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時間貧困で遠ざかる子供たちのSOS:忙しさは本当に成功への近道か

仁平千香子

仁平千香子

 「お金を稼ごうとすると暮らしが貧しくなる」、そうつぶやく子育て世代が増えている。経済的豊かさを求めて働くも、忙しさゆえに暮らしの質が落ちていると感じているためだ。彼らを悩ませるものが「時間貧困」(time povertyという問題である。時間貧困とは、日中の活動時間から通勤・労働時間を引いた際に十分な家庭時間が確保されない状態を指す。ひとり親や共働き世帯、未就学児の子育て世帯の特に女性に多いとされている。家事と育児に十分な時間が割けなければ、睡眠時間や余暇時間に皺寄せがいく。時間をお金で買おうと、食事はスーパーの惣菜や弁当頼みになれば、栄養バランスが偏り、子供たちに家庭の味を伝える機会も失われる。最低限の衣食住を整えることに精一杯で、子供とのゆったりした時間などない。当然自分に投資する時間もない。このような時間貧困状態が、多くの育児夫婦に「暮らしの貧しさ」を感じさせているという。

 「忙しさ」は文字のごとく、「心」を「亡」くさせる。英語のbusiness(ビジネス)はbusy(忙しい)が名詞化したもので、busyは古くは「不安」という意味で使われていた。働くことがいかに時間に追われる不安定な心理状態を前提としているかを物語っている。つまり経済的豊かさを求めれば時間的豊かさを失うのはこの資本主義社会の摂理であり、両立は難しいようだ

 時間貧困は大人だけの問題ではなく、子供たちにも大きく影響する。貧困家庭ほど親の労働時間が長く、親子時間は限られる。ここで言う親子時間とは、親が子供の衣食住を整える以外で子供と過ごす時間を指す。そこには子供の話をじっくり聞いてあげる時間、絵本を読み聞かせる時間、宿題を見てあげる時間、または「みてみて」の要求に答えてあげる時間などが含まれる。これらは子供の精神衛生に不可欠な時間であり、その不足はトラブルに巻き込まれやすい子供たちを作るとも言われている

 2015年に川崎市で起こった中一男子殺害事件で、三人の加害者のうち二人は外国にルーツのある母親を持ち、幼い頃から言葉による人間関係構築の苦手な子供だったという。外国人の親を持つ家庭の傾向として、日本語が不自由なために低賃金長時間労働の仕事しか選択肢がなく、結果子供との時間が絶対的に不足する。母親との時間が少なければ母語を学ぶ時間も足らず、結果親子でコミュニケーションが難しくなる。親子時間の少ない子供は語彙力に乏しいという統計もあり、語彙力に乏しければ、他者とのやりとりは言葉以外の部分に頼るしかなくなる。結果、友人とのトラブルを暴力で解決しがちな子供に育つ。川崎市の事件では、被害者側も時間貧困家庭で育っており、シングルマザーの母親は日々の忙しさから息子の交友関係を把握していなかったと話している。

 時間貧困が子供を幸福から遠ざけることは明白である愛するという行為には「よく見る」という行動が不可欠であり、幼い子供が親の視線を常に自分に引き寄せようとし、思春期の子供が親の関心を引くために問題行動に走ったりするのはそのためである。親から十分な関心を受けていると実感することで子供は自己肯定感を育て、家庭外の他者とも関係を構築できるようになる。自己肯定感は子供の生きる力の獲得に不可欠であり、親子時間がそれを支えるのだ

 このように時間に余裕のある暮らしが幸福と切り離せないのであるが、この事実はあまり認知されていない。豊かな暮らしと聞けば経済的豊かさを想像することが多く、経済的貧困は問題として取り上げられやすい一方で、時間的貧困の深刻さは理解に乏しい。

 貧困家庭の問題に関しては、低賃金労働者の労働環境改善や景気回復のための財政改革など、政府による積極的な働きかけを期待するしかないが、時間貧困は低賃金世帯だけが陥る問題でもない。夫婦ともに育児や家事に協力的な家庭であっても、時間貧困世帯は多い。スマホに時間に浪費して親子時間や自分への投資の時間を犠牲にしている大人たちは珍しくないだろう。

