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『カッサンドラの日記』23 厄介な平等と厄介なアイデンティティ

橋本 由美

橋本 由美

人間は「もともと平等」なのか? 

 

 平等というのは頗る人工的な概念だと思う。似たようなものに「直線」や「真円」がある。直線や真円は自然界に存在しないのに、私たちの頭の中には存在する。自然現象を考えるときに、そのような設定をしたほうが上手く説明がつく。私たちは経験で、水の高低差も温度差も全体が等しい状態になろうとすることを知っている。実社会が不平等なこともみんなが知っているが、「もともと平等」なはずなのにと内心思っている。宗教では神や仏の下では人は平等であるはずだから、平等は社会の基本的な状態であり、それが自然の本来の在り方だと思われているフシがある。実は、神さまに平等に扱ってほしいと思っているのは人間のほうで、神さまが「もともと」どう思っていたのかなど、人間にはわからない。社会のなかの「平等」というのも設定条件だ。

 「平等」という言葉には「同じ」という感覚が含まれている。この「同じ」というのが曲者で、何が同じなのか、「同じ」とはどういうことなのか、その認定によって問題が複雑になる。「同じ」にもいろいろありそうだ。生物の世界は温度のようなわけにはいかない。生物の個体は自分が同じ状態でいるために代謝が必要だ。そのためにはエサになるものを食べなくてはならない。食べ物を消化してアミノ酸に分解し、血液に取り込んで古い細胞の部品交換をする。部品には有効期限があるから常にメンテナンスをしているのが私たちの身体で、今の自分を形成している細胞は、1年前の細胞とは全然違う。身体の素材が入れ替わってしまっているのに、私たちの意識は同じで「1年前と自分は同じまま」だと思っている。どうやら、意識を同じままにするために、意識の「入れ物?」である身体を24時間営業でせっせと作り変えているらしい。代謝は、私が「私の意識」であるための作業だ。

 私が私であるために、私たちは食べ続けなくてはならない。どんな微小な生物でも、基本的には「食事抜き」では生きられない。食べ物は自分の「外側」にある。外側というのは「環境」である。似たような環境はあっても、まったく同一な環境はない。生まれる場所は選べない。食べ物がたくさんある環境なら苦労はないが、そうでなければ奪い合いになる。奪い合いになれば、個体の優劣が現れる。エサになるものを見つけるのが上手いとか、捕獲が上手だとか、力で負けないとか、早く移動できるとか、その個体の資質が生き残りを左右する。残念ながら、能力は個体によって同じではない。

 熱いお湯と冷たい水を注ぎこめば一様な温度になるように、その種がどれも同じ資質を持つように変化(進化)すれば不公平は起こらないのだが、何世代経っても人間は均質にはならない。子供は、父親と母親の中間の背丈に生まれつくのではない。背の高い父親に似るか背の低い母親に似るかの二者択一である。足して2で割るようにはいかない。遺伝の仕組みが「平均化」を拒否する。外部の環境が変化したとき、すべての個体が同じ能力では生き残れない。多様な個体のなかで、新しい環境に適応できるものが生き残る。仲間内の不平等な状態にあっても、危機に直面したとき、いままで「損」をしていたものが有利になることもある。クローンで育てたバナナやソメイヨシノは環境変異に弱い。ひとたびその種にとっての破壊的な疫病が襲うと、それで絶滅しておしまいである。将来、どんな環境に置かれるかはわからないから、「変な奴」も見捨てないで、いろいろな能力の個体を各種取り揃え、情況次第でどれかひとつでも生き延びさせ、「種」の保存を確保しようというのが生物の作戦である。思うようになってくれない環境要因が生物個体を「同じ」にさせない。

 捕食者にとってエサの集団は「環境」である。エサの集団にとっても、捕食者は「環境」である。仲間内では平等に食べ物を分け合って協力したとしても、外部にはそれを許さない。捕食者とエサは平等にはなれない。生物界は不平等が自明である。

 人間の世界は、もっと複雑である。社会が高度に組織化されるようになって「同じである条件」も複雑になった。生物界は個体的にも環境的にも均一ではないのが「自然な状態」なのだから、「平等」は人工的な行為といえる。ある目的のためにエネルギーを集中させる行為は、「自然」に逆らうことである。放っておいても実現することは自然現象で、放置していると実現しないから「平等」は自然現象ではなく「目的」になる。自然界には、目的の設定はない。

 

どんな平等が目的なのか? 

