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『カッサンドラの日記』20 ヨーロッパの『木綿以前のこと』

橋本 由美

橋本 由美

江戸の唐桟ブーム 

 

 和装に少しでも関心がある人なら、落ち着いた色合いの細かい縞柄の着物を「粋」だと感じるだろう。江戸文化を代表するひとつに縞柄の着物がある。九鬼周造の『「いき」の構造』(1930)では、「いき」の芸術表現として唐桟や奥嶋の「縞」に言及している。九鬼周造は、横縞よりも縦縞のほうが「いき」であると言っているが、機織り機のせいなのか、宝暦(1751~1763)ころまでは横縞しかなかったのだという。文化文政(1804~1829)のころになると、縦縞が主流になり、「いき」な着物は専ら縦縞になる。

 化政年間には熱狂的な縦縞ブームがあった。色街の遊女や上客が好んで縞柄を身につけたというから、値の張るものだったのだろう。柳田国男の『木綿以前の事』が書かれたのは、それから約一世紀後のことである。当時の庶民の暮らしを丹念に拾い上げ、日本のあちらこちらの平地が棉田になり、庶民の着物の素材が麻から木綿に変わっていく時代に起きていた様々な変化を描いている。「そうして村里には染屋が増加し、家々には縞帳と名付けて、競うて珍しい縞柄の見本を集め……」とあるのは、色見本が「縞帳(しまちょう)」と名づいたくらい、地方の農村にまで縞柄が行き渡っていたことを教えてくれる。

 日本に「木綿」の記述が現れるのはかなり古い。柳田国男によれば、上代、木綿は「ゆふ」と読まれ、「ゆふ」の音がつく各地の地名は「木綿」から来ているらしい。「結城紬」の「結城(ゆふき)」も「ゆふの木」が栽植された土地である。但し、これらの「木綿」は「殻(かじ)の木の皮」から取った繊維のことだと本居宣長が『玉勝間』のなかで述べている。『木綿以前の事』には「殻」は楮と同様かその一種であろうとあって、いずれにせよ、現在の木綿のことではない。

 いまの木綿=cottonは、地球上の熱帯・亜熱帯地域で広く自生していた。人類の綿栽培の始まりは5000年前とも8000年前ともいわれ、インド亜大陸や中南米でその証拠が見つかっている。西嶋定生の研究によれば、中国では、後漢時代に南海の産物としての綿布の記述があるが、生産は唐・宋時代に福建のあたりから始まり、次第に北上して、元代にはかなり広く普及していた。明代になって発展期に入り、朝鮮半島経由で、約一世紀遅れて日本に入ってきたということになる。

 14世紀から15世紀にかけて木綿を知った日本では、その殆どを朝鮮半島から買い付けていた。あまりに大量であったために、朝鮮は輸出量を抑制し始める。当時の明は勘合符貿易以外では海禁措置を取っていたから、木綿の輸入は密貿易に頼ることになり、応仁の乱のころから国内生産が始まったという。繭から作る真綿(まわた)と区別するために、木から取る綿として「木綿(きわた)」と呼んだ。棉田は三河木綿・伊勢木綿・三浦木綿など、日本各地に出来た。木綿と言うと、今の私たちは日常の衣類の素材を思い浮かべる。しかし、木綿の用途はそれだけではない。中国でも日本でも初期の木綿が兵衣として用いられたのは、動き易さにある。手甲や脛当てなどの防具や馬具にも使われた。勿論、動き易さは労働着としても適しているが、まだこの頃は、貧しい庶民の労働着として用いるには稀少で高価な物だった。

 木綿には数多くの利点がある。大きな特徴は、麻よりも遥かに鮮明な色彩に染められるということだった。戦場で目立つ色彩が求められる幟・旗・陣幕・陣羽織などに使われ、木綿は必需品になった。火縄銃の火縄にも用いられた。更に船の大型化によって帆布が大きくなり、麻よりも軽い綿が使われるようになる。高価な木綿は、民間利用よりも、先ず軍事に利用された。

