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【仁平千香子】関東大震災からの教訓 ―人々の命を奪ったのは地震でも火災でもなく物欲だった

仁平千香子

仁平千香子

 1923年9月1日の正午近く、推定マグニチュード7.9の巨大地震が関東地帯を襲いました。100年前の大正期、日本は近代化を突き進み、物質社会を謳歌していました。物に溢れる生活を豊かさの物差しとする当時の様子は例えばこんな場面から読み取れます。

 

 私たちは印度更紗(インドサラサ)の安物を見つけて来て、それをナオミが危ッかしい手つきで縫って窓かけに作り、芝口の西洋家具屋から古い籐椅子だのソオファだの、安楽椅子だの、テーブルだのを捜して来てアトリエに並べ、壁にはメリー・ピクフォードを始め、亜米利加の活動女優の写真を二つ三つ吊つるしました。

 

 1917年から1922年の東京を舞台に書かれた谷崎潤一郎の『痴人の愛』から、主人公譲治がカフェーで働いていた美少女のナオミを引き取り、洋館での二人暮らしを始めた場面です。第一次世界大戦による輸出拡大で日本が好景気を謳歌した時代、カフェーは若い女給が接待サービスを行い、知識人や芸術家の集まる社交場として栄えていました。

 小説の二人は関東大震災の直前に横浜に引っ越していたため、被害は免れますが、作者の谷崎は焼け野原の東京を離れ関西へ移住します。

 10年後に書いたエッセイで、谷崎は震災直後に感じた心情を次のように語っています。

 

 「焼けろ焼けろ、みんな焼けちまえ」と思った。あの乱脈な東京。泥濘と、悪道路と、不秩序と、険悪な人情の外何物もない東京。私はそれが今の恐ろしい震動で一とたまりもなく崩壊し、張りぼての洋風建築と附け木のような日本家屋の集団が痛快に焼けつつあるさまを想うと、サバサバして胸がすくのであった。

 

 1923年といえば明治維新からわずか半世紀。夏目漱石がかつて「外発的」に起こされた「皮相上滑り」な文明開化と揶揄した日本の近代化は、その性急さゆえ、思想の構築に十分な時間をかけずに物質の供給を優先したため、谷崎に嫌悪感を抱かせるほどの無秩序を露わにしていました。

 関東大震災の死者は7万人と言われていますが、その半分以上が、現在慰霊堂の立つ被服廠(ヒフクショウ)跡地(墨田区)で命を落としました。被服廠跡は、陸軍の軍服製造工場の移転に伴い、公園の造成が進められていた土地で、当時は空き地であったため、地震直後に多くの人々が避難してきたのでした。慰霊堂に隣接する資料館には、避難した人々で溢れかえる被服廠跡の写真が飾られていますが、驚くのは人々がそれぞれの家から持ち出した荷物の量です。荷車には布団や家財道具が崩れ落ちそうなほど積み上げられ、無数の荷車の間に人々が立ち尽くし、それらが空き地に隙間なくひしめいているのです。この写真が撮られてまもなく、強風に煽られて勢いを増した炎がこの地を襲いました。強烈な火災旋風は瓦やレンガと一緒に人々の身体も空中に巻き上げました。激震の被害を逃れて避難してきた人々は、このように火災によって命を落としたのです。

東京都慰霊堂

 当時、消防自動車はすでに普及しており、この地震の際も消火活動は行われました。これは資料館の方に聞いたお話ですが、被服廠跡のように人々の荷車で溢れた場所では、消防車が通れる隙間がなく、それが消火活動の遅れに繋がり、被服廠跡のように避難した人々が猛火に呑まれる悲劇を引き起こしたそうです。当時の家財といえばそのほとんどが木材です。大量の可燃物を持ち出した人々は、その財産によって身にふりかかる火の勢いを加速させてしまったのでした。

 あれほど多くの家財を人々が持ち出していなければ、消防車は自由に走り、これほどの死者を生み出さなかったかもしれません。と考えると、彼らの命を奪ったのは炎以上に、物欲だったとも言えます。これが日本の近代化の成果だと考えると、谷崎の感じた嫌悪感が説得力を持ってきます。

 それから100年、私たちは関東大震災の教訓をどう生かしてきたのでしょうか。戦後の経済成長を経て、もはや足りない物などない社会で、人々の物質に対する執着心は一見減ってきているように見えます。いま大震災が起きて、人々が持ち出すものはスマホやパソコンぐらいではないでしょうか。人々の欲望の対象が情報やネットワークに向いているためです。欲が減ったのではなく、欲望の対象が変わったのです。そして人々の価値基準はますます損得勘定(コスパ、タイパ)に比重を移してきました。趣味も生活スタイルも、大学で選ぶ科目も卒業後の進路も、人間関係すら損得勘定の範囲で取捨選択されます。

 家族もまた然りです。出生率低下の原因が若者の低所得にあると考えられ、新婚世帯や子育て世帯への経済支援を厚くすべきという専門家の指摘があります。確かに経済的背景の影響は否定できないでしょう。一方で、経済支援を産む意欲につなげる国民が増えることを国が喜ばしいと捉えるのであれば、そこにも疑問があります。経済的に得なら産むし、損なら産まない、このような基準で命の誕生を捉える夫婦に、子育てを任せられるのか。極端な例ではありますが、損得勘定が家族のあり方の基準にも染み込んでいることは否定できません。 

