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【特集座談会】日本人よ、自らの”宗教性”を自覚せよ/島薗進×施光恒×藤井聡×柴山桂太(2)

啓文社(編集用)

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表現者クライテリオン2024年1月号【特集】「政治と宗教」を問う --神道・仏教からザイム真理まで
 
より巻頭の特集座談会を一部公開します。昨日公開の記事の続きとなります。

12/15発売の本誌にて全編お読みいただくことができます。
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【特集座談会】日本人よ、自らの”宗教性”を自覚せよ/島薗進×施光恒×藤井聡×柴山桂太(2)

 

サッチャーの新自由主義が持つ宗教的価値観

 

柴山▼私の専門である経済思想史に関連して考えてみると、一九八〇年代以降の世界で、新自由主義が影響を持ちすぎてしまった、という問題があります。

 「自由市場がすべてを解決する」という市場原理主義が新自由主義の背景にあり、これを批判するためには経済学的な誤りを指摘する必要がある、というのが一般的な新自由主義批判ですが、私は最近、それだけではどうにも立ちゆかないのでは、と思い始めています。

 というのも、新自由主義の歴史を調べてみると、そこに宗教的影響の存在を感じざるを得ないからです。例えば新自由主義的政治家の代表格であるサッチャーの伝記を読むと、とても信心深い人で、インタビューでも「私が行いたいのは経済学の改革ではなく、魂の改革だ」と言っている。

 その意図するところは、イギリスの経済が停滞し、社会秩序が退廃したのは「本来持っている正しい道徳や規範を失ったからだ」というのです。自分たちが子供の頃はみんな教会へ通い、家族愛、隣人愛があり、その集合体としての社会があり、だからこそ経済も成り立っていた。しかし戦後の豊かさと福祉国家体制のもとで人々は勤勉さを失って怠惰になり、家族や隣人を愛するよりも政府に依存していた方がいい、という価値観に変わってしまったのだ、と。

 こういう社会構造を一度破壊して、サッチャーが考えるイギリスの伝統的、キリスト教的な道徳に立ち返ることが経済の再生よりも先にやらなければならないことであり、これなしには経済の再生もない、というのがサッチャーの強烈な信念なんです。

 こうした発想が、サッチャーのいた保守党はもちろん、中間層にも受けたからこそ、支持を得た。つまり人々は経済的理屈に説得されて新自由主義を支持したのではなく、道徳的・宗教的メッセージに説得されて改革を支持したんです。

 すると、先ほど施さんがおっしゃったように、自由主義社会では公権力は特定の道徳規範や宗教を人々に強制しない、というのが大原則のはずなんですが、サッチャーの新自由主義に関しては、かなり強力に「人生はこうあるべきだ」というメッセージを主張し、押し付けるものになっているんですね。

 これには二つの解釈が成り立ちます。一つはサッチャーの掲げる新自由主義は、全く自由主義ではないということ。世俗化した時代に突然、古い宗教観念を持ち出して、経済政策であるかのように偽装して人々をかどわかした。もう一つは、自由主義というのは本来こういうものであって、道徳的・宗教的なメッセージ性を完全に排除して政治を行うなんてことはできない。一見すると超世俗的に見える規制緩和や小さな政府、市場原理の導入というような新自由主義政策も、その根本においてはその国の文化で最も伝統的で、マジョリティが支持するような、素朴な道徳的、宗教的なものを背景に持っている、または持たざるを得ないのではないか。

 その場合、イギリスはキリスト教的価値観でいいとして、問題となるのは日本の場合はどうなのかということです。これが分からなければ、施さんのおっしゃったように、「悪用」されかねない。

 中曽根政権以降、特に小泉政権以降に如実に進められた新自由主義政策の際の一連の道徳的メッセージは、一体何だったのか。それは日本の本来あるべき宗教的伝統と合致するものなのか。ここを問わなければなりません。

 

世界に広がる大衆の排他的宗教性

 

藤井▼世俗主義化、脱宗教化と言ってもいい流れの中で、日本においてそれが政治にどのような影響を及ぼすのか、知識人の間でも十分には論じられてこなかった、という島薗先生のお話があり、その上で施さんからは政教分離が進む一方で、文化や価値観、習俗などの背景にある宗教意識は消えないし、宗教や教団に端を発する政治的アピールがあることは許されてしかるべきだ、というお話がありました。

 しかしそれにもかかわらず、柴山さんがご指摘されたように、新自由主義というものは実際には宗教的、というよりもむしろ教条的な意識が背後にあったが故に強烈に推進されていったにもかかわらず、その事実が隠蔽されていたという問題がありました。それと同様に、財政における「緊縮主義」の展開についても同様の教条的な信奉があり、それを推進する財務省はまさに森永卓郎先生の言う「ザイム真理教」というカルト教団に比喩的に表現することもできる実態にある。これらは現代日本における脱宗教化、世俗主義化によってもたらされたある種のニヒリズム(虛無主義)の果てに出てきたとも言えるように思います。

 