 日本で木綿の輸入量が増えたのは、17~18世紀にかけてである。16世紀にポルトガル人によってインド綿が持ち込まれ、ポルトガル人の渡航が禁止されたのちはオランダ船や密貿易の華人によって運ばれた。上質なインド綿はキャラコ(calicoキャリコ)や更紗と呼ばれるものである。織地が細かく薄い平織のキャラコは通気性があって肌触りがよく、しなやかに身体に馴染み、麻の突っ張り感がない。キャラコは南インドのマドラス方面から日本に輸入され、その生産地名サン・トメ(Saint Thomasのラテン読み)から「桟留」と呼ばれた織物に人気があった。桟留縞は鮮やかな藍・白・濃茶・薄茶を基本的な色調としている。当時の日本人にとっては斬新な色使いであり、異国の雰囲気を漂わせる人気の商品になった。これが、唐桟留・唐桟と呼ばれて大流行したのである。江戸の「いき」を演出する唐桟縞は江戸っ子の発想ではなく、インド産の木綿柄であった。遊女や若衆が唐桟を身につけた浮世絵がある。更紗の多くは小物に使われた。奥嶋はインド産のギンガムginghamのことで、どれも麻では出せない鮮やかな染めの魅力に人気があった。次第に国内でも模倣されるようになるが、庶民の日常着・労働着として、麻に代わって使われるようになるのは、随分後のことである。

 

西欧を魅了したキャラコ 

 

 さて、インド綿がポルトガル人やオランダ人によって日本に持ち込まれたということは、当然、ヨーロッパにも運ばれていたということである。オランダやイギリスの東インド会社は多くのアジアの産物を母国に運んだが、香辛料・胡椒・茶に並んで綿織物も重要な商品になった。綿の生育に適さないヨーロッパでは、衣類はウールかリネン、即ち毛織物か麻だった。綿はインドや西アジア、東南アジア、アフリカや中南米では知られていたが、毛織物が主流だった西欧にはどういうわけか入っていなかったらしい。コットンcottonはアラビア語のqutunから来ている。ヴェネチアの商船は、シリアのモスル地方で原綿や綿糸を仕入れていたが(モスルの綿=モスリン)それほど流通していなかったのだろうか。白いふわふわした綿花をつける植物を、ヨーロッパ人は想像できなかった。その頃「インドの不思議な木は枝先に子羊をつけている」と言われ、小さな子羊が木の枝にたくさんぶら下がっている「冗談のような真面目な絵」が残っている。

 ヴァスコ・ダ・ガマはインドのカリカットに上陸した。土地の人々が身につけていた綿布を、ガマはポルトガルに大量に持ち帰った。綿布は「カリカットの布」即ち「キャラコ(キャリコ)」と呼ばれるようになる。木綿は、忽ちヨーロッパ人を魅了した。麻にはない柔らかでしなやかな手触りはそれだけで十分魅力的だったが、染色の美しさや光沢、どのようなデザインにも適した素材として、爆発的な需要が生じた。上質な更紗(チンツchintz)は、カーテンやソファ、クッション、寝具、テーブルクロス等に用いられ、邸宅を飾るファブリックとして競って購入された。布地としての木綿が、衣料品ではなく、先ず、室内装飾として使われたのは、冬の寒冷な気候には衣料としては薄地すぎると思われたためらしい。しかし、直にウールを着るとチクチクするのはあまり心地のいいものではない。薄手の綿をウールの下に着ることで、この不快なチクチク感を解消しようと、女性たちが柔らかく身体に馴染む綿を下着として利用し始めた。ブラウスや上着も作られるようになった。このような流行は貴族階級から始まった。

 もともとイギリス東インド会社は、自国で生産された毛織物の販路を広げるためにアジアとの貿易を始めた筈だった。しかし、気温も湿度も高い南アジアで毛織物が売れるわけはない。逆にインド産のキャラコを大量に輸入するようになったのは、それが安価だったせいもある。アジアには、胡椒や香辛料や茶などの産物が溢れ、木綿も輸入品になった。東インド会社は、アジアの低コストの労働力と高い技術力で生み出される物品を、大量購入と一括輸送によるコスト削減でヨーロッパに運び、高値で売ることで利益を上げるようになった。綿布の販路を広げるために、東インド会社の重役たちは、あらゆるコネを利用して上流階級に木綿を売り込んだという。

