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『カッサンドラの日記』16 照葉樹林の恵み—縄文の里、鎮守の杜

橋本 由美

橋本 由美

 元日に起きた能登半島の大地震では、情報・生活インフラが被災し、道路の亀裂・隆起・破損・土砂崩れなどで、情況把握や救助隊派遣・支援物資の搬入に大きな支障が出た。海岸を4メートルも隆起させた巨大なエネルギーは想像を絶するものだ。写真や画像で見る被災道路には既視感がある。それは、片側に山の急斜面が迫り、山肌が削られていて、反対側は絶壁で海や谷川に落ち込んでいる険しい道だ。このような地形を通る道路は日本中のいたる所にある。伊豆半島も中央部の山地を囲むように、道路が海に面した断崖絶壁を通っている。三陸海岸や親不知など、いまでは景勝地として観光客が訪れる場所もあるが、生産手段が限られる険しい地形だからこそ、若者が出て行って高齢者ばかりが点在する過疎地の限界集落になっているところのほうが多い。これからも地震や台風で、同じことが繰り返されるだろう

 日本地図を見てみると、この国はなんと山地が多いのだろうと、改めて思う。海岸線の殆どに山が迫っていて、平地に開けた部分が少ない。小学生のころ、日本は8割が山地だと習ったが、確かにそのとおりだ。耕地に適した土地は少ない。そして、山地には森林がある。日本は、島国であると同時に、山国でもあって、森林の国でもあったのだと認識し直した。

 日本列島の東北部と西南部は別々な場所からやって来た。約2000万年前には、東北地方の一部は大陸の沿海州のあたりにあって、西日本から九州までは朝鮮半島の近くにあった。この二つの部分が互いに逆方向に回転しながら、ゆっくりと大陸から離れていく。1500万年くらい前に、弧状に連なった島と大陸との間には内海(日本海)が出来ていた。東北地方の大部分はまだ海で、堆積物が陸化して日本列島が出来た。糸魚川-静岡構造線が、朝鮮半島付近からやって来た島の端っこである。この端の部分と東北部との間に、伊豆半島を乗せたフィリピン海プレートが、南海トラフ沿いにヒタヒタと押し入って来て、列島中央部でマグマの侵入や地殻変動が繰り返された。ここに出来たのが、諏訪湖以南の八ヶ岳を含む南部フォッサマグナと、諏訪湖以北の長野盆地に至る北部フォッサマグナだ。(今回の地震は、糸魚川-静岡構造線の北端付近の活断層で起きた。)

 北方の沿海州地域からやって来た部分と、それよりも南方にあった朝鮮半島の南東部からやって来た島では、植生が違う。北方には落葉広葉樹林が覆い、木々は秋になると紅葉して冬には落葉する。一方、西南の島には常緑広葉樹林が覆っていた。こちらの木々は常緑樹である。冬になっても落葉せず、葉の表面のクチクラ層の光沢から「照葉樹」とも言われる。照葉樹林には落葉樹も混入している。大昔、縄文時代の祖先たちは、この照葉樹林で生きていた。照葉樹林は、ヒマラヤ中腹から雲南・江南の山地、東南アジアや朝鮮半島地方に広がっていて、日本は照葉樹林帯の北限に在る。日本の照葉樹林には、シイ・カシ・ブナ・クスノキ・モチノキ・ツバキ・サカキ・クワ・チャ・柑橘系などが自生している。神社に奉納される榊は照葉樹の一種で、古代には八重垣と言われるほどに多く見られたのだろう。これらの種を共有するアジアの食性や生活文化には、稲作が伝播するもっと古い時代から似た傾向があった。この地域ではサトイモやツルマメも自生していて、大豆は東アジアでツルマメの栽培から生まれた品種である。大豆は味噌や醤(ひしお)の発酵食品に欠かせない。縄文時代には、既に醤の類があった。

 いまでは日本の自然は、殆どが人工的な自然である。森林も自然林ではない。先史時代に日本を覆っていた照葉樹林は、現在0.6パーセントしか残っていないという。亜熱帯から温帯にかけての樹木なので、冬の最低気温が低い高地ではモミやツガなどのマツ科の常緑針葉樹が多くなり、比較的低山地域が照葉樹林となる。低山地域は人の生活圏と重なり、昔から人の手が加えられた。生活用具や薪炭材としての利用や伐採によって森林面積は縮小した。私たちが日本の原風景として郷愁を誘われる「里山」は人工的な自然の代表である。里山は、手入れを怠れば荒れる。管理することで機能する自然である。人間のために使い勝手よく手入れをした自然が「里山」なのである。そこには嘗て照葉樹林があった。日本地図を見ればわかるように、日本列島には平地が少ない。丘陵地や低山にも人々は入り込んで、居住のために伐採し、薪炭や建築・道具の材料として伐採し、食物生産用の樹木に植え替え、耕地を広げるために切り拓いた。時代が下るに従って、山は建材として付加価値のあるスギやヒノキに植え替えられた。特に戦後の建材不足の時代に、殆どの山がスギ山になった。

