現在、沖縄を論ずる場においてフェイクニュースや「沖縄ヘイト」に相当する言説が蔓延してしまっていることはよく知られています。
例えば、在職中の2018年8月に逝去された翁長雄志前沖縄県知事は、那覇市長(当時)として参加した「オスプレイ撤回・東京要請行動」(2013年1月)で銀座をデモ行進した際に、巨大な日章旗や旭日旗、米国旗を手にした団体から「売国奴」「中国のスパイ」「琉球人は日本から出ていけ」などといった暴言を浴びせられたことに「絶対に許せない。沖縄はいつまでもヤマトにたいして黙っていていいのか」と激しく憤ったことを著書に記しており、酷い「沖縄ヘイト」に直面したことが、後に翁長が知事になることを目指すきっかけの一つになったと言われています(注1)。
いわゆる「沖縄問題」を巡って沖縄やウチナーンチュ(沖縄人)に向けられる」(=沖縄やウチナーンチュが被害者である)「差別」や「ヘイト」の例は枚挙に暇がありません。しかしその一方で、沖縄やウチナーンチュが加害者である「差別」や「ヘイト」が存在していることもまた紛れもない事実です。1972年の本土復帰を機に沖縄に配備され始めた自衛隊に対して、沖縄は「差別」的な行為を繰り返してきました。私たちウチナーンチュにとって「沖縄の恥ずべき歴史」です。
前回の記事(注2)で見た通り、現在、我が国では「南西諸島の防衛力強化」が急速に進められており、当然ながら、それに伴い沖縄で生活する自衛官及びその家族の数も急増しています。
昨年、沖縄県は「沖縄県差別のない社会づくり条例」(注3)を施行しましたが、ウチナーンチュ自身が過ちを繰り返してはいけません。
うるま市の自衛隊訓練場の建設計画を退けたことで「みんなで勝ち取った成果だ」と歓喜の声が上がったと報じられており、『沖縄タイムス』では「国止めた住民力 うるま陸自計画」と題する特集記事を連載して「住民の力が国策を変えた。国に要求を通すことができた成功例で、民主主義の在り方として記録されるべきものだ」と讃えるなど、沖縄のメディアはお祭り騒ぎの様相を呈しています(注4)。また、玉城デニー知事は、新基地建設に反対の意向を示した上で「沖縄県内で米軍基地の整理縮小、撤去の上にのしかかるような、新たな自衛隊基地は造らせない」と述べ、米軍基地負担軽減がないままの自衛隊増強に反対の意思を明確にしました(注5)。
自衛隊に対する適切で冷静な言説を取り戻すためにも、いま改めて「沖縄の恥ずべき歴史」―沖縄における自衛隊差別の歴史を振り返っておくことにします。
戦後27年間にわたって米軍の統治下に置かれた沖縄に初めて自衛隊が配備されたのは、沖縄が日本に復帰した1972年5月のことです。
当時の沖縄には、自衛隊に対して、沖縄戦で住民を守らなかった旧日本軍の記憶と結びつけて「反自衛隊感情」を抱いているウチナーンチュも多く、同年10月に県祖国復帰協議会(復帰協)が開いた自衛隊の配備に反対する県民総決起大会には1万2千人(主催者発表)が集結し、当時としては最大規模の大会となりました。「自衛隊は帰れ」「人殺しの集団は出ていけ」とのシュプレヒコールとともに会場の那覇市・奥武山球場の周辺から駐屯地までデモ隊が押し寄せるなど、自衛隊は沖縄県民の激しい反発を受けることになったのです。
那覇空軍基地ゲート前で自衛隊配備に抗議する県民大会参加者=1972年10月6日、那覇市
沖縄は当時、本土復帰に際して自分達の要求がことごとく踏み躙られたことについて不満を持っており、その文脈も強く働いていたと考えられます(注7)。その感情はウチナーンチュには広く共有されたものであり、そこには一定程度の正当性があっただろうと思われますが、この辺りのことについては、今回は深入りせず稿を改めたいと思います。
いずれにせよこうした県民感情は一部の過激な運動に動員され、極端な言説の中に回収されていくことになりました。
その後、沖縄への自衛隊の配備が本格化していきますが、自衛隊に対する厳しい反応は続きます。
自治体が自衛隊員の住民登録やごみ収集、さらには電話交換までも拒んだり、隊員の子ども達の学校への入学を拒否したり、隊員の成人式への参加を拒否したりするなど、ウチナーンチュによる自衛隊員とその家族への差別が長らく続いたのです。当初は官舎の整備が追いつかず民間アパートに入居する隊員も多かったのですが、家主に入居を拒否するよう求める運動もあったと言われています。
沖縄の自衛隊への差別によって、若い自衛官の「学ぶ権利」が奪われる事例もありました。
