能登半島地震と津波の発生から数週間が経過した現在、多くの被災者が避難生活を余儀なくされ、北陸地方の厳しい寒さの下、断続的に余震が続く中で不自由な生活を強いられています(注1)。被災された方々が一日も早く平穏な日常生活を取り戻されることを祈らずにはいられません。
「阪神淡路大震災」や「東日本大震災」など巨大地震をはじめとして、我が国では「災害」の経験を豊富に積み重ねてきたのであり、その経験から「災害」に関するさまざまな知恵やノウハウを蓄積し、来るべき大震災に備えて対策が為されているものと考えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし残念ながら、前回の記事(注2)で論じたように、我が国では、近い将来に高い確率で巨大地震が起こることが予想されているにもかかわらず、「財政の健全化」という過てる政策目標が重視されて「防災・減災対策」が疎かにされてきました。その結果、耐震化の遅れなどにより能登半島地震と津波の被害が肥大化し、リダンダンシー(冗長性)(注3)が碌に確保されていなかったために、被災地の復旧・復興が遅々として進まない事態に陥ってしまっています。それに加えて、「避難所のあり方」など災害発生後の「被災者ケア」については、先進国として諸外国と比較するのが恥ずかしくなるほど不十分で劣悪なものであることが指摘されています。
日本では大規模災害が起きると学校の体育館や公民館などが避難所に転用されるケースが多く、「避難所」と言えば、(私自身がその1人なのですが)多くの人が、プライバシーが守られず、停電や断水のために、温かい食事を食べることができずに非常食で飢えをしのぎ、トイレや入浴にも不自由し、冷たい床に段ボールやマットを敷いて毛布で身体を休める大勢の被災者の姿を思い浮かべるのではないかと思われます。
しかし、このような我が国の「避難所のあり方」は、決して「当たり前のこと」でも「仕方がないこと」でもありません。日本人の多くが疑問に思うこともなく受け入れてしまっている劣悪な環境の「避難所のあり方」や不十分な「被災者ケア」は、欧米諸国からみれば「被災者に対するハラスメント」と看做されるものであり、避難所・避難生活学会の榛沢和彦氏は、東日本大震災の避難所を撮影した写真をアメリカやヨーロッパの支援者に見せたところ「クレイジー…」と絶句されたというエピソードを語っています(注4)。
榛沢氏によると、劣悪な環境の「避難所のあり方」が許されている(国民が容認している)のは、先進国では日本だけのことであり、欧米諸国の避難所では必ず簡易ベッドが準備され、またテントなどを用いて家族ごとにプライバシーが確保された状態で避難生活を過ごすことができるのが一般的となっています。被災者が(でき得る限りの)快適な環境で過ごすこと、尊厳ある生活を営むことが「当然の権利」と認識されているのです(注5)。
災害発生時の「避難所」や「被災者ケア」のあり方に関する認識とその実態について、欧米諸国と我が国との間における、あまりもの大きな違いに驚かされます。
この度の能登半島地震においても、県や市町村など行政が指定した避難所や住民が個人で設営した自主避難所で過ごす被災者、移動が困難であるなどの理由で病院や介護・福祉施設、倒壊や火災を免れた自宅に留まる被災者など、さまざまなケースが見受けられます。
避難所に指定されている小学校で避難してきた全ての被災者を受け入れることができず、やむを得ず近くの農業用ハウスで過ごしている人々がいることも報道されています。
被災地でのトイレ不足や雑魚寝状態の避難所の様子も確認されており、被災者が厳しい過酷な状況に置かれていることは間違いありません(注6)。
地震の影響で水や電気などライフラインが途絶し、もともと脆弱な道路インフラが被災したことから復旧作業が難航しており、珠洲市や輪島市など広い範囲で断水が解消されていません。水や食料が不足し、トイレをはじめとする衛生環境が悪化しています。食事やトイレ、入浴に手洗いといった生活の基本が成り立っていないのです(注7)。
支援の手が届き始めた一部の避難所で自衛隊やボランティアによる炊き出しが行われ、温かい食事が提供された様子なども伝わってきましたが、支援状況は避難所によって異なり、孤立状態に取り残された避難所では「朝食はせんべいやビスケットだけ」などといった非常食のみで温かい食事を摂ることができない状況が長く続きました。
