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【 仁平千香子】投薬によって均一化させられる子どもたち ー大人の都合か愛情か

仁平千香子

仁平千香子

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 日本の学校教育には無数の問題があるが、緊急性の高い問題の一つに、学校の都合に合わない子どもたちが「病気」として扱われる傾向が急増していることがある。そしてこの傾向が「発達障害の子どもが急増している」という共通理解を一般化させている。

 2006年にから13年の間に発達障害とみなされる児童数は10倍に増え、7万人を超えたと言われる。発達障害への関心が高まるきっかけを作ったのは、文科省が2002年に始めた「特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する全国実態調査」だった。児童への支援を目的に実施された調査は、翌年東京都内の全小中学校を対象に実施され、その後文科省によって発表される数値によって、「発達障害児は6%」「学級に2人は発達障害」という見出しが新聞に躍るようになる。これをきっかけに2007年には特別支援教育が始まり、2020年までに当初の2倍以上となる30万人が特別支援学級に在籍しているという。

 これほど短期間に大規模な変化を教育現場にもたらすきっかけを与えた文科省の全国実態調査とはどんなものだったのか。質問項目には技能や理解力に関する質問のほかに、授業中座り続けていられるか、教師の指示に従えるか、順番を待つことができるかなどのルールやマナー遵守に関する質問、さらには「大人びている。ませている」「みんなから、『○○博士』『○○教授』と思われている」「他の子どもは興味を持たないようなことに興味があり、『自分だけの知識世界』を持っている」「独特な声で話すことがある」など、見方によっては子どもたちの才能や個性とも思われる性質に対しても発達障害傾向を示す要素として項目に含まれている。そしてこの調査票に記入したのが現場の教員であることを考えれば、調査結果は教員たちの主観に委ねられている部分が多いことは容易に想像できる。正確さや信憑性に乏しいにもかかわらず、発達障害児が多いという理解だけが独り歩きし全国に浸透してしまったのだ。

 発達障害児への対応を急務として進められてきた「支援」がどのような形で実を結んでいるかというと、例えば、教育現場と医療機関との連携が顕著になった。いまや集団行動が苦手であったり授業中静かに座っていられない、起きていられない、または忘れ物が多いなどで発達障害を疑われる児童・生徒は、学校の教員によって精神病院への受診を勧められる。病院にいけば、多動を抑える薬やイライラを抑える薬、眠気を抑える薬など、あらゆる向精神薬を処方される。学校や病院を信じる親たちは、「子どもを楽にさせてあげたい」という思いから子どもに風邪薬を飲ませる感覚で向精神薬を与える。副作用があれば、それを抑えるためにさらに薬を追加する。いつしか子どもたちは小学校低学年ですでに薬物依存症に陥っている。発達障害を「治したい」と願って通院させた親たちはやがて、我が子に教室でおとなしく座っていてもらうより、依存症から脱却してもらう方がはるかに困難であることに気づく。この現状を知れば、発達障害児が本当に急増しているのか、精神病院に送られたために発達障害児と名付けられる子どもが増えたのか、区別ができないことがわかるだろう。

 我が子を図らずも薬物依存症にしてしまった親たちは共通して、「薬を飲むと普通の子になる」と学校で言われ「治療」を開始したという。そして投薬によっておとなしくなる子どもに対して「よくなった」という教員の言葉に励まされ、薬を飲ませ続ける。

 これらの現状を知ると、十分な知識もなく通院を勧める教員にも、依存症の危険性を十分に説明せずに幼い子どもたちにまで薬を処方する医師にも憤りを感じるが、それ以前に立ち止まって考えるべき問題がある。子どもたちが教室で長時間おとなしく座り続けることにどれほどの価値があるのかという問題である。長時間おとなしく座り続けられる能力が、学力に直結するわけでは決してない。むしろ天才と呼ばれ名を残した歴史上の偉人の多くが現代でいうところの「多動症」であったことがよく指摘されている。また先に挙げた文科省の調査項目が、「問題児」の特徴というより、多数派に属さない子どもの性質と捉えた方が自然であることを踏まえれば、学校側の自己都合によって発達障害児枠に押し込まれた子どもたちが多数いるであろうことが推測される。

 多数派に属さない子どもを追い出すような風潮は、多様性を尊重しようという昨今の「流行」の対岸に日本を向かわせる由々しき事態のはずだ。教室内の子どもたちを均一化しようとする学校側の動きには、教員評価制度という教員の教室内における管理能力を評価し給与に繋げるという新しい制度の導入が関係しているという指摘もあるが、こちらは別稿に譲る。以下では、均一性の達成を目標とする教育現場の歪みについて深掘りしてみたい。

 ミヒャエル・エンデの代表作に『はてしない物語』という冒険小説がある。映画版の『ネバーエンディング・ストーリー』は日本人にとっても馴染み深い。作品の中で主人公の少年バスチアンはファンタジーの世界を旅しながら、様々な種類の生き物や人間と出会っていく。その中で、少年はイスカールナリと呼ばれる人々の住む町を訪れる。イスカールナリとは「いっしょ人(びと)」という意味だそうだ。イスカールナリの人々には個人に名前が与えられていない。バスチアン少年が名前のない理由を尋ねると、名前を持つ必要がないからだと彼らは答える。町ではみないっしょなのだから、イスカールナリという名前ひとつで十分なのだそうだ。ひとりひとりを区別する必要がない彼らの言語には「わたし」という言葉もない。「わたしたち」がいつも動作主の主語になる。