1975年3月に琉球大学短期大学部に合格した海上自衛隊の海士長(当時20歳)は入学金の納入や必要書類の提出など入学に必要な手続きを済ませましたが、「自衛隊による教育現場への介入」だとする大学の自治会や職員組合による入学阻止運動に遭ってしまいます。4月になり海士長が登校を試みるも、反戦運動をする学生たちが学内封鎖や授業ボイコットをするに及び、入学を認める立場を取った学長も軟禁される事態に陥りました。事態は学内外の労働組合をも巻き込んだ紛糾に拡大し、浦添市議会では海士長の受講実現を求める決議案も出され、本人も18回にわたり登校を試みますが、結局、「自衛官だから」という理由で一度も受講できないまま海士長は入学を取り下げることになりました。
記念誌「琉球大学短期大学部30年の足跡」は、一連の紛糾を「大旗君事件」として首里キャンパス時代の筆頭ニュースに挙げており、本人が翌76年4月に千葉工業大学に改めて入学し、隊も異動させたことで「問題は自然消滅の形となった」と記しています。
地域の行事やスポーツ大会、国体などから自衛隊員を締め出す動きも広がりました。
1973年に知念村(現在の南城市の一部)で開かれた陸上競技大会では、隊員が参加したために村民と揉み合いとなり、県警が出動する騒ぎとなりました。同じ年に開催された千葉国体の沖縄選手団の中に自衛官がいることが公になり、マスメディアを中心に世論が激しく反発し、屋良朝苗知事(当時)が陸海空の在沖自衛隊トップと会談し、隊員が出場を辞退することによって幕引きを図ることになりました。
那覇市で毎年5月に行われる恒例のハーリー(注8)でも米軍チームには参加を認めていながらも自衛隊員の参加は拒否し続け、自衛隊のチームが参加を認められるようになったのは、ようやく1995年になってからのことです。
1970年代から80年代にかけて、沖縄県内の新聞、テレビ、ラジオ局、業界紙のうち7社と各労働組合との間では「(マラソン大会をはじめとする)社の事業に自衛隊は参加させない」との趣旨の「覚書」や「協定」が結ばれていました。
1997年に県マスコミ労働組合協議会のジャーナリズム研究部がまとめた文書には「『宣撫工作に利用されない』ため-。私たちが無視し、報道もしなかった間に沖縄の自衛隊は質量とも大きく変貌した」として、自衛隊による「(県民感情に働きかける)宣撫工作」に対する警戒心から「報道の空白」が生じてしまったことについての反省が記されています。
しかしながら、自らの報道が沖縄における自衛隊に対する差別を助長してきた―マスコミが先頭に立って積極的に自衛隊を差別してきた―ことについての言及はなく、その無自覚さに驚くとともに憤りを禁じ得ません。
那覇市では自衛隊が配備されて以来、一貫して自衛隊を成人式に招待していませんでしたが、1977年(昭和52年)1月12日に自衛隊が那覇市に対して「なぜ招待しないのか」との質問状を提出したことから大問題となりました。
この問題は那覇地方法務局が「人権問題の疑い」で調査に乗り出す事態となり、それに対して那覇市は「(自衛隊員を成人式に)招待するしないは市長が判断するもので、人権問題でもなんでもない」と真っ向から反論します。そして、自衛隊から出された質問状に対して同月13日に平良良松那覇市長が記者会見を行い、「差別されているのは県民、市民だ。反戦平和、自衛隊配備に反対する私の信念と、それによって市民の信託を受けた市長として当然の行政判断である」とのコメントを発表しました。
これまでの「自衛隊員が出席すると会場が混乱する」という運営上の配慮を理由とした姿勢から、さらに一歩踏み込んで「反自衛隊」の姿勢を前面に打ち出しており、那覇市議会で野党が「差別は憲法違反である。自衛隊員を参加させるべきだ」と抗議したのに対して、「自衛隊は招かれざる客で、考え直す余地はない」として強い態度で突っぱねています(注10)。
その後、この「自衛官成人式不招待問題」は、1979年(昭和54年)から那覇市が成人式の主催を市教育委員会から地区実行委員会に変更し、それぞれの地区の実行委員会が成人式に自衛隊員を招待するようになったことで、那覇市長側の事実上の敗北という形で決着がつきました。同年の成人式では、「反自衛隊」を掲げる「護憲反安保県民会議」(現在の「沖縄平和運動センター」)などの組織が、那覇市小禄地区での成人式に参加する自衛隊員を対象に「自衛官成人式阻止闘争」と題して「自衛隊員の成人式参加」を阻止すべく反自衛隊闘争を展開し、実行委員会の許可なく会場入り口で検問を行い、自衛隊員らしい若者を取り囲んで詰問して追い返すなどしていましたが、翌1980年(昭和55年)には、実行委員会が機動隊を導入し、2人の逮捕者が出るなど大荒れの「成人式」となってしまいました。