トイレについては、トイレトレーラーや仮設トイレが届けられた被災地もありますが、全く数が足りていません。
お笑いコンビの「サンドウィッチマン」は、東日本大震災の際に開設した「東北魂義援金」で寄贈したトイレトレーラーが能登半島地震の被災地である輪島市に派遣されたことを受けて、ラジオ番組で「トイレ対策の必要性」について次のように語っています(注8)。
伊達みきお:
「トイレトレーラーが石川県輪島市の鳳至小学校にありまして、すごく大活躍しているという情報が入っております」「聞くところによると、日本国内に30台近くあるのかな、トイレトレーラーが。うん。それが一斉にね、被災地の方に向かった」
富沢たけし:
「そういうのも足りないんでしょうけどもね」
伊達みきお:
「もっとさ、国が作りゃいいんだよ、だって必要だったわけじゃん。絶対に必要だったって俺らでさえわかって、なんかものにしなくちゃいけない、どうしようかなって言ったときにトイレトレーラー、あ、これいいじゃん、トイレ必要だったもんねって俺らでさえ勘づいているわけだから、国がもっとさ、全市町村に2台ずつ入れるとか」「水・食料と同じようにトイレ、同じ時期に必要ですからね」「東日本大震災の教訓がそんなに生きていないなという気がするけどね」
断水が続いてトイレが使えない被災地では、便器に大型ポリ袋をかぶせて用を足し、凝固剤を入れて処理する非常用のものが使われています。しかし、使用経験がなく使い方を知らない被災者が少なくありません。その結果、トイレが汚れて衛生面が悪化しています。
仮設トイレの設置も進められていますが、段差があり、足が不自由な人や高齢者にとって使いづらく、そのため、トイレに行かないようにしようと水を飲まなくなり、体調悪化に繋がることが懸念されています。
大勢が寝食を共にする避難所では、インフルエンザやノロウイルス、新型コロナなどの感染症が広がりつつあり、常備薬が切れて、持病が悪化する人も出てきています。
地震と津波でなんとか一命を取り留めた後に、避難生活による疲労や環境悪化で命を落とす災害関連死(注9)のリスクが日を追うごとに高まっています。
多様な避難生活は、その過酷さにおいて共通しています。飲み水は不足し、身体は伸ばせず、衛生状態は低劣で、プライバシーはなく、睡眠は中断を繰り返します。避難所に身を寄せない被災者は、壊れかけた住宅や狭い車中などで過ごすことになります。
発災直後を生き延びた脆弱層を待ち受けているのは、避難所であれ、車中であれ、在宅であれ、このような過酷な環境です。その過酷さは、医療崩壊に由来するものではありません。ただ適切な避難環境が提供されないが故に「防ぎ得た災害死」に繋がるのです。
被災者たちは何も特別なものを求めている訳ではありません。清潔な水や温かい食事があり、風雨におびえることなく、プライバシーが守られ、自由に寝返りを打ち、静かに眠り、親密な人の傍で目覚めたい。ただそれだけのことなのです。
このように、人が暮らす上での基本的な尊厳を、未だ我々は満たすことができずにいます。非人間的な避難環境のなかで、疲弊し、体力も気力も奪われ、持病を悪化させ、感染症が広がり、大勢の人が命を落としてきました。やがてその死が「災害関連死」と呼ばれるようになったのです。災害関連死の定義は今のところ確立には至っておらず、さまざまな見解が併存しており、統一的な認定基準はありません。その認定基準がどうであれ、被災者の長期にわたる低劣な環境への封じ込めが現存していることに変わりはないのです(注10)。
地震や津波など災害は、老若男女を問わず全ての人に襲いかかりますが、被災した女性や子ども達は、災害そのものの恐ろしさに加えて理不尽な性暴力被害の恐怖にも晒されています(注11)。
「阪神淡路大震災」や「東日本大震災」で被災した女性たちが避難所などで性暴力被害にあうケースが報告されるなど国も問題視している実態があります。能登半島地震も例外ではあり得ず、地震の発生直後から、SNS上では、被災地の女性や子ども達に対し、性被害の危険、プライバシーの確保、衛生面の留意点などについて注意を呼びかける声が広がっていますが、実際に被災地での性犯罪被害が発生してしまっています(注12)。性暴力の被害者が訴え出にくいということから、表面化した事例は氷山の一角でしかなく、より多くの被害者が泣き寝入りしてしまっている可能性を否定できません。「加害者も被災者だから」という理屈でセクハラや性加害が黙殺されやすいという、にわかには信じ難い酷い話も聞きますが、性暴力自体が許されざる卑劣な犯罪行為であり、厳しく処罰すべきです。
