働くなかで、「患者さんにとって…倫理感の高い看護師であれ」と聞くと違和感がある言います。というのも、「倫理」とは、決まり切った「べき論」ではなく、「その時々の状況によって常に振れ幅があり、一般的に不道徳と批判されるような倫理的な判断も存在する」からだと仰います。そして、そうであればこそ、「倫理的であれ」と言われる度に、「今はまず供給能力の改善をどうにかしてほしい」と思ってしまうのだが、これについて編集委員の意見を聞かせてほしいとのことです(質問文は最後に掲示)。

 なるほど、「倫理」と「道徳」の違いというのは、よく話題に上る主題です。

 ただ、その語源を見ると、ギリシア語起源の「倫理」(ethic)も、ラテン語起源の「道徳」(moral)も、どちらも「習慣」「風習」という原義から発生していて、目立った違いはありません。が、ネオパンさんが感じておられる「倫理」と「道徳」の違いが、日本人の生活感覚に根差したものだというのも確かだと思います。それは、もしかすると、小中学校の「道徳教育」と、高校大学の「倫理学」との違い、あるいは、儒教からきた「道徳」という言葉と、近代以降に訳された「倫理」という言葉との違いなども影響しているのかもしれません。

 いや、この「倫理」と「道徳」の違いは、言葉の表面的な意味を超えて、おそらく人類始まって以来の問題、私たちが無意識に感じ続けている人間的葛藤の問題でもあります。

 事実、それは文学・哲学のメインテーマでもあり続けています。キリスト教教団の教義学(掟)と、イエス個人の生き方の違い――それを小説化したのが「大審問官」と「イエス」との対決を描いたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』です――、『宗教と道徳の二源泉』でベルグソンが描いた「静的宗教」と「動的宗教」の違い、あるいは、ウィトゲンシュタインが最後まで問い続けた「語り得るもの」(規則)と「示されるもの」(飛躍)の違いなどなど…、一般的「道徳」と個別的「倫理」の差異についての議論には果てがありません。

 が、ここでは一つ分かりやすい例を出しながら、「道徳と倫理の違い」について改めて考えておきたいと思います。その例というのは、ヘーゲルが「道徳」と「人倫」との違いについて考えたときに呼び出した悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネー』です(ただしヘーゲルの場合、一般的共同体的なものが「人倫」と呼ばれ、個別的主観的なものが「道徳」と呼ばれていますが)。

 ちなみに、『アンティゴネー』のあらすじは、次のようなものでした。

 国の掟を破って、愛する兄ポリュネイケスの亡骸を埋葬したアンティゴネーは、クレオン王から死を言い渡されます。が、ポリュネイケスの屍によってテバイの国が穢されるという予言を聞くと、クレオンは前言を撤回。死体を埋葬し、アンティゴネーを獄舎から出そうとします。しかし、時すでに遅し。獄舎でクレオンが見たのは、縊れ果てたアンティゴネーと、許嫁であったアンティゴネーに殉じた息子ハイモンの変わり果てた姿でした。そして、息子の死の報せを聞いた王妃エウリュディケは、クレオンを呪いながら一人自害していきます。
おそらく、ここには永遠に解けない人間の〈二つの顔〉が描かれています。

 一つは、国家の威信と秩序を守るために、国家反逆者であるポリュケイネスの埋葬を禁じようとするクレオン王(善き国民)と、もう一つは、国の掟を破ってでも、兄=ポリュネイケスに対する愛情に殉じようとするアンティゴネー(善き個人)です。

 もちろん、これはどちらが正しいかという話ではありません(だから悲劇なのです)。実際、私たち自身も多かれ少なかれ、この二つの顔を使い分けながら生きています。よく言えば、「均衡」を求めながら、悪く言えば、二つの顔を曖昧にだぶらせながら生活しているのです。しかし、この「均衡」が破れないという保証はどこにもない。言い換えれば、いつでも人は、共同体からの「承認」(公共性)と、自らの「生き方」(私情)とのどちらかを選ばなければならないような状況の前に立たされる可能性生があるということです。

 人は、人生のなかで度々、そんな「あれか、これか」の状況に立ち至ることがありますが、そんなとき、いつも私が思い出す言葉があります。『アンティゴネー』の翻訳者(新潮文庫版、英訳からの重訳)でもある福田恆存の次のような言葉です。

「再び問ふ、私たちはたとへ軍人でなくとも、善き国民として「自分を超えたもの」即ち国家への忠誠心を持たなければならない、同時に、善き人間として「自分を超えたもの」即ち、良心への忠誠心をもたなければならず、その両者の間に対立が生じた時、後者は良心に賭けて前者と対立する自由がある、たとへその自由が許されてゐない制度のもとでも。とはいへ、前者の忠誠心は目に見える仲間、同志の集団に支えられてゐるのに反して、後者の忠誠心は、目の前には見えない、後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識そのものを信ずる以外に法は無い。が、それさえ信じさへすれば、自己疎外だの、身元保証などと言って辺りをうろうろ見回す必要はあるまい。〔中略〕過去と黙契を取交わしてゐる以上、連続性、一貫性は自づと保たれている。」「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」『国家とは何か』文春学藝ライブラリー