 0.6パーセントの照葉樹林は、現在どこに残っているのだろうか。そのほとんどが神社の杜として残されている。鎮守の杜である。太古の時代から、森林の生物の多様性や生態系の複雑さが、アニミズム的な信仰を生んだと言われる。里山の「開発」で照葉樹林を伐採するときも、当時の人々は神社の周辺には杜を残した。彼らは「杜」に縄文時代からの「魂の原形」を感じ取っていたのだろうか。古くから神社の杜には伐採規制があった。入山や伐採には祟りがあると言われたが、それだけ樹木の伐採が行われていたということでもある。仏教の寺院の境内は、どちらかというとスギ・ヒノキ・マツのような針葉樹の木立に囲まれているような気がする。伝来宗教としての背景の違い、塔や伽藍の建築物の規模の違いがあるのかもしれない。中世近世以降には神社の木々の伐採跡にも経済的価値の高いスギやヒノキが植栽され、照葉樹林は減少の一途を辿ったという。

 鎮守の杜の照葉樹林の生態系に目を向けて、その保護の大切さを訴えたのが、南方熊楠である。南方熊楠には「菌類図譜」という3000枚以上に及ぶ粘菌(キノコ)をスケッチした観察記録がある。粘菌と言われても一般人には何のことかわからない。熊楠が観察していたのは、神社の杜に生息する不思議な生き物である。それは、アメーバの状態で動き回りエサを食べて成長し、合体し、単細胞生物でありながら多細胞生物のように振る舞い、環境が悪化すると植物が生えるように子実体(キノコ)という構造が出来て、そこから胞子をばら撒く。更にその胞子からアメーバが出てきて接合して、また同じサイクルを繰り返すのである。食べ物を摂取し消化してエネルギーに変えるのは動物のようでもあり、キノコとなって胞子を飛ばすのは植物のようでもある。彼は、動物と植物の境界領域にある粘菌に、生命の原初形態のカギがあると考えたらしい。熊楠は、この不思議な生物の変化を克明に観察していた。後世の粘菌研究で、粘菌の情報システムが自律分散型処理を行いながら、ゆるく相互作用していることがわかるのだが、熊楠の宇宙観の因縁(相互作用・萃点の思想)という考え方(南方マンダラ)が粘菌の世界に似ているのは偶然だろうか。彼は、粘菌を通して照葉樹林の織り成す生命力そのものを見ていた。

 明治39年の内務省の神社合祀政策で、地方の多くの神社の破壊が促進された。5年間で全国の神社は約19万社から13万社に減少したという。特に、三重・和歌山・沖縄・秋田などでは激減したそうだ。神社の森林は、神聖であるが故に、自然の生態系が維持されたミクロコスモスである。神社合祀政策が、地域の生物生態系や民俗学的な社会生態系の破壊に繋がるという見地から柳田国男らの反対運動に参加した熊楠は、昭和4年、昭和天皇が南紀に行幸したとき、田辺湾にある、破壊される予定の神島近くに停留していた軍艦長門の船上で、粘菌学を御進行した。政府や県の官吏が、熊楠の無作法な奇人ぶりを心配して反対する中、昭和天皇の強い希望によって実現したのである。このことで、神島の杜は破壊を免れた。

 昭和天皇は、以後、なにかと熊楠を案じておられたという。熊楠を詠んだ御製もある。生物学者であった昭和天皇は、粘菌学の進行を理解したというだけでなく、学問に対する情熱と誠実さ、無私無欲な熊楠をまるごと理解したのではないだろうか。天皇という立場では許されない自由奔放な熊楠の生き方に共鳴したのかもしれない。熊楠はエコロジストの先駆けであった。

 照葉樹林は、酸性雨に強い。落葉期が集中しないために森林内部の湿度が高く、山火事になりにくい。針葉樹に比べて広く深くまで根を張り、水資源涵養林として、水資源や土砂災害の防止にも利点がある。現代の寺社林は、断片化・孤立化している。農地や市街地、人工林などに囲まれた寺社林は「孤立林」であり、孤立林はそのままでは消滅する。森林の面積と生物の種数には強い正の相関があり、寺社林の面積の縮小はそこに生息する種が少なくなっていくことを示している。とくに神社の杜の好適湿性種、つまりジメジメした環境を好む植物や菌類の欠落が甚だしいという。小面積化によって風通しがよくなり、日当たりもよくなり、土壌が乾燥するためである。

 ところで、照葉樹林帯は世界にどの程度広がっているのだろうか。中学高校で使う補助教材としての地図帳で調べてみると、照葉樹林帯が実に少ないことがわかり、驚いた。日本を含む東南アジア地域以外では、南米のウルグアイとアルゼンチンの大西洋に面した一部、オーストラリア東沿岸の狭い地域とニュージーランドの一部だけだ。東南アジア地域が最大だが、これもモンスーン地帯の一部でしかない。まだ農耕が行われる前の縄文時代に、日本では集団の定住が見られた。縄文遺跡には移動する採取狩猟民には見られない墓地や祭祀跡が見られる。縄文住居の「炉」には、絶やされることがなく火が継がれ、そこには祭祀のための場所があったそうだ。世界の殆どの地域では定住化は農耕によって始まったが、縄文人は採取狩猟民でありながら定住していた。落葉広葉樹林にある三内丸山遺跡には人工的な栗の林があり、農耕以前の植栽による食料調達手段が認められる。照葉樹林の地域では、落葉広葉樹林に比べて、定住が可能なほど柑橘類や木の実やマメ類など食料になるものが豊富だったのではないか。農耕による食料増産を待たなくても小規模な定住が可能だったのは、照葉樹林のもたらす恵みがあったためだろう

