今回は『表現者クライテリオン』2021年9月号の掲載されている座談会の冒頭部分をを特別公開いたします。
公開するのは、「保守からの近代日本批判―大東亜戦争への道」特集掲載、
富岡幸一郎先生×中島岳志先生×本誌編集委員 浜崎洋介の座談会です。
明日、8/15は終戦記念日ですね。本座談会では大東亜戦争と戦後日本をテーマに論じています。
以下内容です。
興味がありましたら、ぜひ『表現者クライテリオン』2021年9月号を手に取ってみてください。
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浜崎洋介(以下浜崎)▼
今年は、戦後七十六年ということなんですが、明治維新から敗戦までがちょうど七十七年なので、ほぼそれと同じ長さを戦後は生きてきたということになります。
けれども、今回のコロナ騒動を見ても分かるように、危機に際して日本人が陥る「空気」のあり方は、戦前のそれと全く変わっていないどころか、むしろ、より酷くなっているような気さえします。
ただ、その一方で、周りを見回すと、左翼リベラルは、相も変わらずの東京裁判に囚われた自虐史観というか、
単なる自己否定としての「大東亜戦争否定論」(道徳的な断罪)
に淫しているように見えますし、保守は保守で、相も変わらずの反動ぶりで、
単なる自己弁護としての「大東亜戦争擁護論」(ナルシスティックな擁護論)
に淫しているようにも見えます。
しかし、そのような姿勢だけでは、
「なぜ、私たちは、あそこであのような行為に出たのか」
「あの流れは何だったのか」「なぜ、負けてしまったのか」
ということを正確に、過不足なく自分自身に問い質すことができなくなってしまうのと同時に、これから先も、一貫した自己像を持てないまま、一喜一憂を繰り返していってしまうことにもなりかねません。
だから今、必要なのは、一貫性を持った個人が過去を振り返るように歴史を振り返り、それによって私たち近代日本人の「強さ」と「弱さ」のあり方を理解し、その認識をもとに前を向いて歩いていくことではないかと。
また、それによって戦前と戦後との連続性、近代日本人の自己同一性を取り返し、自己を問い質すことではないのかと考えています。
そこで、今回、『クライテリオン』では、改めて、「あの戦争に至るまでの過程」に何があったのかを「保守」の視点から、
つまり、「歴史を引き受ける日本人」の視点から振り返るべく、「保守からの近代日本批判─大東亜戦争への道」と題した特集を企画すると同時に、
『新大東亜戦争肯定論』(飛鳥新社)をお書きになっている文芸評論家の富岡幸一郎先生と、
『保守と大東亜戦争』(集英社新書)をお書きになった政治学者の中島岳志さんにお越しいただいて、
改めて、あの戦争について議論をさせていただきたいと思った次第です。
まずは富岡先生から、大東亜戦争についてのお考えをお聞かせいただけますか。
富岡幸一郎(以下富岡)▼
戦後は戦争否定というのが当然一つの流れだったと思うんですが、そういう中であの戦争は一体どういう戦争だったのか、どういう歴史的な経緯であの戦争に日本人は突入していかなければならなかったのか。
そういうことを自分も考えたいと思った時読んだのが、林房雄の『大東亜戦争肯定論』であり、その延長線上で書いたのが『新大東亜戦争肯定論』だったんですね。
林房雄さん自身は、昭和三十九年頃にあの本が刊行された時は危険な思想家、右翼本という感じで徹底的に批判されたわけですが、
しかし、あの本が言う「肯定論」というのは単なる是認ではなくて、日本の近代史、幕末維新から昭和までの長いスパンで大東亜戦争のことを引き受けようという、その引き受けのことを「肯定」だと言っていたと思うんです。
ですから、林房雄は「東亜百年戦争」と言う。
百年間戦われた戦争であって、これは要するに、明治維新の十五年前、黒船の来航のさらに前からオランダ、ポルトガル以外の外国船が出没してきた。
つまり、帝国主義の列強の鉄の輪で日本が囲まれてきた。その時から、西洋の帝国主義に対する抗戦イデオロギーが発生していって戦争教育が始まっていく。
これは水戸学とか平田篤胤の没後の門人たちの日本神国論とか、そういうものが出てくる。
