【野口剛夫】自分らしく生きる ー音楽の「幸せなコスパ」を目指して

啓文社(編集用)

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音楽家は活動中止の検証を

 本誌に初めて書かせていただいた二〇二〇年と違い、今は「マスクを着けるのは個人の判断」となって久しいが、未だに巷には「マスク星人」が溢れている。そもそも、「個人の判断」などできる人がほとんどいないから、こういうことになってしまう。

 新型コロナ「騒ぎ」(コロナ「禍」とは他人事みたいだから決して言いたくないが)により、私の関係するクラシック音楽界が一斉に演奏会をやめて屋内に引っ込んでしまった、あの三年前から、通常の営みへと活動は戻りつつあるようだ。ただ、マーラーの交響曲第二番《復活》や、ベートーヴェンの第九を演奏し、格好よく自分たちの再始動を祝うのも結構だが、申し訳ないけれど、それは「冬眠から目覚めた熊」と何が違うのか、と私は思ってしまう。

 彼らは籠っていた巣穴からのこのこ出てきただけなのであり、「復活」ではなく「再開」にすぎない。「復活」と言うなら、イエス・キリストのように一回死なないといけない。しかし、そこまでの覚悟はなかったのだ。実際はお上からゴーサインが出たから、また始めただけなのである。

 テレビなどで演奏している音楽家たちの表情を観察してみれば、いつも通りと言っては何だが、職業音楽家の無表情な顔であり、弦楽器や鍵盤の奏者はかなりの人がマスクをしているから、半分しか見えない。そもそも舞台に出る人が顔を半分覆うとは何事だろう、と私は思う。お客に失礼であり、自分でも恥ずかしくないのだろうか。そこら辺の感覚からして、音楽界は麻痺しているのだ。

 あの時、音楽活動を中止したことは、果たして正しかったのか、関係者にはぜひ考えていただきたいのだ。活動を中止しなかった音楽家の一人として、私はそれを強く願っている(本誌二〇二〇年九月号を参照)。

 新型コロナウイルスは実はメディアによってこしらえられた「張子の虎」のようなもので、人間の恐怖心の方がはるかに勝ってしまった。人々はどう生きるかではなく、少しでも長く生きることだけを求める集団ノイローゼにかかったのではないか。新型コロナの問題が要するにほぼ心の問題だったとすれば、音楽関係者もそれを踏まえて、自らの行動を検証し反省しなければならない。

 

芸術の本質は「コスパ」とは無縁

 残念だが、自分の頭で考えて判断をし、その責任は自分が負う、そういう覚悟のない人がほとんどだ。もっと言えば、まず自分らしく生きようとする誇りがないのだ。

 私たちが日々の生活の中で「コスパ」というものに執着しすぎるあまり、人生の本筋を見失ってしまうとしたら、これも自分らしく生きることの喪失であり、現代の病の一つなのである。

 ただ、本来「コスパ」という考えは、昔から普通にあったし、不健全なものではない。計画的な耕作や漁、保存食、印刷、機械の開発、交通や医療の発達など、本当に多くのものが「コスパ」の考えから出ている。この場合は「健全 なコスパ」と呼んでもよかろう。同じ結果をもたらすのなら、費用はより安く、時間はより短くなるよう工夫する。 どんな負担も少ないに越したことはない。目的をしっかり 持った上で行うなら、コスパを高めるというのは結構なことなのである。

 しかし、芸術はその本質においてコスパの思想とは無縁であり、真逆のものではなかろうか。本当の芸術とは、時空を超越するような体験なのであり、岡本太郎の言葉を借りれば、「ベラボーなもの」でなければならない。彼の「太陽の塔」や、ヴァーグナーに心酔したルートヴィヒ二世が莫大な国費をかけて作らせたノイシュヴァンシュタイン 城、サクラ・ダ・ファミリア、東照宮のような巨大な作品でなくても、文学、音楽、美術などには「ベラボーな」傑作は枚挙にいとまがない。