 これに対して、ヨーロッパの殆どの地域は落葉広葉樹林である。落葉広葉樹林で食糧を採取するには移動が必要だ。ヨーロッパにおける定住は農耕の時代を待たなければ難しかったのではないだろうか。縄文人の食生活の豊かさは、文化を生んだ。一万年以上前に造られた縄文土器は世界最古の土器である。土器の製作も定住が可能にしたもののひとつだろう。重く壊れやすい土器を運びながら移動するのは困難である。土器を用いて煮炊きすることで、硬い食物を柔らかくして消化を助ける。雑菌を熱処理で無害化できる。煮炊きによって食料として利用できる対象が増えることで、定住は更に促進されただろう。祭祀に使われた土器の自由で力強いデザイン性は、縄文人の活力を窺わせる。照葉樹林帯は地球上の限られた地域にしかない大いなる恵みであった。

 現在、寺社は、信仰の対象としてではなく、観光に活路を見出している。独立採算制と政治・財政の関与の問題は、寺社に限らない。信仰や学問など生産活動よりも精神性を必要とする領域では、経営を維持し強化しようとするとき、犠牲にするものが多い。生産に直接関わらない団体の存続を考えるとき、自立した経営による精神性の維持と、国家による助成や関与というアンビバレントな問題のバランスをとるのは難しく、背景の社会全体の意識の在り方に左右される。残された照葉樹林も少しづつなくなっている

 照葉樹林は遥か昔の祖先の生活圏だった。繰り返す自然災害にも拘らず、再生する自然の恵みの豊かさが縄文の生活を支えた。鎮守の杜に生命の息吹を感じ、畏れを抱き、懐かしさを覚えるのは、私たちの奥に、嘗てそこで育まれた記憶が眠っているからだろう。日本は「山の国」であり「森林の国」でもあるのだ。

【能登半島地震についての付記】

 地震の規模は想定外でも、被害対策の問題は残る。自治体としては、少なくとも建造物の耐震性強化と劣悪な避難所の対策をもっと強化しておくべきだったと思う。最初の一撃に耐えられる住宅が大切で、特に過疎地で孤立の可能性のある地区では、住居の強度が生死を分ける。過疎地は高齢者世帯が多く、経済的理由もあって、建て替えや補強工事も簡単ではないとは思う。自治体の啓発と補助金について再検討の余地はありそうだ。更に今回は、避難所の極度の劣悪さが浮き彫りになった。避難所として設置可能な場所も限定されるだろうが、冬の厳しい地域で高齢化が進んでいることを考慮すれば、長引く孤立状態にも耐えられるような一時避難所の準備が求められる。長期の断水と「水」の問題は、全国の自治体が再考を求められる課題であろう。また、日本海側の国道の寸断は、救助や支援の他に安全保障上のリスクも考慮しなければならないだろう。日本海の向こう側には、日本を敵視している国がある。北朝鮮による日本人拉致も日本海沿岸で起こった。大和堆に群がる外国漁船を見れば、有事の対策が不安になる。日本海側のインフラの軽視はなかっただろうか。

 この国は繰り返し大きな地震に見舞われている。それでも昔から「防災は票にならない」「防災はお金にならない」と言われる。万が一の災害のための政策を訴えるよりも、明日の暮らしや目に見える利益を約束するほうが有権者を獲得できる。企業や組織の防災担当よりも業績向上に寄与した者の方が昇進できる。市町村が防災に予算を割いても住民には実感できず、実際に被災するまで有難味がわからない。いつ起こるかわからない災害対策の予算は常に後回しになって来た。民主政治では評価されないことを断行するのは難しい。大災害の度に全国から同情が集まるが、一向に平時の政策の優先事項にはならないのは、目前のことにしか関心を持てない私たち国民の意識にも問題があるだろう。

 

『地球の歴史』(下)鎌田浩紀 / 中公新書 / 2016

『ミルシル』日本列島の誕生と変遷 / 2020 No.2 /国立科学博物館
https://www.infoparks.jp/kahaku/products/detail.php?product_id=398

『ミルシル』照葉樹林 / 2023 No.4 / 国立科学博物館

『照葉樹林帯の食文化』佐々木高明 / 日本理科学会特別公演 1993

『粘菌  偉大なる単細胞が人類を救う』中垣俊之著 / 文春新書  2014

『南方熊楠』鶴見和子著 / 講談社学術文庫 1981

『ユリイカ』特集・南方熊楠 2008年1月号 / 青土社

『南方熊楠 菌類図譜』ワタリウム美術館 / 新潮社 2007

『JOMON』東京国立博物館 図録 / 2018
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〈編集部より〉

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