今回は『表現者クライテリオン』2021年9月号の掲載されている対談を特別に一部公開いたします。
公開するのは、「日本人の死生観を問う」特集掲載、
呉智英先生×本誌編集長 藤井聡の対談です。
以下内容です。
興味がありましたら、ぜひ『表現者クライテリオン』2021年9月号を手に取ってみてください。
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藤井聡(以下藤井)▼
「日本人の死生観」の特集を考えるにあたり、つい先日、『死と向き合う言葉 先賢たちの死生観に学ぶ』を上梓された呉先生のお話はぜひお伺いしたい、ということで、本日は参上させていただいた次第です。
どうぞよろしくお願いいたします。
呉智英(以下呉)▼
実はこのお話、簡単にお引き受けして、その後で結構困ったなって思ったんですよ。
というのも、「日本人の死生観」ということについて、網羅的に論じたり一般化した本って知らないなと。
だから図書館であれこれ調べてみたんですが、やはりない。だからこれは困ったなって思ったわけ。
ついては今日は、この作家はこう言ってるとかこういう例があるとかっていう格好で、「個別例」を、いわば雑談風にお話ししたいと思っています。
藤井▼僕は昭和四十三年生まれですけど、僕が子供の頃、死というものは今よりもずっと身近にあったように思います。
我々よりもずっと死に近い祖母はいつも家にいましたし、彼女は仏壇のご先祖、つまり死者たちに毎朝毎夕拝んでました。
で、おばあちゃんはもう年がら年中いつお迎えが来るのかなと、どちらかというと少々待ち遠しいような雰囲気も醸し出しながら話してました。
お墓参りに行くのも当然だったわけですが、今の現代人たちって、日常からそんな「身近な死」がどんどんなくなっていって、死というものが「隠蔽」されていっているように思います。
というか、今のミイラを見てましたなんてお話を伺うと、僕の時代ですら隠蔽されてたんだなとは思いますが、僕の友人の葬儀屋さんの話を聞くにつけ、もうびっくりするくらい今はもう、葬儀が簡略化してるんだってことに驚かされます。
呉▼そうですね。
藤井▼もう墓というものがない方々もたくさんおられて、葬儀も全然やらない、お骨なんて持って帰りたくないというような現代人がすごく増えてきたりしてるようです。
で、そういう意味で死を間近に感じることもなく、感じられるはずの葬儀の機会ですら死から目を塞ぐような状態に多くの日本人が置かれている。
結果、死生観と呼べるようなものすら何も持たないような、つまり空っぽの死生観をしか持たない日本人が大量に日々の暮らしを営んでいる。でも、何人たりとも死からは逃れられない。
だから、死というものを全く普段意識せずに生きている日本人たちにとって、日常の中に突然、無理矢理現れ出てくる「死」というものは、ただただ「不気味」で「異質」なもの。
「お迎えが来るのはいつやろ」なんていう感覚なんて微塵もない。そうなると死というものをさらにさらに隠蔽したくなる、という悪循環が進んでいる。
そんな悪循環の果てに起こったのが、とにかく自粛しろだとかステイホームしろだとかっていう今回のコロナに対する社会の反応なんじゃないかなと思います。
呉▼それは当然あり得ると思いますけどね。そういうのがどんどん分からなくなってる中で、コロナの問題も起きてくる。
呉▼それから昔の大東亜戦争の頃の特攻隊の問題も同じで、非常に単純化して良かった悪かったみたいに議論されますけど、もっと複雑なところまで思いを馳せないと全体は見えてこない。
広島、長崎の原爆投下についても同じ。普段から死そのものを遠ざけてばかりいると、いろいろなことがどんどん分からなくなってくるんですね。
藤井▼そうだと思いますね。それで、今回先生も書かれてますし、僕自身もやはり長い間着目しているのが、
ハイデッガーの「死に対する先駆的覚悟性」の議論です。
死というものがそのうち訪れるんだ、っていうことをリアリティを持ってしっかりと理解しておく、覚悟しておくことができて初めて、人間は「本来的な時間性」を獲得し、人間の本来性、ヒューマニティに目覚め、倫理的な生き方ができるようになる、
つまり僕たちはそのうち死ぬと理解していれば倫理的に生きられるけど、っていう話ですね。
呉▼はい。
藤井▼で、死というものを覚悟しない、死というものから遊離された、隠蔽された人間というのは倫理的に頽廃、頽落していく他ないというわけです。
つまり人は死を忘れた途端、「人でなし」になるわけです。
で、このハイデッガーの思想は、日本の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「葉隠」の武士道と同じだとも言えると思います。
武士の武士道、つまり彼らの倫理の体系は、死と向かい合わせになることで成立したわけです。
そう考えると、現代人が今、死から激しく隔絶され、日常の中で死が徹底的に隠蔽されていることを考えると、現代人っていうのは、倫理的にどんどん頽廃していくことは必然だってことになりますよね。