そして実際に幕末に薩英戦争、馬関戦争が起こり、攘夷から開国へとなっていくわけです。
さらに日清・日露、日韓合邦。それから満州事変、支那事変、つまり日中戦争ですね。
そこから米英戦争というまさに百年に及ぶ日本の戦争が継続されてきたと。西洋列強に対して、日本人は闘い続けるより他はなかった。
基本的にはそういう百年戦争、一つの長い戦争を日本人は戦ってきたんだっていう。
私は、そういう日本の近代化という問題からあの戦争を捉え直す必要があるんだろうと思ってます。
林房雄は、日本は無謀な戦争を戦ってきたということを一貫して言っているわけですが、実際、あの戦争は勝敗を度外視して行われた。
それで良かったのかという議論ももちろんあるし、
「あの時点でこうしておけば戦争は回避できた」
等々の議論は多々あるとは思うのですが、長い百年という歴史の中で私の『新大東亜戦争肯定論』という本も捉えてみたいというのが動機で、林房雄の『大東亜戦争肯定論』との共振の中で書きました。
浜崎▼なるほど、大東亜戦争を林房雄の言う「東亜百年戦争」というスパンで見直さなければ、その本質は何も見えてこないだろうと。
中島さんはいかがですか。
中島岳志(以下中島)▼
そうですね、まず林房雄について言っておくと、よく「えー」とか言われるんですが、林房雄の『大東亜戦争肯定論』という本は、僕は結構好きなんですよ(笑)。
あの本の中で痛切な一節っていうのは、
「この百年間、日本は戦闘に勝っても戦争に勝ったことは一度もなかった」
っていう文章なんです。
ここが、たぶん林の言いたかったことの核心ですよね。
つまり、日清戦争でも日露戦争でも勝ったけど、日本は「戦争」に勝ったことは一度もないって言う。
だから、東亜百年戦争という彼の見方は、
「一貫して日本は勝てなかった、日本の論理というものをちゃんと明示することができなかった痛切な百年間である」
ということだと思うんです。その裏返しが、彼が生涯ずっとこだわった西郷隆盛だったと思うんです。
小説『青年』もそうですが、林は一貫して「維新の精神」っていうのに眼差しを向け続けている。
「初発の日本の動機というものがなぜこんなにぼろぼろになっていったのか」
っていう、その百年を彼はもう一度書き直すことによって、本当にあり得た大東亜戦争というものを肯定したいっていう、そういう本だったと思うんです。
彼はよく転向したって言われるわけですよね。
確かに新人会に入ってマルクス主義者になり、そして検挙されて、しかし、それが『青年』とかを書きながら日本主義へと転換していき、その間に文学界グループに関わり、日本浪曼派になっていった。
そして、戦後は『大東亜戦争肯定論』を書き、三島由紀夫と近づいて死んでいったみたいな。
でも、僕、それ結構でたらめだと思っていて、林房雄ってものすごい一貫した人に見えるんですよ。転向なんてどう考えてもしていない。
実は、林房雄は戦前期の日本の在り方についても非常に気に食わないわけですけども、同じぐらい、そして同じ理由で戦後の日本も気に食わないんですよね。
戦前と戦後っていうのは同じで、それらは「維新の精神」みたいなものがどこかに行ってしまったどうしようもない姿であり、…(続く)
(『表現者クライテリオン』2021年9月号より)
続きは『表現者クライテリオン』2021年9月号にて
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コメント
今日、メールマガジンを読み、表現者塾で、辻田真佐憲先生の講義もリモートで聴かせていただきました。
「インプットだけでは苦しくなる」と誰かが書いていたのを昨日読みましたが、読んで、視聴して、私もインプットだけでは自分の内面でこもって苦しく感じて少しだけコメントをしたくなりました。
「どうして歴史を知りたくなるのか、どうして歴史が面白いのか。
互いに語り合いながら物語を育て紡いでいくという作業を続けていくことが、自分の根を育てること、自らの依って立つところをより確実なものにしていくことにつながる。日本語でそうやって自分の芯を常に造り続ける、ということか」というメモを塾の際にとりました。
つたないコメントで恐縮ですが書かせていただきました。