この「自衛官成人式阻止闘争」などという理不尽極まりない差別運動は県民からの支持が得られるはずもなく数年の間に下火となり、現在では成人式に自衛官が参加することについて誰も文句は言わなくなっています。
2021年に陸上自衛隊那覇駐屯地で開催された「新成人の隊員を激励する式典」には、那覇市、沖縄市、南城市、八重瀬町の首長が祝意のビデオメッセージを寄せ、うるま市長は祝電を送りました。沖縄県内の首長が自衛隊の成人式にメッセージを寄せるのは、1972年に那覇駐屯地が置かれて以来、初めてのことです(注11)。
自衛隊は約半世紀前の沖縄の日本復帰の時から、不発弾処理や災害派遣、急患の搬送等、その幅広い活動を通して地道に信頼を得る努力を続けてきました。沖縄に駐屯する陸上自衛隊第15旅団のホームページには「緊急患者空輸」の数と「不発弾処理」の数が紹介されていますが、現在でも1日平均2発の不発弾を処理している計算となります(注12)。
徐々にではありますが、自衛隊に対する沖縄県民の意識は変化してきました。
沖縄の本土復帰から20年の1992年と50年となった2022年に琉球朝日放送(QAB)が朝日新聞、沖縄タイムスと合同で行った世論調査では、「沖縄の自衛隊を今後どうしたら良いと思うか」という質問に対して「強化する」と答えた人は1992年には6%であったのが、2022年には33%となっていました。逆に「縮小する」は27%が11%となり、「撤去する」は11%から2%に減少しています。
調査の方法が異なるために単純な比較はできませんが、県民の自衛隊に対する反発が減り、支持が集まるようになった傾向を見て取ることができます(注13)。
沖縄と自衛隊(8)県民と自衛隊と憲法と / 復帰後に変わった意識 – QAB NEWS Headline
このように自衛隊と関係者たちの努力によって、配備され始めた当時と比べて沖縄県民の自衛隊に対する感情が随分良くなってきていることは紛れもない事実であり、自衛隊はおよそ半世紀の長い時間をかけて、ウチナーンチュにとっての頼りがいのある「良き隣人」になったと言えるのだと思います。
しかし残念ながら、現在でも時々思い出したかのように、主にマスメディアを舞台にして沖縄の「自衛隊に対する差別意識」が顕在化することがあります。
陸上自衛隊の駐屯地が開設したことなどで2023年7月に人口が5万人に達した石垣市で、地元紙の『八重山毎日新聞』が自衛隊員や家族を人口に含めることに批判的な社説を掲載したことが波紋を広げました(注14)。
問題となったのは同紙の7月19日付の社説で、石垣市が「住民基本台帳の人口が初めて5万人に達した」と公表したことを受けて「『自衛隊のおかげで5万人に達した』などと言われたら素直に喜べないのが一般市民の受け止めではないか」と批判し、「自衛隊員、家族は(人口5万人に)含めずに公表すべきではないか。そんな意見があってもおかしくない」「『基地のない自然豊かな島にしよう』ではないか」と論じています。
同日、自衛隊を支援する市民有志でつくる八重山防衛協会の米盛博明会長が同市内で急遽会見を開き、「自衛隊員や家族を市民と認めないと言っているばかりか、職業差別を助長させかねない論調」であり、「国家国民のために力を尽くそうと来られた者に対して、住民として歓迎しない方がいいんじゃないかと誘導するような社説だ」と指摘し、同紙に対して「深く反省するとともにおわびの記事を掲載することを強く求める」とした抗議声明を発表しました。また、中山義隆石垣市長もSNS上で「極めて人権を無視した職業差別にあたる為、個人として電話で同社に抗議」したと明かしています。
八重山防衛協会の抗議声明を受けて、八重山毎日新聞社は翌20日付の1面に「自衛隊員、その家族の人権に対する配慮を欠いた表現があったことを深くおわびいたします」とお詫びを掲載しました。
沖縄のマスメディアでは、自衛隊と良好な関係を構築することができた沖縄県民の声を取り上げられることが極端に少なく、「反自衛隊感情」を有するごく一部の人びとの主張を積極的に取り上げる傾向があり、また、取材で得た「一般市民の意見」であるかのごとくを装って「反戦平和」「反自衛隊」というメディア自らの政治的主張を展開することが少なくありません。沖縄のマスメディアを舞台に、決して沖縄県民の多くが支持しているという訳ではない「反戦平和」「反自衛隊」に基づく差別的な言説が間欠泉のように噴出するのであり、今回取り上げた『八重山毎日新聞』による「自衛隊差別」に相当する言説は、その一例であるに過ぎません。