改めて論ずるまでもない当たり前のことですが、女性や子ども達を含む全ての被災者にとって、災害時に性暴力に怯えることなく安全な避難生活を送ることは、決して我儘なことではなく、守られるべき最低限の権利です。
避難生活における性被害防止のためには、人々のモラル(道徳意識)に頼るのではなく、避難所に授乳室や男女別の更衣室やトイレ、さらには保健室や女性専用スペースを確保するなど性加害が起こりにくい環境を整備するとともに、避難所の運営に女性を参画させ、相談しやすい体制づくりや性加害を許さない意識の啓発を行うなど、全ての被災者が安全に災害を生き延びていくことができる環境づくりが求められます(注13)。
男尊女卑が蔓延り、相互に監視し合う歪な社会の縮図と化した東日本大震災後の避難所を舞台に女性たちが虐げられながらも逞しく生き抜く姿を描いた、垣谷美雨による小説『女たちの避難所』(注14)に、次のような描写があります。
この避難所に来てからずっと、何かがおかしいと、疲れた頭の片隅で感じてはいた。
だが、何かがおかしい、のではなくて、何もかもがおかしい。
あまりに過酷な生活のせいで、じわじわと権利意識を奪われていたのではないか。
自己主張する感性がなくなっていたのではないか。
-助かっただけで感謝すべきだ。
-自分だけがつらいのではない。もっとつらい人もいるんだから、我慢しなくちゃ。
全体がそういう雰囲気に包まれていた。
「東日本大震災女性支援ネットワーク」を結成し、被災者の支援活動を行ってきたジャーナリストの武信三恵子氏は、同書の解説で「この小説は、そうした(自らをケアしてくれる存在がおらず、静かに疲れ果てていく)被災女性たちの姿を、年代の異なる三人の女性の被災体験を通じて照らし出す。被災当日、避難所暮らし、そして、仮設住宅へと移っていく彼女たちの体験のひとつひとつは、私たちがあの日以降、現場で見てきたものそのままだ。それらが、フィクションの中での架空の女性たちの思いを通じて、ドキュメンタリー以上に迫って来る」と述べています。
フィクションではなく、実際の被災地の様子を伝える報道などを通して被災者たちの言葉を聞く機会があります。被災者の多くは、災害に襲われた恐怖、身近な人を亡くした悲しさ、住宅をはじめとする大切な財産を失った辛さ、これからの生活への不安などを語り、避難生活の窮状を訴えるといったことはあるものの、「災害」そのものについては、誰のせいでもない、我が身に降りかかった不運であり、劣悪な環境での避難生活を「当たり前のこと」「仕方がないこと」と受けとめてしまい、「助かっただけで感謝しなければならない」「辛いのは自分だけではない」「自分よりも辛い人がいるから我慢しなければならない」と思われているように見受けられることが少なくありません。
前述したように、「被災者が劣悪な環境で過ごさざるを得ない」ということは、決して「当たり前のこと」でも「仕方がないこと」でもありません。現在、能登半島地震の被災者たちが劣悪な環境で耐え忍ばざるを得ない状況に陥っているのは、我が国の政府が、被災者が囚われがちな「助かっただけで感謝すべき」「辛いのは自分だけではないから、我慢しなければならない」という心理に甘えて、彼らの「尊厳ある生活を営む権利」を蔑ろにして、「被災者ケア」のための備えを疎かにしてきた結果であると看做さざるを得ないのです。
避難所・避難生活学会の榛沢和彦氏は2012年のイタリア北部地震の2か月後に現地を訪れて避難所を視察し、日本とイタリアの避難所の違いに「衝撃を受けた」と語り、次のように解説しています(注15)。
体育館や公民館などを利用した、プライバシーが確保されず、トイレにも不自由するような、我が国で一般的な「雑魚寝の避難所」とは異なり、イタリアの避難所では、広場に大型テントが整然と並び、歩いて入れるほど屋根が高いテントは被災した家族ごとに割り当てられています。カーペットが敷かれ、人数分のベッドや冷暖房装置も設置されており、移動できるコンテナ式のトイレやシャワーは、スタッフによって清潔に保たれていて、避難所によってはコインランドリーや子供の遊具も備えられています。