島薗▼経済思想と宗教の関係性についてマックス・ウェーバーに立ち返って『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に沿って考えてみると、資本主義的な経済発展が人々の福祉にプラスに作用する、とそのことに比較的楽観的な時代が、ヨーロッパでは十九世紀から二十世紀の半ば頃まではありました。特に発展途上国では比較的そういうことが起こりやすくて、それは経済発展の宗教性と言えるものかもしれません。つまり、幸せに向かっている、豊かになっていくという未来に対する信頼感みたいなものが、一時期ではあっても経済発展によって得られる、とみんなが信じられたのです。

 その背後には実はプロテスタントの倫理のようなものが作用しています。スペンサー的な社会進化主義的な“宗教”と言ってもいいのですが、あるいはマルクス主義的な経済発展に次いで、理想の自由の王国が来るのだと。そういう楽観に対して、かろうじてプロテスタントの倫理が逆説的に働いてここまで来た。ところが、その先には鉄の檻がある、そしてニヒリズムの世界が来る、とウェーバーは予言のごとく言っているんですね。リベラリズムではなくて、ニヒリズムが広がる、と。どうしてもニヒリズムとリベラリズムはコンビになってしまうんだけれど(笑)。

 そういう中で、一つの出口としてサッチャーのような新しいタイプの保守主義が出てくるのでしょう。しかも、その背後にはキリスト教の大衆化、いわゆるアメリカの福音派に代表されるような、大衆のキリスト教の興隆というものがあって、その政治勢力と、サッチャー的、あるいはレーガン流の新自由主義・新保守主義というものとが結びついているのだろうと思います。

 しかもそれは現在、非常に危険な状況に達していて、危機的状況にあるイスラエルを熱心に支持しているのは特にアメリカの福音派、つまり共和党の草の根岩盤支持層です。プロテスタントの中の大衆派、主にファンダメンタリストと言われた人たちですが、彼らは十九世紀の終わりに「キリスト教信仰の根本(ファンダメンタルズ)を譲らない」という立場を鮮明にしたために知識階級からバカにされ、いわば社会の表側から追放されたような勢力です。

 しかし二十世紀の前半までに着々と勢力を強め、一九六〇年代、七〇年代頃から共和党を支える一大勢力になってくる。この勢力が持っている宗教的政治性の中には、例えば妊娠中絶反対であり、イスラエル支持といった分断を深めるような内容が含まれています。

 なぜイスラエル支持かと言えば、エルサレムが世の終わりの場所だからで、旧約聖書にあるように、イスラエルという国が再興されることによって、再臨するキリストの王国が近づく。こうした聖書の予言を信じる信仰をディスぺンセーショナリズムと言いますが、こうした信念を持つキリスト教徒の声がどんどん大きくなっている。

 そのことは、共和党のトランプ前大統領が在任中になぜアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移したのかを考えても分かります。共和党の支持の背景にそうした信仰があり、民主党のバイデン大統領でさえ、そうしたものの影響を受けざるを得なくなっているのが現状です。施さんと柴山さんのお話を踏まえて考えると、リベラリズムと、大衆の排他的な宗教性はコンビになっているという点が見えてきます。特に米国で顕著な現象ですね。

 確かに施さんがおっしゃったように、宗教的なものが政治にポジティブに働くことがあって、これに期待できる部分があるというのは私も同じ立場です。一方で、世界ではカトリック教会の勢力がどんどん南に移っていって、白人聖職者が減ってきています。他方、プロテスタントでは特にメンバーが増大しているような教会は宗教右派と言われる人たちが多い、という捻じれた現象も起きてきています。

 これをどう見ればいいのか。ホセ・カサノヴァの『近代世界の公共宗教』(ちくま学芸文庫)という宗教社会学の専門家にはよく読まれる本があるのですが、もともとは「リベラリズムの後に来るものとして、宗教は公共空間から退いて、私的空間に限定されるべきだ」という共通理解があり、それが政教分離であると考えられていました。しかしその後、再び宗教が公共空間にカムバックしてくる動きがある。それが多様な立場の共存という点から見ると、二つ の方向に分かれているというのがカサノヴァの理解です。

 その中で、私の考えでは、政教分離を再定義するために は、どのようにして他の考え方を受け入れ、排他的になら ず、多様なものの共存を前提としながら、宗教的なものに 基づく共通善を提起していくか、ということになるのでは ないかと思います。

 

柴山▼ここで一つ、島薗先生にお伺いしたいのは、なぜ一九八〇年代以降、いわゆる宗教右派が英米圏で非常に強い力を持ち始めたのかという点です。

 もともと宗教には左右どちらも含みこんでいる部分があり、かつてはマルクス主義的なキリスト教、というような左派的な人たちも結構いました。しかし二十世紀後半、さらに二十一世紀に入ってから、なぜ宗教右派が目に見えて先鋭化し、政治化し、影響力を持ち得たのでしょうか。

 

島薗▼これは一つには、宗教教団の大衆化がもたらす排他 的信仰の強化という要因があります。大衆が積極的な役割を担う宗教活動の領域が広がっていくことで、教団の中の エリートと、一般人の在り方が変わってくるということです。プロテスタンティズムにはそもそもそういう傾向があるわけですが、誰もが宗教の主体であるという「万人司祭」 という象徴的な言葉もあります。こうなると、一般の信者たちが「自分たちこそ正しいキリスト教を継承、実践して いる」という意識のもとに集団を作っていくことになります。その際、排他的で閉鎖的な信仰が、強い集団行動を可能にするということが起こりがちです。

