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【橋本由美】『カッサンドラの日記』2  逃げる愛 ——「愛」から見る日本語

橋本 由美

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『カッサンドラの日記』2  逃げる愛 ——「愛」から見る日本語

橋本 由美

 東京·上野の西洋美術館、常設展。そこにロダンのFugit Amor(逃げる愛)がある。

 男と女の動きの狂おしさは、その決して大きくはないオブジェの前に立つ私たちの心にさざ波を立てる。逃げ去ろうとする女を男が追うのか、絶望に打ちのめされた女が逃げるのか、二人を引き裂く抗いがたい運命が愛を奪うのか。ロダンは何を思って逃げ行く愛をこの動きに封じ込めたのだろうか。

 このオブジェは、西洋美術館正面前庭にある『地獄の門』にも組み込まれている。そこでは、ダンテ『神曲』地獄篇第五歌のパオロとフランチェスカがFugit Amorのモチーフだとも言われている。ダンテの描く容赦ない地獄では、不義の愛の罰として、永遠に嵐の中で翻弄される男女の姿が痛みを伴って迫って来るようだ。

 日本人に「愛(あい)」が住み着いたのはそう古いことではない。「愛」という表現は、私たちには西洋と出会うまで疎遠であった。親は子を愛(いつく)しみ、子は親を慕い、老人は幼な子を愛(いと)おしみ、貴賤を問わず春の桜を愛(め)で、男は女に情けをかけ、女は男に惚れたのであり、「愛(あい)」はまだ眠っていた。私たちの祖先が「愛」という文字に出会ったとき、彼らはそれを永く馴染んだ言葉で読み下し、「アイする」と読むことは稀だった。私たちの祖先は、既に愛情を表す豊かな表現を持っていて、細やかに使い分けていた。

 多くの漢字には、正反対の意味を含むものがある。漢字だけでなく、様々な言語にこの傾向は見られ、英語にもラテン語にも似た例がある。「愛」という漢字も、良い意味だけには使われない。仏典の十二因縁の愛は欲望である。「愛」に潜む欲望や執着が、私たちから穏やかなやすらぎを奪うことがあるのを、大人なら誰でも知っている。愛することは、ときにエゴイスティックなのである。

 西洋の文学に出会ったとき、文脈によってはloveやamourをどのように邦訳するか、文学を志す人々を惑わせたに違いない。とくに男女の激しい愛情は、日本語には収まり切らない表現が必要なこともあっただろう。「恋愛」という言葉を作ったのは北村透谷だと聞いたことがある。男女の対等な愛情関係を表すには、上下の方向性を持つ日本語の愛情表現では難しい。江戸時代の表現では描き尽くせずに、思索推敲を重ねて新しい語彙を生み出したと思われるが、今では私たちにとってあまりに当たり前な日常語となっている。

 この頃から「愛する」という言葉が市民権を得たようだ。「愛」を大和ことばの訓読みからアイという中国音をそのまま用いることによって、多くの意味を付加したのだ。日本人でも、執着の愛を知らないわけではない。六条の御息所の狂気もある。般若の面の嫉妬もある。純粋で清らかな愛と欲望や執着や妬みの愛。「愛する」は、それら全てを包摂する。

 言葉の細やかな使い分けは民族の感性の豊かさにある。微妙な違いを確かに表現しようとして言葉も豊かになる。それ故、日本語は漢語や西洋語の表現も取り入れて咀嚼し、その語彙を増やす工夫を重ねて来た。しかし、最近、そのことがかえって日本語を壊し始めているようだ。咀嚼せずに丸呑みするようになってしまったらしい。

 「愛」一語に多くを詰め込むことで、言葉の意味を曖昧(ambiguity)にする。ひとつの語に多義性を感じ取ることで、文脈に奥行きが現れ、文全体に余韻が加わるときもある。しかし、一方で、曖昧性の便利さ故に多様な表現にあった厳密さを忘れさせてしまうことにもなる。多様で細やかな表現を知りながらも、敢えて多義性を含んだ語が使われることで、初めて曖昧性が生きて来る。だが、どのようにも受け止められる雑駁な表現に頼り切って、精緻な表現を失えば、思考の貧困への傾斜が始まる。語彙の均一化·画一化は、感性の細やかさをも失わせていく。何ごとも「ざっくり」言えば、「なんとなく」伝わり、わかった気になって終わりになる。

 さらに、自らの発想に因らないカタカナ語の氾濫は、私たちの社会を他者の思考に占領されることを許し、古くから紡いできた心をも消失させることになる。「よろづの言の葉」は「ひとのこころをたねとして」現実の「場(風土)·時(歴史)」と深く結びついている。遠い異郷の「場」「時」から生まれた言葉は、私たちにとっては抽象的なもので、その語彙に含まれている「普遍性」を汲み取るということなのだ。他者の社会で生まれ育まれた言葉の根幹にある具体性を知ることも咀嚼することもせぬまま、普遍的な部分のみでその語を解釈している。抽象的で曖昧な語彙が席巻すれば、言葉から魂が抜け落ちる。それならば、AIが作成する文章で十分だろう。

 古い日本人の好んだ表現に「しのぶ」という言葉がある。「忍ぶ」は、現代社会では希薄になってしまった愛の形である。他者のために耐えるには「心」に「刃」を立てるような痛みが伴う。忍んで耐えることは、辛くて損なことなのだ。今は「私」が優先する時代である。誰も損はしたくない。けれども、他者を想って忍ぶ女の姿が未だに歌謡曲に歌われ、人々の心を揺さぶり、彼女を抱きしめたくなるのは、まだ私たちの奥深くに、忍ぶ心に秘められた愛を知覚する感性が残っている証ではないだろうか。「忍ぶ」ことの奥には、己の欲望を断ち切った他者への愛の静謐な寛容さが漂っている。

 Fugit Amorの狂おしい動きに「奪う愛」の絶望を見る。激しい愛の欲望の果てにある深い哀しみが、皮膚に突き刺さるように襲って来る。ロダンの像の悲痛な叫びは、極めて西洋的なのである。

(上野の西洋美術館に行く機会がありましたら、是非、常設展のFugit Amorをご覧下さい。帰りに前庭の『地獄の門』で、どこにそれが嵌め込まれているかも探してみて下さい。)



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