前述したように、自衛隊とその関係者が、その幅広い活動を通して県民からの信頼を得る努力を地道に積み重ねてきたことによって、自衛隊に対する沖縄県民の意識は大きく変化してきました。現在、沖縄県民の大多数が自衛隊に対して決して否定的な感情を抱いている訳ではないということは間違いなく、どちらかと言えば、好意的な(肯定的な)感情を抱いている人の方が多いように思われます。
しかしその一方で、残念ながら、いま現在においても「沖縄の全ての軍事基地を撤去しさえすれば、平和を実現できる」とする「絶対平和主義」に心酔し、イデオロギーに毒され、軍事全般を拒絶する沖縄県民が決して少なくないということもまた事実であり、米軍のみならず自衛隊をも忌避する感情が伏在していることを否定することはできません。
問題はこうした極端なイデオロギー的言説に終始している間に、ウチナーンチュにとってあの戦争とはなんだったのか、アメリカとは何なのか、日本とは何なのか、ということについての内発的な議論がほとんどなされることなく、今日を迎えてしまったことです。冒頭に記したように、現在、沖縄県では条例を定めるなど「差別のない社会づくり」を目指していますが、これを機に、私たち沖縄県民自身が、「国民の生命・財産」を守る役割を担い、国防の最前線に立つ自衛隊に対してどのように向き合うべきなのかということについて改めて考えてみることに意義があるように思います。
—————————–
(注1) 戦う民意 | 翁長 雄志 |本 | 通販 | Amazon
(注2) 【藤原昌樹】「平和」のために求められるものとは―急速に進められる「南西諸島の防衛力強化」と沖縄の県民感情 | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)
(注3) 沖縄県差別のない社会づくり条例|特設サイト (no-sabetsu-okinawa.com)
(注4) 「みんなで勝ち取った成果だ」 暮らし守るうねりが拡大 強行な姿勢に怒りは全県へ【うるま陸自計画】 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・世論の喚起が阻止の成功例に 米軍の都市型訓練施設への反対運動 粘り強い闘いが共通【うるま陸自計画】 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
・「八方ふさがりだ」ため息の政府関係者 北部で土地売却の申し出はあるが…代替策の地元合意を得るには高い壁【うるま陸自計画】 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
(注5) 玉城デニー知事「沖縄を再び戦場にさせない」 オール沖縄会議が県民大集会 名護・瀬嵩の浜 – 琉球新報デジタル(ryukyushimpo.jp)
・沖縄を「二度と戦場にさせない」 辺野古新基地断念へ「県民大集会」 玉城デニー知事も発言 – 琉球新報デジタル(ryukyushimpo.jp)
・【動画】「理解が得られない」玉城デニー知事 現状での自衛隊増強へ「反対」明確に 県民大集会 – 琉球新報デジタル(ryukyushimpo.jp)
(注6) 【復帰50年】8千人の反対デモのなか始まった自衛隊の沖縄駐屯 – HUB沖縄(つながる沖縄ニュースネット)(hubokinawa.jp)
・「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年 | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)
(注7)1969年11月の「日米共同声明や1971年6月の「沖縄返還協定」に見られるように、「沖縄返還」に関する日米交渉の結果は多くの沖縄県民が求めていた「基地のない平和な沖縄」とはほど遠いものでした。
1971年11月の「沖縄返還協定」の国会承認を前に、屋良朝苗主席は県民の声を国会に訴えるべく「復帰措置に関する建議書」を携えて上京しました。しかし、返還協定は主席の到着を待つことなく衆議院特別委員会で強行採決させ、県民の声は国会に届きませんでした。
・日本復帰への道 – 沖縄県公文書館 (pref.okinawa.jp)
・「復帰措置に関する建議書」 – 沖縄県公文書館 (pref.okinawa.jp)
(注8) ハーリーの季節 到来!(沖縄の伝統行事) | 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語 (okinawastory.jp)