 

 ここからがややこしいことになる。お兄ちゃんと同じものを食べるとか、お母さんと同じ色のシャツを着るという「同じ」はわかり易い。でも、お兄ちゃんはそのお菓子が好きでも、僕は嫌いだったら、同じものを食べても「満足度」は違う。お兄ちゃんの好きなものばっかりで「ずるい」と思う。お母さんにはピンク色が似合うけれど、僕には似合わない(と、僕は思う)。僕には似合わないから「同じ」を受け入れたいとは思わない。これが、社会になるともっとややこしくなる。

 一昔前は(多分、いまでも)経済的に「同じ」であることが「いいこと」だった。富の偏差の解消である。金持ちは有名シェフの高級レストランで美味しい食事ができるのに、貧しい者はコンビニのおにぎりで済ませる。これは「平等でない」から解消しなくてはならない。「富が平等になるという目的」を設定して実行しなくてはならない、とみんなが思った。簡単な解決策がある。お金持ちが生活水準を落として、全員に分配して、みんな一緒に「平等に」貧しくなればいい。格差がいけないのだから、正社員がみんな揃ってパートや派遣になればいい。貧しい国と裕福な国があるのはよくないから、どの国も「平等」になるように先進国の生活水準を下げて、貧しい国の人たちと同じ生活をすれば「平等」になる。世界中の貧しい人たちの生活水準を上げて「平等」になるよりも、コストも手間もかからない。「それはいい考えだ」と、ソ連という国で、貴族たちや産業資本家たちの富を奪ってみんなで利用しようとやってみたが、結局うまくいかなかった。どうしてだろう。みんなが同じでも、みんなでお腹を空かせるのは嫌だし、必要なものが手に入らないのも困るし、雨漏りがして隙間風の入る家には住みたくない。ただ単に「同じ」では駄目らしい。

 「神さま」が違うと喧嘩になる。宗教の対立は「神さま」同士の対決だから、自分たちの神さまを負けさせるわけにはいかない。自分たちを「絶対的に」支配している神さまが、よその神さまに負けてしまったら困る。神さまが「絶対」だから従っているのに、「あいつらの神さま」と同じなら「絶対」じゃなくなる。「敵の神さま」と同じにするわけにはいかない。宗教戦争は互いに殲滅するまで終わらない。それなら、同じ宗教集団の内部なら「平等」だろうか。宗教には命令と服従がある。神の意志を伝える者と、それを聞く者がいる。権威と階級ができる。神さまが約束する平等は「あの世」のもので、いまの不遇は「あの世」の幸福を想像して耐えるしかない。「この世」で全員を平等に扱ってくれる神さまは、「死神」だけだ。

 大きな不平等があると、不平等な扱いを受けている人は多いから、一致団結して戦う。普通選挙権や教育の機会均等や職業の選択や医療保障は「まあまあ」平等になった。大きな不平等が解消されると、それで平穏になるかというと、そうでもない。いままで気がつかなかった不平等に気がつく。全員に投票権が与えられると、一票の重みが平等でないから不公平だと気がつく。一票の重みを是正すれば、過疎地から政界へ送れる人数が減って、過疎地の意見は反映されにくくなる。人口減少地域の一票の重みが軽くなる。ジェンダーや人種や障碍者や地方格差エトセトラ、賃金格差だってあいかわらずで、平等でないことはいくらでもある。何かが解消されると、他の不平等がモグラ叩きのように次々に出て来る。だんだん小さな不平等が気になるようになる。

 高度成長の時代がそうだった。みんなのお給料が上がって幸せになった分、不満も出てきた。マイホームを持っているか、自家用車があるかないか、どの企業に勤めるか、学歴で給料が違う、など、いろいろ目につくようになってきた。マイホームをもつと、お隣の御主人が課長さんで、うちは平社員だと気分がよくない。みんなが車を持つと、車種が気になった。みんなが大学へ行くと、学校の「偏差値序列」が気になってきた。「隣の芝生」はどんな角度から見ても違って見える。社会での「平等」は常に比較を伴う。均質・均等・均一というのは、比べてみるからわかる。同じに見える何かの中の要素をいろいろ取り出して比べれば、完全に均一というものはない。もともとが「不平等」なのであって、「社会が不平等を作った」のではない。それは、今に始まったことではないし、日本に限ったことでもない。

「不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第2部 第13章)