これはもう、異常な時代になってるんじゃないかと。
そんな異常性ゆえに、今の日本人は、戦争とか戦うということに対して異常な忌避感を示したり、コロナに対して常軌を逸した過剰反応を繰り返している。
日本人は今、死を隠蔽し過ぎてるんじゃないかと思うんですね。
呉▼それはね、そうだと思います。
つまりね、藤井さんが言ったことをもう少し広げてみると、死っていうのはつまり人間の有限性の問題でしょ。
人間は有限だから死ぬわけだから。じゃあその有限の中でどう生きるかってことを死の反面として考える。
どういう生を全うしなきゃいけないかっていう問題が出てくるんですから、倫理の問題はそこに当然出てくるわけです。
キリスト教なんかの思考においてもですね、人間は神を裏切ったがゆえに死があるんだということになるから今度は神の問題が出てくる。
そして、神から必然的に倫理が出てくるわけです。それがどんどん分からなくなってきている。
でもまぁ、一面で、現代は倫理について考えなくてもいいような社会になってきたと考えると、それはそれでいいかなと(笑)。
藤井▼はははは(笑)、それはそうかもしれないですね、鯱張らない、っていう意味で(笑)。
呉▼とはいうもののね、例えば死までの期間が長くなる、寿命が延びるということも同じことで、そのことによってあまり考えなくてもいいようになる。
藤井▼そうですね。
呉▼だけど、長くなったところで人間は百五十年も二百年も生きられるわけがない。
絶対死はやってくるわけですから、そこでいよいよ考えなきゃいけなくなるものも出てくる。
特に、死に直面して初めて自分はあの時ああすれば良かったとか、こう生きるべきだったとか、今の世の中がこうおかしいみたいなことも考えなきゃいけなくなるのではちょっと遅いんだから、死ぬことはやっぱり早めに考えておいた方がいいよね…(続く)
(『表現者クライテリオン』2021年9月号より)
続きは『表現者クライテリオン』2021年9月号にて
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『表現者クライテリオン』2021年9月号
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コメント
以下思いつくままの乱文をご容赦ください
医療の進歩で寿命が延び、身近で「死」が目撃されないと、自ずと生老病死の死観観は薄れていくと思います。朝に見た紅顔の若者は夕べには白骨になる、という死生観は、交通事故や災害死、遭難死という不条理な「死」で気付かされますが、日常が平和で健康であるなら、自覚はし難いと思います。ですから、アンチエイジングとか言って、まるで不老不死の錯覚に陥らせる資本主義と言いますか金儲けが忍び寄ってきます。ではどうしたらいいのでしょうか?
これは私自身への問いかけでもあります。
広島の原爆記念館は真実を語っているでしょうか? 真実は爆風で生首が電柱にぶら下がる、黒焦げの死体の山、蛆虫の湧いた腐乱死体‥‥。地獄、これが真実ではないでしょうか? これが人間の仕業なのだと深く考える機会から遠ざかってきました。
やはり真実を直視するのが怖いのだと思わざるを得ません。
美しい風景、美味しい食べ物、心地良い音楽を聴いて一生を過ごしたいですが、その生活を享受するには、過去からの尊い犠牲の上に立っているという歴史認識を学ばないといけないと思います。
私は学徒出陣学生の遺稿集「きけ、わだつみの声」が戦後ベストセラーになり、古くはレマルクの「西部戦線異状なし」の映画が日本でヒットしたと聞いて、戦後暫くは反省をしても、記憶が薄れ平安が戻ると、忘却の彼方になってしまうのだとつくづく思います。
私の持論は、80年ぐらい経つと、人間は歴史を忘れて、愚行を重ねる、というものです。 従って、東北の津波でも、何度も津波被害があった過去を忘れて、一旦は海から遠ざかっても、再び海辺に海辺にと住まいしてきた事実を直視しなければと思います。 ですから、なぜ津波が多い太平洋側に原発を建設したのか? 私たちは少しも歴史から学んでいないのではないのかと悲しくなります。
広島の原爆ドームは現在は世界遺産ですが、傍には川があり、原爆投下で、何万人という被爆者が飛び込んで死体が累々と浮かんでいました。でも十数年前に住友不動産はその川べりに高層マンションを建設して販売しているのを見て、私はなんのための「原爆の語り部」か、と憤りを覚えました。日本人の一部には倫理観が欠如しています。
最近は欠如が甚だしいです。
周辺の人々の会話は「ポイントつきますよ」「コスパ云々」「得するか?」ばかりで本当に悲しくなります。
浜崎先生は「本音では日本は壊れてしまえ、と思う時があります」とおっしゃっていましたが、私も同感です。
特攻隊や学徒たちが日本の将来に夢を託して、「自分の死」を納得せざるを得なかった事を、現代の若者は学んで、そして自分の主体性や死生観を確立してほしいと思います。そうすれば倫理観は自ずと身についてくるのではないでしょうか?
最後まで読んで頂けましたら、幸いです。有難うございました。