 17世紀後半から18世紀にかけて、東インド会社の輸入品の割合は、香辛料や胡椒や茶を凌いで、キャラコの輸入量がトップを占めるようになっていた。イギリスだけでなく、西欧諸国で急激に需要が伸びたのである。この頃の西欧の都市で、人々が如何に贅沢な商品を求めていたかを、ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941)は、商品の種類や売上額のデータによって明らかにしている(『恋愛と贅沢と資本主義』1912)。奢侈品の取引が増えて、小売業と卸売業が分離した。小売専門の奢侈品を扱う店の店構えが大きく変わった。その様子をゾンバルトは次のように書いている。

 「店主はお客をひきよせるため、あるいは顧客を構成している上流階級の人々に店内に気持ちよくとどまってもらうために、店を一層美しく飾りたてるようになった。店の設備を上品につくりかえることは、小間物店や、婦人の気をひくようなこまごまとした物を売っている店で始まったということがはっきり立証されている。こうした店で、最高に洗練された小さな装飾品など、なみなみならぬ贅沢品が売られていたことを念頭におかなくてはなるまい。」

 こうした「見せびらかし」の商法が有産階級の女性たちの物質的欲求を刺激し、ウィンドウ・ショッピングという「娯楽」が生まれたのだ。女性だけでなく、紳士たちも「スマートな贈り物」として「上品な婦人」のために買い物をしたのだという。実際、上流階級の男たちは中世のナイトさながらに、女たちに気前よく貢いだ。店には、小間物や衣類、家具、ファブリックの調度品、お茶やスパイスなど、高級素材の商品が並べられ、木綿の生地は商品だけでなく、店内を飾るためにも使われた。高級素材の殆どは舶来品、特にアジアの産物であった。18世紀から19世紀にかけて、ロンドンの一等地にフォートナム&メイソン(1707)やハロッズ(1834)やリバティ(1875)といった百貨店が出来た。このような娯楽的なショッピングモールは、パリのマルシェも同様である。贅を尽くした建築や店内インテリアが、イギリス・オランダ・フランスなどの都市の上流階級に華やかなプリント柄の木綿ブームを煽っていた。

 木綿の人気が高まって上流階級のドレスになると、東インド会社が運ぶインド綿の量はどんどん増えていった。いつの時代でも新規の商品は既成産業との摩擦を生む。スパイスの類はそれまでヨーロッパにないものだったために競合する産業はなかったが、織物となるとそうはいかない。羊の牧畜業者や毛織物業者や絹織物業者の間で危機感が募り、東インド会社や木綿愛好者との間で、暴動を伴う激しい非難合戦が続いた。対立は政治家を巻き込み、保護貿易を求めて「キャラコ禁止令」が議会で制定された。フランスでも絹織物や高級リネンの業者の間に反対運動が起こり、1700年以来木綿の使用が禁止された。いまのアメリカの華為(Huawei)やTikTokの締め出しのようなものであるが、効果は殆どなかった。

 イギリスの「キャラコ禁止令」によって人気商品のキャラコの輸入ができなくなるのなら、木綿の原料を輸入して国内で生産しようという動きが起こる。反対運動は、綿布の国内生産に火をつけてしまった。イギリス人は、インドよりも高い自国の人件費コストを抑制するために機械化を模索して生産を始めたのである。ジョン・ケイの飛び杼、ジェニー紡績機、ミュール紡績機などが次々に発明されて、同時期に改良された蒸気機関を利用した機械による大量生産が可能になった。大量の綿花の需要が生じ、新大陸で綿花栽培のプランテーションが始まり、そのための奴隷貿易は世界史上最悪の汚点を残すことになる。

 

木綿が変えた世界 

 

 日本でもヨーロッパでも木綿の流行は富裕層から始まり、庶民の日常の労働着になるまでには長い時間がかかった。インドの人々にとって木綿は昔から親しまれた素材であっても、生産地から遠い日本や西欧では高級品として扱われた。ロンドンの社交界のおしゃれなエリートたちが、カリブ海の砂糖を入れたアジアのお茶を飲み、インドの木綿を身につけるのは、生活の必要に迫られたからではない。肌に馴染む柔らかく着心地の良い素材と美しい色彩のプリント模様は、女性たちを夢心地にさせたが、そこにはアジアの人々や新大陸の奴隷たちの労働があった。 

