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【鳥兜】「トランス女性の権利」と「女性の権利」

啓文社(編集用)

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 マスメディアが社会に対して持つとされる影響力の一つに、議題設定(アジェンダセッティング)効果というものがある。 メディアが特定の主張に肩入れせず中立を守っている場合であっても、ある議題を頻繁に取り上げることそれ自体が、政策の方向性や人々の行動を大きく左右するのである。今やインターネットの時代で、マスメディアだけが議題設定の力を 持っているわけではなく、SNS上の流 行をテレビ局や新聞社が後追いしていることも少なくない。つまり国民自身も議題設定の当事者であるわけだが、まず心得ておかなければならないのは、「何を論じ、何を論じないか」は論そのものの内容に劣らず重要な選択だということである。

 ここ十年ほどの西側先進国においては、SNSの「炎上」効果もあって、いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」が盛んである。これはもともと、女性、黒人、同性愛者、障害者といったアイデンティティ(の一部を成す性質)を理由にした差別の解消を訴える政治活動を指す。かつては疑問視すらされていなかった慣行や制度が新たに抑圧として「議題」化されることで、法的・社会的な権利の範囲が拡大してきた歴史があり、今も昔も議題設定は重要な役割を持っている。ただ、最近の反差別運動を見ていると、どうも「何が重要な問題なのか」が見失われがちであるようにも思われる。

 首相秘書官の「(同性カップルを)見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ」という発言が海外のメディアからも批判されたことを気にしてか、与党はお蔵入りとなっていた「LGBT理解増進法案」を慌てて手直しし、広島サミットの直前に国会へ提出した。対抗して野党からも二つの別案が提出されているが、これら三つはいずれも二〇二一年に超党派議連がまとめていた法案を基にしたもので、内容自体に大差はない。自民党内には「体は男でも心は女だからと女子トイレに入り、それをとがめたら『差別だ』では社会が混乱する」などの反対意見が存在し、そうした声に配慮して一部文言の調整が行われた。

 ところでこの「トイレ問題」は、LGBTの権利をめぐる論争を象徴する「議題」の一つとなっていて、欧米でも同様のようだ。今回の法案に反対する市民団体が主張しているのも、差別の定義が曖昧なまま理念先行の法整備が進められ、その帰結としてトランス女性(男性として出生したが性自認が女性である者)に女子トイレや女湯などの自由な使用が認められれば、多くの女性の安全が脅かされかねないという点である。つまり「トランス女性の権利」と「女性の権利」が争う構図になっていて、トランス女性が職場のトイレ利用を制限されていることの当否を争う訴訟も既に起きているのだが、そもそもトイレの使用ルールなど現場の当事者が常識に従って判断するしかないのであって、大真面目に議論したところで一般的な答えが出るわけはない。性的マイノリティ支援の専門家も、「ひと口にトランスジェンダーと言っても事情は様々で、トイレについても各自が状況に応じて、最も当たり障りのない方法を選択するのが普通だ」と指摘している。

 このトイレの件だけに限らないが、弱者の保護や平等を謳いながら、当事者の常識に任せるべき事柄を社会がわざわざ議題化することで、かえって対立と分断が深まってしまうということがある。そして最も恐ろしいのは、過剰な理念とそれに対する感情的反発から生じる喧騒が、常識の感覚そのものをすり減らしてしまうことだ。常識こそは穏当な人間関係を守るための最後の砦なのであって、理念や制度への過度の依存はむしろ差別の温床にさえなり得るのだということを、我々は自覚する必要がある。


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