 妊娠・出産・子育てほどコスパ・タイパの悪いものはありません。リスクの避けられない営みでもあります。そして私たちの先祖たちは、今以上にコスパ・タイパの悪く、リスクの高い状況で、これらの営みをこなしてきました。私欲を優先しながら生きてできることではありません

 妊娠・出産・子育てを引き受ける母親たちの価値を強調したいのではありません。現代人の生活が意識している以上に損得勘定に支配されてはいないだろうか、という懸念を示したいのです。そして状況は100年前と変わらない、むしろ加速しているのではないか、と。

 数学者の岡潔氏は生前、戦後の日本社会を分析し、自殺者の増加や生命力を失っていく日本人の変化に危機感を感じていました。そしてそれが物質主義と深く関係していることを見抜いていました。

 岡氏は人の生命を「その人固有のメロディー」と喩えます。固有のメロディーを奏でることが生命を輝かせる方法だということです。メロディーとは個人の内側を流れるしらべです。それは主体的に物事を観察し、そこで感じる自分に意識を向け、その感覚を信じて判断し、選び、決断する、これらの作業を習慣とすることで織りなしていくものであり、自己信頼を前提とします。日々の観察や選択や判断を他人に任せて、聞こえてくる外の声の狭間で右往左往する生き方を習慣としていれば、固有のメロディーは生成されることも奏でられることもありません。

 固有のメロディーを生き生きと奏でられる人は、自己の存在だけでなく、目に映るものもまた生命力に輝いて見えると岡氏は言います。例えば、冬枯れの大根畑を見てそこに生命の輝きを見出します。一方、生命という固有のメロディーを奏でない人、その意識のない人は、大根畑を枯野と見るのだそうです。つまり内側を輝かせれば自分を取り巻く外側も輝いて見え、外側の価値観にばかり関心を向ければどんな風景も枯野にしか見えず、自分という生命もまた色あせて見えます。岡氏はこの後者を「物質主義者」と呼びました。前者を人生の責任を引き受け、主体性の発揮が幸福を生むことを知る人々、後者を外軸に依拠し、ものの価値判断を他人に任せる人々と言い換えられるでしょう。この前者の定義には以前のメルマガ(Web版記事)で取り上げたアウシュビッツ生存者の例が、後者の定義には損得勘定(コスパ、タイパ)至上主義者が含まれます。

 岡氏はまた、物質主義者を物質の運動を生命とみなす人と説明します。医者であれば、心臓の鼓動や脈拍などの物質現象のみを観察して生命を扱っていると信じる人たちのことです。しかし世の中には余命数ヶ月と診断されながら、残された人生を楽しもうと決めた患者が医者の予想以上に長生きするというケースがいくつもあります。彼らは病に悲しむ生き方から固有のメロディーを響かせる生き方に切り替えたのでしょう。

 とはいえ、私たちは物質の運動に中心軸を置いて現実を判断してしまうことが往々にしてあります。幸福への考えもまた然りです。よりよい人生を目指して、成功への近道として、私たちはコスパやタイパを軸に行動しがちですが、それは物質の現象が幸福をもたらすと信じているゆえの判断です。しかし幸福が固有のメロディーを輝かせる主体性や意志と連動するのであれば、物質の運動に関心を集中する生き方は幸福を遠ざけます。岡氏が憂えたように、日本人は幸福から遠ざかる生き方を選び、その自然な流れとして自殺者や生命力に欠ける日本人を増やしているのでしょう。漱石が「外発的」に(外軸に依拠して)起こされた日本の近代化の末路を予想した通りです。

 

 100年前、所有欲を膨張させた日本人は、真の幸福から遠ざかる生き方を選び、地震の被害を自ら拡大させ命を落としました。ものが溢れれば溢れるほど、選ぶ自由が増えれば増えるほど、人は自らを幸福にする術を手放してしまう癖があることを歴史は伝えてくれます。外軸に依拠するのではなく、つまり他人に幸福の定義を任せるのではなく、自身のメロディーを輝かせることで自ら見る世界を築いていく。そこに生命力の核があることに気づけば、外から与えられる軸を疑い、内側を流れるしらべに幸福の種を探しにいけるのでしょう。

 損得勘定で判断を下すとき、私たちは目の前の目的遂行にのみ関心を向けます。それが建設的に未来を作り上げる行為かどうか、自分以外の誰かに迷惑をかけたり弱者をさらに貶める状況に加担したりしていないか、などの俯瞰的視点への意識を失いやすくなります。さらに重要なことは、何が損で何が得かの基準は往々にして外部から押し付けられたものが多いということです。外部の基準に日々の判断を委ね続ければ、やがては外部の基準で選んでいるもの(選ばされているもの)と主体的に選んでいるものの間の境界線が見分けられなくなります。怖しいのは、主体性の喪失と聞いても危機感を覚えない人々が増えているという状況です。

 無力感を感じさせる社会や政府の不甲斐なさが国民の無気力の大きな原因です。しかしこれに甘んじても国民は幸福から遠ざかるだけなのであれば、現代は無気力という敵との戦いを意識的に引き受ける強さを求められる時代と言えるでしょう。そしてその戦いとは枯野に生命の輝きを探すような、些細なしかし確かな、主体性の発露から始まるのかもしれません。

 

参考文献:

岡潔『春風夏雨』角川ソフィア文庫、2014

 


《編集部より》

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