【仁平千香子】「じっくり」より「もっと」を優先する社会は幸福か:教育の過重負担問題が鳴らす警鐘

仁平千香子

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 先月、文科省は有識者会議を開き、教育内容の過重負担について話し合った。公立学校において、教員にとっても生徒にとっても負担が多すぎることは、これまで各方面から指摘されていることである。プログラミングやキャリア教育、英語教育など増え続けるカリキュラムに合わせて、教員は新たに多くのことを学ばなければならず、また部活動における負担も大きい。さらには不登校児の増加によって、自学学習のサポートや保護者とのメールのやり取りなども加えられている。絶対的な教員不足のなか残業なしに運営のできない環境で、残業時間が月50時間を超える教員が60%と文科省からの報告にあるが、ほとんど手当はないという。いまや公立学校はブラックとまで呼ばれ、教員を目指す若者が激減するのも自然なことである。

 不登校児の急増もまた、詰め込み教育の弊害が影響しているとも指摘されており、業務やカリキュラムの過重負担は教員からは教えやすい環境を、生徒からは学びやすい環境を確実に奪っている。居心地の悪い環境であれば、教員も生徒も本来の能力を発揮できないだろう。またどちらにとっても求められる仕事量や学習量をこなすことが主な評価基準なのであれば、生徒から信頼の厚い教員や、ある特定の教科に対して格別な熱意を示す生徒など、評価基準に当てはまらない側面は価値のないものとされてしまう。

 ノルマを過不足なくこなす人材が理想とされる社会とは、工場生産の均一な商品を求める基準が人間の在り方にも当てはめられる社会である。資本主義社会の特徴の一つとも言えるが、現代にはそこに情報社会の要素も加わる。情報社会ではより多くの情報を所有することに価値が置かれる。学校教育がその典型である。試験はより多くの情報を記憶する生徒を選別し評価することを目的にしている。その評価を獲得し続けたものがより偏差値の高い学校への進学を許可され、将来の財産や権威が保証される。知識が質以上に量を問われるようになると、知識を人生にどう活かすかではなく、他人との差別化を証明するために利用される。結果、クイズ番組で賞金は取れても、人生をどう豊かにするのかわからない類の知識を求めて人々が学習するようになる。

 動画の倍速視聴(過去のメルマガ参照)の傾向も、情報の所有量に価値を置く社会を象徴している。よりたくさんの動画を再生して「見たことにする」若者は、特定の作品と深く向き合いそこから学ぶことより、「見た」という結果を集めて周囲から置いていかれないことを目的に視聴経験を重ねている。

 教育現場にしろエンターテイメントにしろ、数の原理が優先され、一つ一つの知識や作品と向き合い深く理解しようとする試みが蔑ろにされている。しかし知識でも経験でも一つ一つとの出会いを真剣に捉え、そこから何かを学び取ろうという主体的意志があってこそ、学びとして昇華される。能動的学習者は、知識を自らに取り込み、そこから新しく何かを創造しようとする。自らの創造性を信頼すれば、より複雑な問いと積極的に向き合うことに興味が湧き、自らの答えを生み出すべく内側にベクトルが向く。そしてこの積み重ねを成長と呼ぶのである。しかし記憶に頼る学習者は内なる創造性に気づく機会も得られず、関心もない。答えを常に外に求めるため、正解が明らかでない類の問いは彼らに不安を与える。不安を取り除くため、彼らは答えを与えてくれる他者の言葉を探す。誰かに答えを教えてもらわなければ安心しない学習者に主体性は育たない。つまり数をこなすことへの異常な信頼が、学び方や生き方をあえて生産性のないものに変えている