 バスチアン少年が「わたしたち」という言葉しかない共同体の恐ろしさを知るのは、海を渡るためにイスカールナリの水夫に頼んで船に乗せてもらった時だった。彼らの船は櫂もスクリューも必要としない。船を動かすのは、水夫たちの思いの力である。船上では、水夫たちがある種の舞とことばを繰り返しながら、思いの力を完全に一致させることで、推進力を生み出している。バスチアン少年も彼らの舞とことばを習い、イスカールナリの一員として働いた。それは少年にとって心地よい体験だった。自分の思いの力が他の人々のそれと溶け合うことで感じる一体感に酔いしれた。

 しかし少年は、その心地よさが幻想のものであることに気づく。イスカールナリの共同体は調和によるものではなく、彼らの同一性によるものでしかなかったからだ。

かれらは共同体としての感情を持つことになんの努力もいらないほど、もともとそっくり同じなのだ(…)かれらは個人としての感情を持っていないので、たがいに争ったり意見の不一致をみたりということは、起こりようもないのだった。

つまりイスカールナリ共同体の調和は、思いを一つにする努力によるものではなく、差異の不在によるものであったということである。

 そしてバスチアン少年は驚くべき光景を目の当たりにする。彼らの上空に突然大きなカラスが現れ、一人のイスカールナリを運び去ってしまう。しかし残されたイスカールナリに動揺の様子は全く見られない。悲しみもせず、嘆きもせず、先ほどの悲劇について言葉を交わす様子もない。少年がその理由を聞くと、「いいえ、わたしたちはちゃんとそろっていますよ。どうして嘆くわけがありますか?」という。これが「わたし」という言葉を持たない共同体のあり方である。個々に名前がなく、ひとりひとりを区別する必要のない共同体では、ひとつの個が失われることによって悲しみが生まれない。ひとりが消えれば、別のひとりが補充すればよい

 少年は理解する。「イスカールナリの共同体には和合はあったが、はなかった」と。そして自分はイスカールナリのようではなく、一人の個人として、バスチアンとして愛されたいという本来の願いを思い出す。つまり少年が心から求めるものは他と一緒であることではなく愛であったということだ。

 他と差異を持つことを問題として扱う日本の教育現場は、このイスカールナリの共同体を思わせる。共同体の中の均一性が善であるイスカールナリの世界では、個人が感情を持ってはいけない。個々が願いや意志や思想を持ってしまえば共同体が破綻する。一方、人間が感情という自然な心の動きを押さえつけられるとどうなるか。体が抵抗する。集中力が欠落し、穏やかさを失う。集団にとって不都合な行動をとる。そうして子どもたちが出すSOSサインに対して大人たちは、薬によって抵抗すらできないようにする。このようにして教室内の調和は保たれる。そこにどれほど子どもへの「愛」が存在するだろうか。

 拙著の『故郷を忘れた日本人へ』にも書いたことであるが、資本主義社会において、人間を含めあらゆるものの価値は交換価値にある。個性がなく、他者と差異のない均一な人間ほど労働力として価値がある。「わたし」のためではなく「わたしたち」のために働く者たちのことである。まさにイスカールナリの共同体である。しかし均一な人間たちは労働者として歓迎されても、つまりその同一性を評価されても、その交換可能性の高さゆえに他の労働者と容易にすり替えられる。顔のない存在は、別の顔のない存在と入れ替わっても、雇用側に不都合はない。彼らは言うだろう。「いいえ、わたしたちはちゃんとそろっていますよ。どうして嘆くわけがありますか?」

 「平等」と「同一」が同義語として理解される現代に対し、かつては神の子として誰もが資質を備えていることを「平等」といったという(エーリッヒ・フロム『愛するということ』参照)。つまりひとりひとりが持つ差異を尊重することで実現する一体感を指して平等と言ったのだ。「みな同じ」になるよう制度(外部)を整えるのではなく、他者の特徴を尊重できるよう人間の精神(内側)を高めることが平等な世界の実現に必要という理解があったということだろう。

 薬に頼ってまで教室で子どもたちに静かに座り続けてもらおうとする教育現場に、命を尊重する姿勢は明らかに欠落している。これも資本主義社会に都合のよい交換価値の高い人材育成の一環なのだろうか。だからといって個々の学校や教員に責任を追及するのは安易すぎる。40人学級という世界でもまれな教室内の生徒数の多さや、増幅し続ける教員の負担なども、教育現場が薬への依存を高めてしまった理由のひとつだろう。学校関係者もまた均一化を強制される社会メンバーの一人だからだ。しかし組織の運営を優先した結果、または教職員の保身を優先した結果、そもそも必要のない投薬が子どもたちになされている可能性があるのなら、その過ちが子どもたちの未来をどれほど破壊しうるものなのか現場の人間は常に意識的でなければならないだろう。

 コロナ騒動の間も同様であったが、大人の都合によって子どもたちが不必要な害を被る事態が頻発している。子どもたちを愛で育てようとする意識があまりに薄れている。忘れてはならないこと、それは子どもは国の未来なのだということだ。子どもへの真の投資を怠って、国の衰退を見るのは自分たちだ。子どもという宝をどう扱うか。これは国民全体で考えるべき問いであろう。

 


 

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コメント

  1. 五太子順昭 より:

    発達障害を理由に子供たちへの精神薬による廃人化が進んでいます。
    精神薬で治療できた子は一人もいません
    これは薬害犯罪です。

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