 そもそも「成功」とは「忙しさ」を前提とするものなのか。長時間労働と生産性の高さが比例しないことは、他国との比較から明らかであり、実際給料を変えずに労働時間を短縮したが以前と変わらない生産性を維持しているという企業例が欧米圏で多数報告されている。家庭時間を少しでも確保するために、家事の外注化を母親たちに勧める声があるが、先に書いた通り出来合いの惣菜や弁当によって整えられる家族の食卓に豊かさを感じる世帯は多くはないだろう。また保育園や学童の長時間利用やシッター利用を促進することで両親により働きやすい環境を提供するという試みもあるが、親子時間の不十分な家庭にどれほど幸福が満ちているのかは疑問である

 これらが示唆することは、職場で過ごす時間は生産的である一方、家庭での時間は非生産的と考える傾向が多くの日本人に共有されているということである。つまり経済的生産性に直結する時間にばかり価値があるとする見方が常識となっている。よって労働時間を減らすより、または労働環境における効率性をあげるための工夫をするより、家庭での仕事を簡略化することや子供との時間を減らすことが優先されてしまう。

 忙しい生活に幸福の種が少ないのであれば、どこに幸福はあるのか。今回はアメリカの短編小説家レイモンド・カーヴァーの “A Small, Good Thing” (1983、村上春樹訳「ささやかだけれど、役に立つこと」)という作品をもとに、この問いを掘り下げてみたい。

 話はある母親が8歳になる息子スコッティーの誕生日ケーキをパン屋で注文するところから始まる。誕生日当日、スコッティーは交通事故に会い昏睡状態に陥る。検査と手術を重ねても原因はわからない。夫婦が心労から休息を取ろうと交互に帰宅すると、どちらも自宅にかけられる不可解な電話に悩まされる。この電話の主は予約したケーキを取りに来ない客に腹を立てたパン屋からの電話なのだが、夫は妻の注文のことを知らず、妻もすっかり忘れている。電話の主は名乗ることなく「あんた、スコッティーのこと忘れちゃったのかい?」と繰り返し問いかけるが、息子の病状に冷静さを失っている二人は気遣いのない男の問いかけに怒りを募らせる。客の状況を知らないパン屋は乱暴な問いかけの電話と無言電話を繰り返す。

 まもなくスコッティーは病院で息を引き取る。息子の死を実感できないまま家に戻った二人は、再度例の電話を受け取る。「あの子のこと忘れたのかい?」と繰り返す男に、妻は「悪魔!」と叫ぶ。そして無言電話が続く。そこで妻はようやく注文したケーキのことを思い出し、電話の男がパン屋であることに気づく。夫婦はパン屋へ急ぎ、電話の嫌がらせを問い詰める。三日前の誕生日ケーキならただでくれるというパン屋に、妻は息子の死を伝え、「恥を知れ」と罵しる。パン屋は事情を理解すると店の中に二人を招き入れ、電話での無礼を謝罪する。そして事情を説明する。数年前までは自分はこんな人間ではなかった、「世の中の役にたつ仕事をしている」と信じて、家族も持たず、日銭のために来る日も来る日も孤独にパンを焼き続け、他人のお祝い事の食事やケーキを作り続けるうちに、「人間としてのまっとうな生き方を見失ってしまった」のだと。

 落ち着きを取り戻した妻を見て、「こんなときは、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」とパン屋は夫婦にコーヒーと焼きたてのロールパンを差し出す。その時妻は息子の事故後はじめて空腹を感じ食べ物を口にする。そして三人は夜明けまで語り明かす。

 パン屋は少年の不幸について知る術もなく、パン屋として被った損害に対する憤りから客に嫌がらせの電話をかけ続けた。夫婦の不幸は、息子の事故とケーキの受け取りの日が重なったことにあった。そして注文したパン屋の主人が幸福な日々を送っていなかったことにあった。パン屋は、まっとうな生き方を見失ってしまった理由が労働にのみ費やされる日常にあったと語る。深夜から仕込みの始まるパン屋は低賃金長時間労働の職種である。「世の中の役にたつ仕事をしている」という信念だけが彼を支えていたが、孤独や変化のない日常は、誰かの祝い事に関わる仕事から喜びを奪っていく。