避難所で被災者に提供される食事についても、日本と欧米との間で大きく異なります。日本では「栄養学的に飢餓にならないためには炭水化物があれば良い」との考え方から、避難所での食事はパンとおにぎり、冷めた弁当が中心となってしまっています。自衛隊やボランティアによる炊き出しで温かい食事が提供されることもありますが、管理中心の運営が行われる日本の避難所では「食中毒が怖いから炊き出しを禁止する」「外で作った食事は避難所内に持ち込ませない」「流通上の都合で同じ種類のパンやおにぎりを3ヶ月毎日提供し続ける」といった事例も見受けられます。
他方、欧米では「食事は調理してすぐに食べるのが安全で温かく美味しい」という考え方から「避難所で食事を作ること」が必須となっています。イタリアでは、避難所の食堂は巨大テントで、キッチンコンテナで調理したばかりの料理を口にすることができるようになっており、欧米諸国では被災者に温かい食事を提供することが当たり前になっているのです。日本では、避難所で被災者が並んでおにぎりや弁当を受け取る光景をよく目にするのに対して、イタリアでは避難所のスタッフが配膳などを担当することになっています。
榛沢氏は、イタリアの避難所で聞いた、担当者の「温かくて美味しものを食べれば元気になれるだろう。生活を立て直すには、それが最も大事なんだ」との言葉が忘れられないと語っています。
災害や紛争などの被災者に対する人道支援をする上での国際的な基準として知られている「スフィア基準-人道憲章と人道対応に関する最低基準」(注16)は、次の2つの基本理念を掲げています。
・災害や紛争の影響を受けた人びとには、尊厳ある生活を営む権利があり、従って、支援を受ける権利がある。
・災害や紛争による苦痛を軽減するために、実行可能なあらゆる手段が尽くされなくてはならない。
我が国では、東日本大震災の教訓を受けて2013年に「災害対策基本法」が改正され、「避難所における良好な生活環境の確保に向けた取り組み指針」が策定されています。この「指針」に基づき、2016年に「避難所運営ガイドライン」が取りまとめられました(注17)。
「避難所運営ガイドライン」では、今後の我が国の「避難所の質の向上」を考えるときに参考にすべき国際基準として「スフィア・プロジェクト」(スフィア基準を定めるプロジェクト)に言及し、「避難所を開設するだけにとどまらず、その『質の向上』に前向きに取り組むことは、被災者の健康を守り、その後の生活再建への活力を支える基礎となる」と明記されました。
榛沢氏や災害復興に詳しい田中正人氏は、「避難所ガイドライン」に「質の向上」が盛り込まれたことを評価しつつも、「最も改善されるべきこと―私たち国民自身の意識―が変わっていない」と指摘し、次のように論じています(注18)。
ヨーロッパやアメリカでは「避難所は、被災した全ての人が安心し、健康的に過ごせて、生活再建へ向けて力を蓄えてもらう場である」という意識が共有されているのに対して、我が国では「被災者はともかく我慢しないといけない」「避難所が厳しい状況にあるのは仕方がない」という意識が一般的です。避難所は、災害を生き延びた命を保護し、安定を提供する場であるはずです。避難所が「緊急シェルター」と認識されたままでは、生活環境の悪さは根本的に改善されず、災害関連死の発生をこの先も食い止めることはできません。「スフィア基準」の基本理念は「当たり前の日常が災害によって損なわれている。しかし、そのような状況にあっても、尊厳ある生活を営む権利は守られなければならない」という主張です。それは、我が国の「被災者が困っているから助けてあげる」という考え方とは全く異なります。
「被害者は我慢し続け災害関連死もやむなし」という社会を続けるのか、「できるだけ被災前と同じ暮らしを保障するのが当たり前」の社会を目指すのか。私たちは今まさにその選択を迫られているのではないでしょうか。
恐らく、多くの日本国民が、この度の能登半島地震の被災地の惨状に直面して「被災者に救いの手を差し伸べなければならない」との思いを抱いたに違いありません。その「思い」を否定するものではありませんが、被災者の「尊厳ある生活を営む権利」を守るためには、その「思い」だけでは不十分であることは明らかです。
「スフィア基準」のような国際基準に合わせて日本人の意識を変えなければならないという話ではなく、日本人の内在的な倫理観こそが最も大切であることは言うまでもありませんが、それに照らしても今の被災者救済の意識は劣悪であるように思えます。
日本人の「自己責任」論の多くは「他者に対する責任の放棄」を意味しているに過ぎないのではないでしょうか。そのことが「国家は国民の生命と財産を守る」という近代国家として至極当然の責務までも希薄なものにしているのだと思えてなりません。