 ただ、優れた芸術作品は長い間享受されることによって、たとえ製作当時はマイナスの価値付けであっても、後世ではそれを補って余りある多くの利益に恵まれることがある。長いスパンで見れば、期せずしてこれらの作品は「コスパ」としても優れた成績を収めているとは言えないだろうか。もちろん、当の原作者たちは亡くなっていて、その利益を受け取れるわけではないのだが。

 優れた芸術が最初からコスパのことなど考えなかったからこそ、高いコスパを達成しているということは非常に興味深い。

 それにしても、ベートーヴェンの第九の演奏会が大盛況であったり(日本の第九の演奏回数は世界一)、ゴッホの絵画展で人が押し合いへし合いしているのを見ると私は思うのである。ベートーヴェンやゴッホのような本物の創造者の生涯は、死に至るまでひどい貧困との戦いであった。今さらなのだが、生前の彼らをもう少し経済的に潤してあげることはできなかったのだろうか。ああ、あまりに気の毒な芸術家たちよ!

 

クラシック音楽を無理に短縮しても……

 長くて真面目で難しいクラシック音楽は、大衆には本来理解することが難しいのだと私は思う。しかし、それを簡単に認めることも大衆のプライドが許さない。そこで、メディアは「難しくないクラシック」などというスローガンを次々と作り出して頑張る(読んではいないのだが、確か『聴かなくても語れるクラシック』(中川右介著、日本経済新聞出版)という本まであった!)。

 その根底にあるのは、人が変わらないのなら、音楽の方を変えればよいという発想である。では、クラシック音楽の軽薄短小化は実際に可能かというと、本質的に無理なのだ。時間の芸術である音楽は、そこにメスを入れたら、内容が死んでしまう。

 それでも無理やり短縮したりするから、不健全なことが横行している。私はそれは「コスパのためのコスパ」、芸術の本質を損なう不健全なコスパであると思わざるをえない。

 たとえば、ベートーヴェンなら第五交響曲《運命》は、あの印象的な「運命」テーマで始まる第一楽章だけ演奏する。ドヴォルザークの第九交響曲《新世界》なら、「遠き山に日は落ちて……」(堀内敬三作詞)でも歌われる、あのイングリッシュ・ホルンの切ない旋律がある第二楽章のみ、ショスタコーヴィチの第五交響曲《革命》なら、勇ましい進軍調の第四楽章のみ、となる。

 「もっと短く」ということならNHKテレビの音楽番組「名曲アルバム」だ。覚えておいでだろうか。どんな長い曲もカットに次ぐカットで五分間に縮められてしまった。(少年時代の私は、そのあまりに乱暴な「名曲の外科手術」の痕を聴かされる度に、心臓が止まるほど驚き、嘆き悲しんだものだ。)

 ベートーヴェンの第九交響曲《合唱付き》では、「歓喜の歌」の合唱が出てくる第四楽章のみが演奏されることが多い。この交響曲は全曲演奏すると約一時間十五分かかるが、第四楽章だけなら約二十五分で済む。しかし、二十五分では演奏会にならぬから、他の曲と抱き合わせたりする。これでは本末転倒ではないのか。

 ハンス・フォン・ビューローという十九世紀後半にベルリン・フィルの常任指揮者を務めた大指揮者がいたが、彼は第九の啓蒙のため、演奏会場に鍵をかけて聴衆が出られないようにし、この曲を二度繰り返して聴かせた、という逸話もあるくらいである。もちろんレコードもCDもない時代である。第九はまだまだ長大で難解な作品であると思われていたので、かような過激で強引なガイダンスもやむを得なかったという面はある。

 私自身は第九交響曲を指揮する時、オーケストラも合唱も、演奏者全員に曲の最初から最後まで舞台上にとどまってもらうことにしている。合唱と四人の独唱者を第二楽章と第三楽章の間で入場させることがよくあるが、これにも私は反対である。歌手たちは全員がじっと我慢して第一楽章から演奏を聴きつつ、舞台上にいてもらう。その過程を経ているからこそ、第四楽章でようやく「友よ、このような(第一~第三楽章の)音ではない。もっと心地よく喜ばしい歌を歌おうではないか!」と始めることができるのである。