 この「後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識」とは何でしょうか。私自身は、それこそ既定的な「道徳意識」とは違う、「倫理」の力だと考えています。

 たとえば、ハイデガーは「ソフォクレスの悲劇作品の数々は、もしもおよそ比較を許されるとすれば、その発言のなかに「エーティク」〔「倫理学」〕に関するアリストテレスの講義よりも、もっと原初的に、エートス〔住ミ慣レタ場所・習慣・気質・性格〕という事柄を含蓄させているのである」(『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳)と書いていますが、まさしく「倫理」(ethic―ethos)とは、そのように「住み慣れた場所」に根差すことで、「自らを超え」て動き始める力、「自ずから然らしむる」ように働く力ではないでしょうか。
我が身を犠牲にしても子を守ろうとする親、法を破っても、なお土地や歴史や他者との絆を守ろうとする個人。それらは、決して特別な「力」なのではなく、東日本大震災のときもそうでしたが、私たちの平凡な「暮らし」の内側から突然湧いて来る「力」なのです。

 いや、だからこそ私たちは、内発的な「生の力」(倫理)と、人為的な「べき論」(道徳)を区別しておく必要があるのではないでしょうか。もしそれを混同してしまえば、アイヒマンの例を出すまでもなく、決定的な状況=クライシスで「自分は道徳的に振る舞っているつもりで、非倫理的な行為に及ぶ人間」を大量に生み出してしまうことにもなりかねません。つまり、「倫理」という「語り得ないもの」と、「道徳」という「語り得るもの」を区別しながら、その「一線」がどこにあるのかを常に自分自身に問い質しておく必要があるということです。

 その点、ネオパンさんが、「倫理的であれと言われるたび、ならば今はまず供給能力の改善をどうにかしてほしい!」という気持は良く分かります。「倫理」が「語り得ないもの」(人為的に操作できないもの)なのだとすれば、それについて軽々に語るより以前に、まずは「語り得るもの」の領域(医療制度の枠組みや、その人員確保政策)だけでも、徹底的に、そして合理的に議論してほしいということでしょう。

 ネオパンさんの質問に正確に答えられたかどうかは心もとないですが、以上が私の「倫理と道徳」の違いについての考えとなります。参考にしていただければ幸いです。

35歳看護師、ネオパンSSさんからの質問

いつも楽しく拝読させていただいています。
私は35歳、看護師として田舎で働いています。

私が表現者クライテリオンを購読するようになったきっかけは、日本の医療制度について調べていたとき、村上正泰先生の書籍から西部邁ゼミナールにたどり着きました。そこでいくつかのアーカイブを視聴していると、社会の公平と公正についてがテーマの回があり、それが日頃仕事を通じて感じていた、忙しさのなかで忘れてしまうことができるけれど、度々出てきては喉に引っかかるような気がしていた疑問(うまく表現できずすみません)が晴れたような気がして、それ以来の表現者ファンです。表現者クライテリオンでは相談を受け付けていただいているということで、日頃仕事をしていてどうにも気になっている「倫理と道徳」について相談させていただきたくメールを送らせていただきます。

看護界隈では、倫理というのがここ数年ブームなのか、医療サービスの向上のために倫理観を高めよと専門誌や学会でも頻繁に取り上げられています。それらの狙いをとても大雑把に言うと「患者さんにとって良い(望ましい)、倫理感の高い看護師であれ」ということなのですが、それは、どちらかと言うと道徳なのではないか?と感じてどうにも素直に受け取れない気分にいます。

私は永井均氏が好きで、倫理というものは道徳のように絶対的に決まったものではなく、その時々の状況によって常に振れ幅があり、一般的に不道徳と批判されるような倫理的な判断も存在するという氏の話にとても関心があります。なので倫理感の高い看護師を目指せではなく、道徳観の高い看護師を目指しましょうと言われる方が納得できるように思うのです。倫理について道徳を語る、まるで聖人か哲学者のような顔をした人を見るたび、違和感を感じてしまいます。もちろん、看護師がサービス向上の為に倫理観の向上を訴えるのは、看護師に限らず医療従事者は患者さんに対し、一般的な生産者と消費者、お店とお客さんの関係以上に明らかな立場の強弱があるため、患者さんの観点を常に意識しましょうということで、それは私も重々承知しています。このようなことを相談していますが、常に道徳的な看護師でありたいと思って仕事をしています…。

正直なところ、倫理的であれと言われるたび、ならば今はまず供給能力の改善をどうにかしてほしい!が、私の本音です。
編集部の皆様からご意見をいただければ幸いです。よろしくお願いします。

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