前回の記事でも強調したように、実際に「災害」が発生してしまった場合、私たちにできることは、被害の拡大を防ぐために被災者の救護・救援及び被災地の復旧・復興に努めることでしかなく、非常に限られたものになってしまいます。
「災害」の発生そのものを防ぐことは不可能事であるので、「災害」が起こってからではなく、「災害」が発生する以前の平時において、耐震化のためのインフラ整備をはじめとする「防災・減災」への投資を行ない、「災害」の被害を最小化するために「国土の強靭化」を図るとともに、実際に「災害」が発生した際に被災者の「尊厳ある生活を営む権利」を守ることができるようにするための十全な投資をも併せて行ない、迅速な災害支援を可能とする体制を構築していかなければなりません。
まずは、私たち国民の一人ひとりが、災害が起こった際に「被災者が『我慢しなければならない』『諦めなければならない』」のではなく、「被災者の『尊厳ある生活を営む権利』は守られなければならない」というように意識を変えていくことから始めなければならないのだと思います。
能登半島地震が発生してから現在に至るまでの日本政府・岸田内閣の災害対応(注19)を見ていると、(あくまでも私自身の個人的な見解ですが)政府・内閣が先頭に立って「被災地を救おう」としているようには思えず、「まるで他人事であるかのような対応をしている」との印象を拭うことができません。
「国民の生命・財産」を守るのは国家の責務であるとの気概が感じられないのです。
「防衛・安全保障」において米国に依存している我が国の「半独立」状態を恬として恥じることなく、「独立国家に相応しい防衛・安全保障体制の構築」という喫緊の課題に向き合おうともせずに平然としている政府の態度と相通ずるものがあるように思えます。
我が国の現行の「災害対策基本法」(注20)では、市町村など基礎自治体が災害対応の中心的な役割を担うことが基本とされていて、あくまでも国(政府)は市町村(基礎自治体)をバックアップする役割を担うということになっています。「地方分権」という大義名分のもとに災害時の対応責任が各自治体の裁量に任せられており、政府が主導権を発揮して「災害」に見舞われた被災者や被災地を救うという仕組みにはなっていないのです。
欧米諸国では、「災害がどこで発生したとしても、全国で同じ支援を受けることができる」ことが基本とされているとのこと(注21)ですが、災害に対する事前の備えから発災後の被災者支援まで、中央政府がイニシアティブをとって一貫して取り組む体制が構築され、国家の威信をかけて「国民の生命・財産」を守る責務を果たすとの気概を持っているからこそ可能になることなのだと思われます。
「災害復興政策」「災害支援制度」を研究する複数の専門家から「被災者に対するハラスメント」であると批判され、改善が求められているにもかかわらず、劣悪な環境の「避難所のあり方」や不十分な「被災者ケア」を一向に改善することができないのは、我が国の「災害支援制度」が「政府が主導権を取って運営するシステム」「災害がどこで発生したとしても、全国に同じ支援を届けることができるシステム」として構築されておらず、政府が「国民の生命・財産」を守るという自らの責務を果たす気概を示していないことの結果であると言えるのではないでしょうか。
近い将来、我が国では、「南海トラフ地震」や「首都直下型地震」をはじめとして、この度の能登半島地震とは比べものにならないほど広い範囲に甚大な被害をもたらす巨大地震が高い確率で発生することが予想されており、しかも最悪のケースとして、巨大な震災が複数のエリアで同時多発的に発生する可能性も否定することができません。
巨大な震災に備えるために、私たちにどれぐらいの時間が残されているのかはわかりませんが、我が国の政府が「国民の生命・財産」を守るのは国家の責務であるとの気概を取り戻し、政府が先頭に立って一人でも多くの国民を救うことができるようにするために、災害対応専門の省庁の設立をも視野に入れた「災害支援制度」の再構築に尽力することを願うばかりです。
————————–
(注1) 【能登半島地震 被害状況 19日】石川県で232人死亡 22人が安否不明 | NHK | 令和6年能登半島地震
・死者232人、安否不明22人 2次避難者、2000人に 能登地震(時事通信) – Yahoo!ニュース