(注9)上級県民の一例 (ayirom-uji-2016.com)
・自衛隊は招かざる客 (ayirom-uji-2016.com)
・沖縄の成人式 – 昭和54年以降その1 (ayirom-uji-2016.com)
・沖縄の成人式 – 昭和54年以降その2 (ayirom-uji-2016.com)
・沖縄の成人式 – 昭和54年以降その3 (ayirom-uji-2016.com)
・沖縄の成人式 – 昭和54年以降番外編 (ayirom-uji-2016.com)
(注10)平良良松那覇市長(当時)の会見要旨は下記の通りです(『琉球新報』昭和52年1月13日付夕刊3面)。
一、自衛隊員71人から文書が届き、南西航空混成団司令部人事部長の小川宏一等空佐から市教育次長に手渡された。匿名の質問状と受け取っており、今さらコメントする必要もないが、市長に問う形になっているので一応答えたい。招待しないということは、平和と市民自治の立場から市民の戦争体験に基づいた当然の行政措置であることを隊員や関係者に理解してもらいたい。若者を特別な理由で差別するものではない。
一、それは反戦平和、自衛隊配備に反対する信念と、市民の信託を受けた市長としての行政判断である。違憲判決にもあったように、自衛隊は国民の全体的合意もなく、那覇市民の政治的合意も得ていない。那覇市民は軍隊を必要とした政治の犠牲者であり、過去の歴史においてわれわれこそが、差別された市民である。
一、過去、アジア民族が標的となり、われわれ那覇市民も加害者として銃をとり、罪のない人たちを撃ってきた。また、日本帝国主義軍隊の標的として多くの犠牲者も出した。戦後30年の米軍占領は当然の報い、戦争責任としてあった。しかし、それは沖縄県民だけが受けたもので、本土の人達が私たちに背負わせてきたものである。それで本土の人たちは高度成長を遂げてきた。戦後史は本土側とわれわれとは異質のものである。
一、(自衛隊の)若い人たちが「市民でありながら招待されない」と憤慨する気持ちはわかる。しかし、同じ国民でありながら「差別されてきた」と叫びたいのはわれわれである。市民の差別は多岐にわたり、根も深いことを指摘したい。この政治上の不公平、人道上の犠牲を強いていて、これを解決しないで、極部的な人権、不公平差別をいうことは許せない。責任は自衛隊とそれを配備した日本政府にある。
一、このように市民性をなぶられいて、どうして(成人式参加を)容認するのか。招かざる客でも招待するというのはおかしい。これを支持する市民の代表として招かないことにした。若い人(隊員)たちも、二十歳になった機会に、上官から教えられるのではなく、自らの目と心で戦後史を読み、市民の心情を理解してほしい。そして「どうして招かれなかったのか」ということを、私に質問するのではなく、自分でじっくり考えてもらうことが有意義である。今度の質問状は、背後の人たちが政治的、意図的にやったのだろう。
(注11) 陸自那覇駐屯地の成人式に初めて市長ら祝辞 | オピニオンの「ビューポイント」 (vpoint.jp)
・沖縄で自衛隊員成人式 駐屯50年で初めて地元首長が祝辞(1/2ページ) – 産経ニュース (sankei.com)
(注12) 陸上自衛隊 第15旅団 (mod.go.jp)
(注13) 沖縄と自衛隊(8)県民と自衛隊と憲法と / 復帰後に変わった意識 – QAB NEWS Headline
(注14) 人口5万人突破の石垣市 地元紙、自衛隊「差別」の社説 | 世界日報DIGITAL (worldtimes.co.jp)
・沖縄で過去には自衛隊員の成人式参加阻止運動も 現在は県民の8割「信頼」 – 産経ニュース (sankei.com)
・沖縄・石垣市の地元紙社説「自衛隊員は人口に含めないで…」 抗議受け「おわび」 – 産経ニュース (sankei.com)
・【主張】自衛隊差別「社説」 人権重んじ尊重の念持て – 産経ニュース (sankei.com)
・八重山毎日新聞、社説に関しおわび「配慮が欠けた表現あった」 防衛協会の抗議受け 沖縄・石垣 – 琉球新報デジタル(ryukyushimpo.jp)
・「自衛隊員とその家族へ配慮欠いた」1面におわび掲載 八重山毎日新聞 – 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)
(藤原昌樹)
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