 数や所有に価値を置く社会で、どれほど人は幸福なのだろうか。この問いを深掘りするために、以下では芥川の短編「蜜柑」(1919を取り上げてみたい。

  主人公の男は横須賀発の二等客車に座り発車を待っている。すると見すぼらしい小娘が向かいの席に腰を下ろしてくる。男はその「油気のない髪」、「痕のある皹(ひび)だらけ」で「気持の悪い程赤く火照らせた」両頬に、「霜焼けの手」や「不潔な」服装から小娘を田舎者と判断し、視界に入ることが不快でたまらない。さらには彼女の手には三等切符が握られており、「二等と三等との区別さへも弁(わきま)へない愚鈍な心が腹立たし」くなる。男は小娘の存在を忘れようと、夕刊を開くが、そこにも気分を明るくしてくれるような話題は一つもない。男は田舎者の娘と夕刊とを並べて、「不可解な、下等な、退屈な人生の象徴」であると決め込み、さらに憂鬱さを増していく。

 その後も娘の行動は男を不愉快にさせていく。娘は男の隣に席を移り、トンネルが近づいているにもかかわらず、窓をしきりに開けようとする。まもなくトンネルに入ると同時に重い硝子戸が下へ落ち、煤煙が車内に容赦なく入ってくる。男は咳き込み、娘を叱りつけたい衝動に駆られるが、間も無く汽車はトンネルを抜けて安堵する。窓の外を見ると、貧相な藁屋根や瓦屋根がひしめく貧しい町があり、踏切の向こうにはこれまた貧相な男の子が三人立っていた。すると窓から半身乗り出していた娘が男の子たちに向けて蜜柑を5、6個投げる。そこで男は全てを了解する。娘はこれから奉公先へ向かうところで、姉を見送りにきた弟たちの労を報いるために娘は蜜柑を投げたのだ。その光景は男の心に焼き付けられ、「或得体(えたい)の知れない朗な心もちが湧き上つて来る」と、娘が別人に見えてくる。最後に「私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである」という語りとともに作品は閉じられる。

 男が初め娘の外見の見すぼらしさに注目する様子から、男が「所有」を軸に他人を評価する人物であることがわかる。つまり娘が何を持っているかでその価値を測っている。三等切符で二等室に座っていることも腹立たしい。しかし娘の弟たちへの愛情を知り、娘への評価は逆転する。娘のおかげで朗らかな気持になり、人生に対する倦怠と退屈さをわずかにでも忘れることができるのである。

 男を慰めたものは、娘の「与える行為」だった。与える行為は所有する行為と対義的である。所有に価値を置く人間は、人間の価値より物の価値を優先する。「我持つゆえに、我あり」の思考で、より多く持っている自分には価値があり、そうでない自分には価値がないと考える。ゆえに失うことが怖い。自分の価値は所有する物質に依るのであれば、自分は物質より上に立てない。幸福は自分の手元に流れてくる物質に委ねられ、またその物質の到着をもたらす運に委ねられる。

 所有しようとすればするほど人は孤独になる。自分が十分に持っているかどうかは他人との比較においてでなければ確認できず、それは競争の意識を生む。所有の対象は物質的なものに限らず、地位や名声に関しても同じである。他人は競争相手であり、信頼関係を構築する相手ではなく嫉妬する対象になってしまう。また、「蜜柑」の男のように、競争心は楽して得する他人への不寛容も生み出す。問題は娘より物質的にも多く持ち、娘より社会的権威のある男が幸福に見えないことである。

 与えようとするとき、それは物質である必要はない。与える物質がなければ、時間や労力、を使って与えることも可能であるし、また言葉や気遣いを通しても人は与えることができる。与える行為に上限はなく、損得勘定に支配されなければ、その行為を通して充足感を得ることもできる。

 仏陀は弟子たちにあえて貧しい村に行きお布施を乞うよう説いた。貧しい人々は不足の意識から与える行為と疎遠であることが多く、その意識が物質的貧しさを引き寄せていると知っていたからだ。お布施を通して与える行為を体験させることで、まずは心の貧しさから人々を救おうと仏陀は考えたのだ。つまりお布施は本来、相手のためにするものではなく自分のためにするものということである。与える行為を通して、与えることができる自分を知り、自分の可能性を肯定することで、所有に縛られる外軸の生き方から幸福を自給自足する生き方に切り替えられる。