(注2) リダンダンシー(冗長性)を失った「災害弱国ニッポン」の脆弱性 ―能登半島地震を受けて考える― | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)
(注3) リダンダンシー(redundancy)とは、「冗長性」、「余剰」を意味する英語であり、国土計画上では、自然災害等による障害発生時に、一部の区間の途絶や一部施設の破壊が全体の機能不全につながらないように、予め交通ネットワークやライフライン施設を多重化したり、予備の手段が用意されている様な性質を示しています。
避難所・避難生活学会の榛沢和彦氏は、取材に応えて次のように語っています。
「イタリアでは、災害が発生すると政府から州の市民保護局に対して、72時間以内に避難所を設置するよう指令が下ります。ここでのポイントは、指令を受けるのは、被災した自治体の市民保護局ではなく、その周辺で被害をまぬがれた自治体の市民保護局という点です」
「日本では被災した自治体の職員が避難所に寝泊まりして、管理・運営を担当するでしょう。当然ですが、被災自治体の職員も被災者なんです。避難所運営に奔走する自治体職員の姿が、日本では美談として取り上げられますが、アメリカやヨーロッパなら、人権侵害、あるいはハラスメントとして問題になるでしょうね」
(注5)「避難所」及び「被災者ケア」における日本と欧米との違いについては、下記の資料を参照しています。
・なぜ、政府の災害対策は後れを取ったのか 毎年のように大災害が起きる日本 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
・榛沢和彦「消防『避難所のあり方、海外との比較』」『消防防災の科学』No.135(2019年冬号)
No.135(2019冬号) | 一般財団法人消防防災科学センター (isad.or.jp)
・「雑魚寝」の避難所は変わったのか?欧米との差は歴然【東日本大震災10年】 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)
(注6) 【能登半島地震】ビニールハウスに避難 厳しい寒さに「もう限界」 – 日本経済新聞 (nikkei.com)
(注7) 朝食はせんべいだけ、断水続きトイレが使えない日々 珠洲、輪島の避難所で支援者が実感した過酷さ(J-CASTニュース) – Yahoo!ニュース
・能登半島地震、避難生活の「トイレ問題」が健康に直結 災害関連死を防ぐための3要素(AERA dot.) – Yahoo!ニュース
(注8) サンドウィッチマン 【能登半島地震】 トイレトレーラー「国がもっと作れば良い」「全市町村に2台ずつ入れるとか」「東日本大震災の教訓が生きてない」と提言 | TBS NEWS DIG (1ページ)
(注9)「災害関連死」について、田中正人氏は次のように解説しています。
災害の犠牲者は、「直接死」と「災害死」に区分されることがある。家屋の倒壊による圧死や津波による溺死など、発災時の出来事による直接的な犠牲が「直接死」であり、発災時を生き延びたものの、避難過程において亡くなり、このうち災害との因果関係の認められたケースが「関連死」とされる。関連死の根拠となっているのは「災害弔慰金の支給等に関する法律」であるが、厚生労働省によれば「認定基準はそれぞれの自治体が独自に判断するもの」であり、いまのところ統一的な公式基準は不在である。また直接死に関しても、発見時には心肺停止であったとしても発災後の一定期間は生存していたケースも多いと考えられる。関連死との境界は曖昧である。いずれにしても、認定されない関連死は無数にありうる。
・田中正人『減災・復興政策と社会的不平等 居住地選択機会の保障に向けて』日本経済評論社、2022年
日本経済評論社 – Books (nikkeihyo.co.jp)
Amazon.co.jp: 減災・復興政策と社会的不平等: 居住地選択機会の保障の視点から : 田中正人: 本
(注10) 田中正人、前掲書(2022年)
(注11)【能登地震】被災地で性被害や性暴力の危険…避難所のトイレや着替えに注意、生理用品配布や授乳に配慮 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