 消費を促すのは「必要性」とは限らない。食欲などの生理的欲求はすぐに満たされるが、名誉や見栄や競争意識といった心理的欲求は持続する。木綿は、ファッションの流行という虚栄心を伴う消費行動を促した。ちょうど日本では、化成年間の唐桟縞の流行があったころである。大陸の東と西の端で、同じような消費行動が起こっていた。更紗のドレスや唐桟の着物は生活必需品ではないが、大きく経済を動かした。ファッションは侮れない。柳田国男も「遠目には絹に近くまた肌ざわりも柔らかである上に、何よりも女に嬉しかったのは、衣装の輪郭の美しくなったことである。心がすぐに顕れる身のこなしが、麻だと隠れるが木綿ならばよく表現せられる。泣くにも笑うにも女は美しくなった。」と言っていて、木綿が引き出す女らしさの「ファッション」が社会を動かす潜在的な力になっていることに注目している。ゾンバルトも柳田国男も、木綿を通して「女」を観察しているが、文化の違いが背景にあるとはいえ、着目する女性たちは対照的である。どこの国にも、都市で華やかに暮らす女も農村で働く女もいる。そのどちらの女性たちにとっても木綿は魅力的なものだった。

 貿易から生じる商業資本と機械化・工業化で起こった新しい産業は、新興ブルジョワジー層の地位を向上させた。彼らの唯物的な嗜好は封建貴族たちを巻き込んだ。貴族たちは身分の威厳を失うまいと、新興の成金市民と競うように贅沢三昧の暮らしをするようになる。ポンパドゥール夫人のサロンが典型だろう。サロンは華やかな誘惑の場でもあり、高級娼婦が機知に富んだ成熟した女の魅力を振り撒いて上流階級に出入りした。彼女たちを妾宅に囲うことが恥ずかしいことではなくなり、男も女も不倫が文化になった。人妻を誘惑するのが「礼儀」で、誘惑されることが「名誉」になった。こんな「遊び」にはお金がかかる。ゾンバルトはこの頃の上流階級の様子を「愛の世俗化」と言っている。貴族たちは贅沢のための「負債」を抱えるようになった。

 「奢侈品はしばしばはるか遠方の国々から高価な原料を取り寄せねばならない」「資本力の十分にある人間が利益を受けるのだ」とゾンバルトは言う。封建的な富は、負債によって、新興の市民階級であるブルジョワジーの富へ転換された。日本の経済規模は国内に限定されていてヨーロッパのような資本主義への大転換は起こらなかったが、それでも元禄や文化文政のような好景気で奢侈が好まれるような時代には豪商が武家を凌ぐようになる。

 近代資本主義の形成に「奢侈と欲望」が原動力になったというゾンバルトの考察は、禁欲的プロテスタンティズムをその要因と見るマックス・ヴェーバーと対極的である。資本家にとって、生産のためにはプロテスタント的な勤勉さが、消費を促すには贅沢な浪費が「好都合」なら、どちらの視点も無視できない。人間を一面的に捉えられないのと同じで、世の中の動きは単純な二項対立では語れないということだろうか。舶来の贅沢品である木綿が都市の男女に影響を与えたことは確かで、消費への欲望を作り出すことが、社会を大きく転換させた。九鬼周造の言うように「いき」の徴表のひとつに廓の遊女の「媚態」があるというのは、奢侈が高級娼婦との「恋愛」に関係するというゾンバルトの観察に似ていて、この時代の異なる社会を背景にしながら、西欧の贅沢も江戸の粋も、男女関係に行き着くところが興味深い。禁欲と勤勉のプロテスタント的イデオロギーの裏側で、ディオニュソス的な奔放さが資本主義の牽引になったということは大いにありうる。人間の行動の動機や時代の変化などというものは、案外、そんな無自覚で原始的な欲求にあるのかもしれない。

 木綿は、いまや世界中のどの階層の人々にとっても必需品となった。肌触りの柔らかさ、通気性・吸水性・保温性に優れ、鮮やかな染色・発色が可能で、強度がある木綿の「底力」は、糸の太さや織り方によって多様な用途をもつ「万能素材」だということにある。ひとつの素材の発見が、世界を大きく動かすこともある。

 

 

『「いき」の構造』九鬼周造著 藤田正勝注訳 /講談社学術文庫 2003

『木綿以前の事』柳田国男著 /岩波文庫 1979

『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト著 金森誠也訳 /講談社学術文庫 2000

『新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ』永原慶二著 /中公新書 1990

『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』浅田實著 /講談社現代新書 1989

 


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