 幸福とは所有の対岸にあるものである。より多く持つことが幸せと思えば、常に不足する自分を意識し、他人に対して競争意識を持つため孤独に進まざるを得ない。また欠乏感を持ちながら感じる幸福は刹那的である。賭け事で得られる幸福感は持続せず、その種の刺激は得るたびより強いものを求めるようになるため、より多く儲けなければ前回を超える満足感は得られない。しかし与える行為を通して得られる幸福感は、何かとの比較を必要とせず、軸は自分にある。そこでは何を与えるかというより、与えたいという意識が幸福感を引き寄せる。意識は物質のように不足することはなく、本人の意志次第でいつでも作ることができる。

「蜜柑」の娘の場合、裕福だから与えるのではない。与えたいから与えるのである。蜜柑が手に入らなければ彼女は別の何かを弟たちに与えたであろう。決して奉公先に向かう娘の方が男より幸福だと決めつけたいわけではないが、男が見下した「持たない」娘が、「持つこと」の価値に支配される男より不幸とも言い切れない。

 学校教育問題の文脈に戻れば、学びの空間自体が「所有」の価値に支配されていると言える。より多く情報を持つものが強者とされ、子どもたちは知識の記憶を通して、将来物質的にもより多く持てる大人を目指す。情報というものは基本的に外から来るものなので、そちらに軸を置けば、それをこちらがどう受け取りどう活用するのかという能動性が発動されにくい。主体性や能動性に欠ける人間は往々にして不安である。自分の人生の舵取りが外にあるという認識で生きれば、自分の幸福は運など不確かな何かに左右されると信じるため、その精神は脆弱にならざるを得ない。しかし自分の人生の舵取りを主体的に、能動的に引き受ける強い意識が生きる力を生み出す。それが人間としての強さとなるはずだが、果たして現代の教育環境はどれほど子どもたちに生きる力を養わせられているだろうか。

 不登校児の急増や、若者の自殺が絶えない現状を顧みれば、情報の「所有」を目的にした教育内容が子どもたちを幸福に導けていないことは明白である。教育を提供する側の教員も過剰な負担を感じているのであれば、つまり満足感を感じていないのであれば、それは子どもたちを幸福に導いているという実感が乏しいことも起因しているだろう。自らの与える行為に納得がいっていれば、与えることで得られる満足感が伴うはずであるが、多くの教員にとってはそうではないようだ。

 最近では珍しくなくなった有名人の自殺のニュースは、経済的豊かさと幸福が比例するという私たちの幻想を打ち砕いている。それでも教育現場は情報所有者の育成を通して、経済的豊かさという「成功」への道に子どもたちを誘(いざな)い続けている。絶えず増え続ける学校問題は、カリキュラムの修正や働き方改革や不登校児の対応など局所的な補修で対応できる類のものではない。問題の根本は、日本人の多くが幸福というものの本質を知らないことにあるのだろう。幸福とは生きる力の獲得と切り離せない。生きる力とは、自らの人生の舵取りを引き受ける能動性(または覚悟)にあり、それは自らの創造性を信頼する人間のみが手にできる

 


〈編集部より〉

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コメント

  1. 森下雄介 より:

    全く仰る通りだなと思いました
    今や情報さえも所有を競う時代になって所有してないと不安になりやすい時代の
    学校の先生も大変だなと思います
    学校の先生に色んな対策としてのカリキュラムをやらせるんじゃなくて
    本当の意味での教育、生きる力を身に着けるのが教育だと思うんですよね
    生きる力とは自分で正解や正しさを見つけるのが生きる力であって
    他人から正解を教えて貰う物じゃないと思います
    今の若い人か学生って他人からの承認を得たい為だけに
    何かを誇っては何かに不安になる事の繰り返し
    そういう受動的な人間が増えてる事は今の学校教育の仕方がカリキュラム先行過ぎて
    本当の意味での教育になってないからだと思います

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