 これは近代も後期になってより頻繁に見られる現象で、日本でも新新宗教(一九七〇年代以降に発展期を持つ新宗教)の 発展に対応しています。イスラム教も、これだけイスラム主義的傾向が力を持つようになっていった背景に、この大 衆化があると言えるでしょう。自ら主体的に宗教を受け止める人たちの勢力が増してくると、多様な立場の共存を認 めようとするエリートたちのコントロールが効かなくなってくる。その中で排他的傾向がむしろ支持を集めるという ことが起こりがちだ、ということですね。

 

柴山▼確かに、日本でも新新宗教的な人たちの政治主張 は、保守寄り・右派寄りのことが多い印象があります。

 

島薗▼例えばオウム真理教は右だか左だか分からないほど ぶっ飛んでいましたが、日本の場合はあるべき姿を模索しようとすると、「戦前回帰」に向かいがちなので、右派的になるのでしょう。

 あるべき国家の姿を考えた時に、イスラムならその教え に厳密に従う国民だけが存在する国を目指すため、排他的になりますが、日本の場合は国体論や天皇中心の国家というものが基調をなしている。「にもかかわらず、占領によって堕落した、だから占領前の日本を取り戻す」となる。

 ただ、新新宗教が必ずしも右翼主流系というわけではなく、例えば統一教会は韓国中心主義です。それがこんなに日本の中で勢力を持ってしまったという、笑うに笑えない現象が起きていることになりますが。

 

リベラリズムの限界と宗教の復興

 

藤井▼万人司祭というお話が大変興味深いのですが、いわば万人の内的な主観にこそ宗教的根源があるというような概念の蔓延が、宗教の大衆化を導き、アメリカにおける福音派や、世界的なイスラム教の強力な浸透、さらには日本の右派の戦前回帰という流れも起こしている、と。これは政治学的、哲学思想的にいうと主知主義ということになるのではないかと思います。

 つまり知性というものが感情や気概よりも大事であって、知性ある自分がその知性を使ってすべてを決めてコントロールすることができるのだという主知主義は、傲慢な近代主義の根幹にある思想で、その一つの宗教的帰結が万人司祭の思想であって、それによって宗教の世俗化が起こり、その結果としてネガティブなものも露呈しつつあるということなんでしょうね。

島薗▼やはりこれは西洋中心の近代化ですね。近代化路線、リベラリズムというものや、古いタイプの政教分離、世俗主義が結びついて、十九世紀後半から二十世紀の途中までやってきた。しかもそれは資本主義的な発展で幸せになっていくというベーシックな、人々の満足感とも結びついていました。

 ところが先進国では経済発展が行き詰まり、環境問題が噴出し、人々の生きがいとは何かという問題が顕著に表れてきた。一九六〇年代から、そうしたことに対するアンチテーゼとして宗教復興的な流れが出てきます。…

(本誌に続く)

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12/15発売の本誌にて全編お読みいただくことができます。

https://the-criterion.jp/backnumber/112/

 

◯座談会参加者紹介

島薗 進(しまぞの・すすむ)

宗教学者。上智大学グリーフケア研究所客員所員、大正大学客員教授、東京大学名誉教授、NPO法人東京自由大学学長、日本宗教学会元会長。48年東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。主な研究領域は近代日本宗教史、宗教理論、死生学。著書に『宗教学の名著30』『新宗教を問う』(以上、ちくま新書)、『国家神道と日本人』(岩波新書)、『教養としての神道』(東洋経済新報社)など多数。近著に『死生観を問う 万葉集から金子みすゞへ』(朝日新聞出版)。

 

施 光恒(せ・てるひさ)

71年福岡市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。同大学院法学研究科博士課程修了。現在、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。政治哲学・政治理論専攻。著書に『リベラリズムの再生』『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』『本当に日本人は流されやすいのか』。編著に『ナショナリズムの政治学』『「知の加工学」事始め』。共著に『「リベラル・ナショナリズム」の再検討』『成長なき時代に「国家」を構想する』『現代社会論のキーワード』『TPP 黒い条約』『まともな日本再生会議』など。

 


〈編集部より〉

お知らせ 1

最新号『表現者クライテリオン2024年1月号』の特集タイトルは、

「政治と宗教」を問う

神道・仏教からザイム真理教まで

今週金曜日12/15発売となります!
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お知らせ2

12月15日に本誌編集委員の浜崎洋介先生が早稲田大学でご講演なさいます。

入場無料、予約不要ですので皆様ぜひご参加ください。

主催:早稲田大学國策研究會
 講師 : 浜崎洋介氏(文芸批評家)
演題 : 「保守言論人の歴史と現代」
日付 :  12/15(金)
時間 :  18:00開演(17:30開場)
場所 : 大隈記念講堂大講堂

詳細は早稲田大学國策研究會のX(旧Twitter)等でご確認ください。
https://twitter.com/wkokusakuken

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