今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを二編に分けて公開いたします。
公開するのは、仁平千香子先生の新連載「移動の文学」(第一回目)・第二編です。
〇第一編
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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この小説は、祖国と離れて生活することがいかに困難であるかという単純だが、根本的な事実をわかりやすく説明してくれる。
イチローにとって米軍に従軍することは、日本という「祖国」と戦うことであり、それは母を攻撃することを意味した。
しかし、従軍を拒否することはアメリカという「故郷」との同化の手段を失うことも意味した。「祖国」との戦いを避けても「祖国」との同化も許されず、「故郷」にももはや居場所はない。
周囲からの差別以上に、自らの罪の意識が自己肯定の手段を奪わせ、他人から差し伸べられる好意にも答えることができない。
むしろイチローは敢えて他人からの軽蔑を求めているような態度すらとってしまう。日本人への差別が根強い中、幸運にも理解あるアメリカ人から仕事口を確保してもらうも、自分には好意を受ける資格がないとイチローは断る。
問題は、社会の差別以上に、イチロー自身の内側で蝕む自己否定感なのだ。そしてこの自己否定が「故郷」と「祖国」へ帰属できない困難から生じるものであることは明らかである。
福田恆存は、文化とは過去の人々が生きた時間の中で作り上げてきた術であるという。
文化とは生き方であります。適応異常や狂気から人を守る術であり、智慧であります。
それは科学ではどうにもならぬことであり、また一朝一夕で出来あがるものではありません。
時間がかかります。
なぜなら試行錯誤的な方法しかなく、生き方は生きてみてはじめて知りうるものだからです。
が、文化があり、伝統のあるところでは、社会が、家庭が、それを教へてくれる。
さういふものであつて、個人の力でどうなるものでもない。
同時に、私たちの生き方や基準は必ず過去からやってくるもので、その文化は
「自分をその中に置いて、虛心にそれを生きてみなければ、理解すら出来ないもの」
であるという。
つまり文化とは過去と切り離して客観的に観察したり経験したりできるものではなく、その中で生きることでしか得られるものではないのだ。
イチローの母親の「適応異常や狂気」が、日本から切り離された結果であることは明瞭である。
日系移民の多くは、異国の地で祖国を再現し、またその子供たちが日本人として成長することを期待した。
しかし、日本に身を置いて生きていない子供たちに日本文化を理解させることは不毛な試みであり、また故郷のアメリカにも「適応異常」者として扱われる日々は、彼らから「生き方や基準」を築く術を奪いつづける福田のいう「文化」は、小説で使われる「wholeness and belonging」という表現と比較できるだろう。
wholeness(全体性を持つこと)とは、自分を半分ではなく一つの完成形と見ること、belonging(帰属していること)とは、今いる場所に根を張っていると感じられることを意味する。
文化に生きることは、帰属する場を持ち、時間の流れに根を張ることを意味し、結果個人は自分が存在しているという確かな感覚(自己肯定感)を得る。イチローにはこのどちらも欠けており、その事実がイチローに自己肯定の術を与えない。
イチローは家族という重荷を捨てようと家出を試みるも、家族と重ねてきた時間を無視することは間違っていると思い直す。これは福田のいう文化や伝統に呼応していて興味深い。
家族は無視できない、心や人生から払いのけることはできないし、無になることは永遠にない。(中略)
人はまったく新しい人生を始めることなどできない。
(重ねてきた)年月を否定すれば、人生そのものを否定することになる。(中略)
わかっているのは、自分は父親や母親と過去を共有しているということだ。
父母がどういう人たちであろうと、自分は父母の一部であり、父母は自分の一部なのだ(中略)。
自分はもうあなたたちとは縁を切る、などと言ったら、一部を失った人間になってしまう。
イチローは、自分は父母の一部であり、その過去によって自分の生が支えられているという。
ここでは父母との関係以上に、父母を通じて自分に受け継がれた過去を肯定することに重きが置かれている。過去の肯定(確かなものと認識)が自分に帰属の感覚を与えてくれると理解しているのだろう。
過去とのつながりが自己肯定感に必須であるという認識は、母の死に対する場面でも窺える。
覚えている限り、自分にとって母さんはずっと死んでいた。(中略)母さんはずいぶんと多くの間違いを犯した。
日本を捨てたのが間違いだった。日本を捨てアメリカに来て、二人の息子を持ったことが間違いだった。
そして、母さんがアメリカのような国でおれたちを完全に日本人にしておくことができると思ったことが間違いだった。
母の罪は日本を捨てたこと。日本を捨てなければ、母は分裂せず(wholenessを失わず)、自分も母を通して根を張る場所を見つけられたのではないか。過去から「生き方や基準」を学び、それを「計算尺」として血肉に変える機会が与えられたのではないか。そうイチローは考える。
本小説は、文化や伝統、そして歴史がいかに私たちの精神の型を形成するに欠かせないものかを思い出させてくれる。
小説の読み方に正解はないが、読まれ方はその時代を象徴する。『ノーノー・ボーイ』を含む移民文学はこれまでグローバル化が本格化する以前の、移民(他者)への非寛容さを批判する目的を持って読まれることが多かった。
今回参考にした川井氏訳が発行された二〇一六年は、トランプが新米国大統領に決まった年であり、その排他的政策への懸念と並べて本小説は紹介された。
このような読みは、多文化共生を謳い、グローバル社会のさらなる発展を望む社会を象徴する。
一方で、見方を変えて、問題の矛先を差別する側ではなく、移動したという事実に注目してみると新しい読み方が可能である。
つまり、日系人が直面した精神的困難、特に「基準」の不在は、移動がなければ経験せずに済んだのではないかということである。
イチローの苦難は人種差別問題だけでは語りきれないものがある。他人からの心無い扱い以上に、自分を「半分」だと感じるところに、イチローの病がある。
半分だと感じさせるものは、両親の文化を理解できず日本とのつながりを実感できないこと、そして法的にしかアメリカ人になれず、その人権は実質与えられていないことだ。
移動には痛みが伴う。もちろん痛みを経験することが悪いという意味ではない。それを修行として精進する人生もあり、またその経験は他人の痛みを共有する懐の深さも作るだろう。
しかし、祖国や故郷とのつながりが断たれることは、特に子供にとっては大きな負担になる。過去の日系人が耐え、つないでくれた時間から、私たちは学ぶことが多くあるのではないだろうか。
内戦や貧困から抜け出すため、今日も祖国を離れて移動する人たちがいる。もちろん難民や移民の受け入れ体制を確保することも大事であろう。
しかしそれ以上に、彼らが祖国を去らなくてもいい環境こそ、彼らがもっとも求めるものではないだろうか。望まない移動をせずに済む、自給できる社会の建設こそ、コロナ後の社会に求められているのではないだろうか。
「エニウェア族」を成功例として進めてきたグローバル化。
しかし文化からも過去からも「自由」になって、人は本当に幸福に生きられるのだろうか。文化や過去から切り離されて人はどれだけ「wholeness and belonging」を得られるのか。イチローの苦悩はそれを伝える。
〈参照〉
福田恆存「伝統に対する心構」『保守とは何か』浜崎洋介編、文藝春秋、二〇一三年
(『表現者クライテリオン』2020年11月号より)
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