 

音楽の「聴き放題」で私たちは本当に豊かになるのか

 今から十年近く前の二〇一四年、「現代のベートーヴェ ン?」による偽作事件が世間を騒がせたことをご記憶であ ろうか。

 「全聾の作曲家」佐村河内守の作曲という(実際に曲を書いていたのは作曲家の新垣隆)交響曲第一番《HIROSHIMA》、これは過去の様々な名曲の断片をつなぎ合わせたような曲であった。しかし、作曲者は自伝で「全聾の作曲家である私しか聞くことができない」音楽であると書いていることに疑義を覚えた私は、それを論説にして二〇一三年の秋「新潮 45 」という雑誌に発表していた。

 誰の真似でもない自分ならではの音を書こうとすれば、 それは膨大な時間と労力(才能はもちろんとして)を要するはずだ。しかし、過去の様々な傑作をある程度真似して作れば、かなりの時間と労力の節約になる。さらに「全聾の音楽家」、「被爆二世」という、音楽とは直接関係のない悲劇の物語も、効果を上げるため動員された。

 今にして思うのだが、この《HIROSHIMA》交響曲は最初から「コスパ」を計算に入れて作られたのである。ここだけ見ても、この曲が本当の芸術ではないことがわかる。まさに堕落した音楽の成れの果てである。

 二〇一四年二月の事件発覚の時点で、私の論説以外には、この交響曲に疑義を述べた公刊物はなかったということには驚かされた。音楽メディアはもちろんのこと、音楽の専門家を任ずる人たちも、知ってか知らずか、この交響曲と作曲家のもたらす経済効果の前にやられてしまったのだ。

 レコードの出現によって家庭でも音楽が聴けるようになって以来、生の演奏会や放送における以上に、個人で聴かれるようになった音楽の軽薄短小化が進んだ。結局、楽曲はずたずたに寸断され、断片的に聴かれることになる。聴く人も集中力はなくなり、刹那的、感覚的にしか聴けなくなってしまう。先述のような事件が起こっても、当然だったのではないかと思わせるものがある。

 さらに現在のように、ネットによる音楽の聴取がほぼ完全に普及すると、この悪状況は末期的様相を呈する。小遣いをはたいて数枚のレコードを買うのがやっとだった頃とは、比べ物にならないくらいの「音楽聴き放題の天国」が現出した。録音や録画で存在するほぼ全ての音楽を、ほぼ無料で、いくらでも聴ける。これはすごいことではないのか。私たちは労せずして、かつてない最高の環境を手に入れているはずなのだ。

 それに考えてみたら、みんなタダのようなものだというなら、もうコスパのことなど心配しなくてもよくなってしまうではないか。

 しかし、私たちはそれで本当に喜んでいるだろうか。音楽的に豊かになったのか。

 とんでもない。何でも聴けるというのは、実は何も聴かないことと同じなのではないか。実は何でもタダで聴けます、というのは、天国でなく地獄なのだ。

<本誌に続く・・・>

 

 

◯筆者紹介

野口 剛夫(のぐち・たけお)

64年東京生まれ。中央大学大学院、桐朋学園大学研究科を修了。昭和音大講師を経て東京フルトヴェングラー研究会代表。フルトヴェングラーの主要作品を指揮して日本初演。著編訳書に『フルトヴェングラーの遺言』(春秋社)、『私の音と言葉』(アルファベータブックス)、『Furtwängler Lieder』(Ries & Erler Verlag, Berlin)、シェンカー『ベートーヴェン第5交響曲の分析』(音楽之友社)など多数。作曲には交響詩《神代の調べ》、序曲《蜘蛛の糸》など。論説『“全聾の天才作曲家”佐村河内守は本物か』により14年に第20回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞。

 


『表現者クライテリオン2023年7月号【特集】進化する”コスパ”至上主義  --タイパ管理された家畜たち』より
https://the-criterion.jp/backnumber/109/

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