 少年を失い傷ついた夫婦は、パン屋が差し出す焼きたてのパンに暖められる。それは二人にとってa small, good thing(ささやかだけど有難い・素敵なこと)である。パン屋も夫婦に食べてもらうことでパン屋としての喜びを思い出す。それは“a small, good thing”を提供することで誰かを暖める喜びである。

 幸福とはささやかな日常を喜べる心にある。しかし忙しい日々はそのささやかな些事の価値を否定し、自らを幸福から遠ざけてしまう

 エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』で、愛は能動的行動、つまり与えることを前提とした行動であると語る。しかし市場の交換価値を基準にする資本主義社会では、「あなたが私にくれるぶんだけ、私もあなたにあげる」という倫理原則に人間を縛り、愛する行為に対してもこの「公平さ」が基準にされるという。損得勘定と愛は矛盾するものであり、公平さと愛も混じり合うものではない。フロムは「隣人を愛せ」という聖書の言葉は、隣人に対する責任と隣人との一体感を前提とするが、公平の倫理では隣人の権利を尊重はできでも、愛することできないという。

 資本主義社会で愛の実践は難しい。労働時間と賃金の公平な交換というルールは、互いに差し出す量に制限をかけ、その均衡が保たれない場合に人は怒りや不満を口にする。つまり愛から離れる。

 一方、愛は使いすぎてなくなることはなく、公平な交換を必要としないが、愛は多くの場合時間を要する。子供を「よく見る」には時間がかかる。労働時間を優先する社会で、人はどうしても愛する行為から遠ざかる。「よく見る」ことにお金はかからない。「時は金なり」の思想が収入につながらない時間の過ごし方を否定的に捉える傾向を生んだのだろうが、金のために時間を使った結果、人はより不幸に近づくのであれば、この社会を支配する常識に根本的な勘違いがあるのだろう。心を込めてパンを焼くという行為もまた然りである。心を込めることにお金は要らない。そしてそこに込められた愛と愛を込める行為はパンを食べる側も作る側も幸福に近づける。

 人は愛される時以上に愛する時に幸福を感じるのだ。能動的に愛することに資源も能力も要らない。ただその意識があればいい。幸福が何かを理解し、愛する自分の豊かさに気づけばいい。

 フロムは言う。

たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」を与えられる母親はごく少数である。蜜を与えられる母になるには、たんなる「よい母」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。

子供たちの健全な成長と幸福には、最低限の衣食住を整えること(「乳」を与えること)以上に、「蜜」という母親の能動性を伴った愛の行為を必要とする。そして幸福な母親でなければ蜜は与えられない。幸福とは、外部から運に左右されてやってくるものではない。日常のささやかなことに対して感謝で向き合おうとする心が、幸福を実感させるのだ。幸福はどこにでもある。アウシュヴィッツにすら(過去のメルマガ参照)。

 息子を失ったばかりの夫婦に束の間の安らぎを与えたのは一つのパンだった。それは名もなきパンではなく、自分たちと同じように苦労を重ねて生きてきたある男がその手で作ったかけがえのないパンだった。そのパンをいただく有り難さに気づいたとき、夫婦に食欲が戻り(生命活動が再開し)、安らぎという幸福が訪れるのだ

 時間貧困の問題は社会の経済的要因に帰するところが多いだろう。また一方でこの社会に埋め込まれた資本主義的幸福観に潜む矛盾に気づかないために、自ら時間貧困という生き方を選んでいるという場合もあるだろう。その生き方はどれほど自分を、そして子供たちを幸せに近づけているだろうか。「心」を「亡」くすことで、幸せの本質に気づかせないカラクリがあるようだ。それは子供たちを「よく見て」、彼らの声にじっくり耳を傾ける時間が教えてくれることかもしれない。

 


〈編集部より〉

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