こんにちは、浜崎洋介です。
この度は、第3回表現者塾信州学習会「グローバル化時代の戦争と日本の選択」についてのお知らせのため、久しぶりにメルマガの筆を取らせていただきました。
柴山さんのメルマガにもあったように、今、時代は内憂外患の混乱の季節を迎えています。
先日も選挙活動の終盤戦で、安倍晋三元首相が狙撃されるという事件が起こりましたが、そのニュースに接したとき、私の脳裏をかすめたのは、やはり大正から昭和初期にかけての昭和維新のテロリズム——原敬首相、浜口雄幸首相、犬養毅首相の暗殺——の歴史でした。
が、次第に、犯人に政治的意図がなかったということが分かるにつれて、その比喩のリアリティも世間的には薄れていったように見えます。ただ、それでも何か釈然としないもの、この先の社会に対する「ぼんやりとした不安」のようなものが残ったのも事実でしょう。
昭和維新のテロリズムは昭和恐慌が引き金になりました。恐慌によって孤立してしまった人々の寄る辺なき不安と怨念、それがテロリズムの源泉を成したのです。ただし、それでも彼らには、まだ自分の暴力を社会革命=政治に繋げようとするだけの意志—余裕のようなものが残っていました。対して、今回の安部元首相狙撃犯の場合はどうでしょうか。
狙撃犯の手紙には、「安倍の死がもたらす政治的意味、結果、最早それを考える余裕は私にはありません」とあり、ツイッターには、「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」とあったといいます。
犯人の背景については様々な報道がありますが、この言葉だけをとれば、それはほとんどジョーカーの台詞のようにも聞こえてきます。とすれば、より危機的なのは昭和初期なのか、令和の現在なのか……。
ことほど左様に、私たちの社会は、元首相の暗殺までをも引き起こしてしまうほどの「孤立感」を醸成しはじめています。
考えてみれば、狙撃犯(41歳)の人生の大半の時間は、度重なる「破壊」——バブル崩壊から、平成の政治改革・構造改革、そして、リーマンショックから東日本大震災、そしてコロナ禍——によって埋め尽くされています。そして、その度に強まってきたものこそ、人々の「孤立感」ではなかったでしょうか。
かつて、エーリッヒ・フロムは「人間の孤立無援な生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいる他の人びとと何らかの形で接触しないかぎり、人は正気を失ってしまうだろう」(『愛するということ』鈴木晶訳)と書いていましたが、
まさに、この時代を覆っているのは、この「正気を失って」しまった人々の不安感にほかなりません。そして、この不安感こそが、歴史的に言えば「戦争の時代」を呼び出してきたのでした。
では、この「孤立」はどのように克服すべきなのか。
信州学習会では、私自身、柴山さんの講義からマクロな国際政治のメカニズムについて学びつつ、またミクロな人間心理についてもじっくりと語り合いたいと思っております。
このマクロからミクロまでを往還しながらの議論というのも、クライテリオンならではの企画だと思います。ご興味のある方は振るってご参加いただければと思います。
8/20(土)第3回表現者塾信州支部学習会~グローバル化時代の戦争と日本の選択~ | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)
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