・「この避難所に不審者はいないけど…」「夜は絶対ひとりでトイレに行けない」能登地震被災した女性たちが訴える「本当に困っていること」 | 文春オンライン (bunshun.jp)
・【能登半島地震】避難所で性暴力から女性を守るには 物資と引き換えに行為を強要…“3.11”で報告された衝撃的な事例(デイリー新潮) – Yahoo!ニュース
・避難所で性行為を強要、DVが悪化… 被災地であった女性への暴力その後【東日本大震災】 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)
・「性犯罪は隙を見せる女が悪い」 女性たちが感じる息苦しさの正体(全文) | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)
(注12) 避難中の車で10代女性の身体触る 19歳男を不同意わいせつ容疑で逮捕 地震後に家族が同乗させる(MRO北陸放送) – Yahoo!ニュース
(注13) 「男性も女性と一緒に性被害を防いで」能登半島地震 避難所への願い – 産経ニュース (sankei.com)
・災害でリスク増の性暴力被害、ためらわず連絡を 相談機関が呼びかけ [能登半島地震] [富山県]:朝日新聞デジタル (asahi.com)
(注14) 垣谷美雨 『女たちの避難所』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)
(注15) 「避難所」及び「被災者ケア」における日本と欧米との違いについては(注5)に記した資料を参照。
(注16)『スフィアハンドブック人道憲章と人道対応に関する最低基準 Humanitarian Charter and Minimum Standards in Humanitarian Response』2018年第 4 版発行(日本語版:2019年第 4 版発行)
・spherehandbook2018_jpn_web.pdf (jqan.info)
・スフィア基準(すふぃあきじゅん)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)
(注17) 内閣府(防災担当)「避難所運営ガイドライン (bousai.go.jp)」(平成28年4月)
(注18) (注5)に記した資料を参照。
(注19)《地震後に新年会行脚》岸田政権の能登半島地震における明らかな初動遅れ…「空白の66時間」の安倍政権よりも劣化している災害対応(集英社オンライン) – Yahoo!ニュース
(注20)災害対策基本法 : 防災情報のページ – 内閣府 (bousai.go.jp)
(注21) (注5)に記した資料を参照。
(藤原昌樹)
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コメント
https://news.yahoo.co.jp/articles/e8c989274f9c4530cc2b17ede8ed0a7ff43cd719?page=1
コメントありがとうございます。
私もつい先日、報道を通して、未だにプライバシーが守られない避難所での生活や断水が続く地域があるなど不自由で厳しい状況を強いられている被災者が多数いることを知り、愕然としました。「国民の生命と財産」を守る責務を負う政府が先頭に立って被災地の復旧・復興に努めようとしないことに対して憤りを禁じ得ません。
私にできることは限られていますが、これからも発言を続けていく所存です。
現在、2024年5月2日、震災より4ヶ月が経過しました。
しかし、未だに段ボールパーティションの避難所が存在している報道がなされておりました。ウクライナには1兆数千億を送金したそうですが、それだけの資金が能登に震災地域に注ぎ込まれていたならば・・・!
と悔しい想いで一杯です。
この記事を多くの友人知人に拡散して参りましたが、まだまだ多くの人に、多くの日本人に、
『あの避難所の風景は、世界的に見ても【クレイジー!】と言わしめるものなのです】
という事を伝えていこうと思います。
日本はいつでも、どこでも、大震災が起こる可能性があるのですから。
特に、超・過密化を続ける首都圏・東京は、直下型地震がいつ起こっても不思議ではありませんし、直接の被害が無かった東日本大震災でも、自分は神田のビルにいましたが、交通が麻痺して救急車が一歩も動けない、靖国通りや中央通り、帰路に向かう歩行者の大波を忘れません。