「民主的な国民にあっては、ある程度の平等は容易に獲得するが、欲するだけの平等にはついに到達し得まい。それは日ごとに目の前を遠ざかり、しかし決して視界の外に消えず、後退しながら、さらに人を引きつけて、後を追わせる。今にもつかめそうにいつも思えるが、握ろうとする手から絶えずこぼれる。その魅力を知るには十分近くに見えるが、これを楽しむほどには近づけず、その甘みを知る前に人は死ぬ。」(同上)

 「たしかに(トクヴィルの予言のように)、このような意味での平等化が進んだ社会においても、不平等は残る。しかしながら、それは不平等を当然とした社会における不平等とはまったく意味を異にする。そのような社会において、不平等はもはや自明視されず、平等への想像力を失ってしまった人々によって、次々に異議申し立てを受けるであろう。そして、そのような異議申し立てによって、今後の歴史のダイナミズムが決定されていくことになるであろう。これがトクヴィルの予言であった。」(宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』講談社学術文庫 /2019)

 

平等の複雑な心理 

 

 「同じ」というのは主観を伴う。何が「同じ」でありたいか。ある人にとって、同じでありたくても、他の人には同じでなくても構わないかもしれない。私の欲望は他者の欲望であり、自分の価値観は他者の価値観である。自分の周りの小さな社会の「欲望」や「価値観」が「私」を作る。なぜならば、比較する対象は、常に知り得る範囲にあるからだ。その範囲の外側のことは知覚できない。遠い国の知らない土地で裕福で幸せに暮らしている家族かあっても、自分の家族と比較しない。地球の裏側で貧しい子供たちがゴミ捨て場からまだ使えそうなものを漁っていても、彼らの存在など何も知らない「自分の日常」と比べることはない。気になるのは、隣の○○ちゃんであり、親戚であり、同級生であり、会社の同僚であり、せいぜいメディアで顔を知っている人たちである。

 知り得る範囲での価値観のなかで、「平等」を求めるのはどういうときだろうか。それは、自分が「平等」に扱われていないと思うときである。知っているだれかが持っていれば、自分も欲しいと思う。自分以外のみんなが持っていて自分だけが持っていなければ、どうしても欲しくなる。みんなが自分より恵まれていると思うと、同じになりたいと思う。でも、自分がそれを持っていれば、持っていない人と同じになろうとは思わない。自分が誰かより恵まれていると感じる人は、恵まれていない人と同じになろうとは思わない。だれもが自分の目にする範囲で比べている。その小さな範囲での「多数の価値観」に動かされているだけだ。他人の価値観で優越感を持ったり、劣等感に悩んだりする。人間の視界は狭いのだから、見える範囲で決めた「目的」だけが絶対だと思うと、ロクなことはない。

「脳は上方比較を『損失』、下方比較を『報酬』と感じるように進化の過程で設計されている」(橘玲『バカと無知―人間、この不都合な生きもの』新潮新書 /2022)

この「損失」は、「欠如」と「喪失」に分けられるらしい。自分が持っていないものを他人が持っているときに感じるのが「欠如」で、自分の保持しているものを他者が奪おうとするときに感じるのが「喪失」だという。「獲得」を求めるときに「平等」が意識される。自分の権利や地位を奪われるときに感じるのが「喪失」で、そのときは他の持っていない者と同じになりたいとは思わない。恋人がいない者にとっていちゃいちゃした恋人たちは「嫉妬」の対象だが、恋人がいる者が恋人を奪われるのは「喪失」で、ジェラシーになる。(山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』光文社新書 /2024)

 平等は、富裕層にとっては保持していたものを奪われる「喪失」である。人間は、小さなことでも「損をする」のはとても不快で、ちょっとした「お得」に乗せられる。ポイントというのは、もともとが「おまけ」であるのに、有効期限が切れて使えなくなると「損」をしたと思う。人間は「得」をしたいけれど、「損」をしたくない。

「わが国(フランス)では下層階級は、可能な限り上層階級を国家の指導的地位から排除しようとする本能に身を任せているが、この秘められた本能を多くの人はフランスにしか見出されぬものと考えている。これは誤りである。私の言う本能はフランスのものではなく、デモクラシーのものである。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第2部 第5章)

 究極の平等の押し付けは全体主義に収斂し、何が平等であるかを選べなくなる。革命は、富裕な者から富を奪って「平等」になろうとすることで、「欠如」という嫉妬心が関与する。こんな厄介な「平等」だが、民主国家では必要なものでもある。民主国家の人々にとって、「自由であること」―自由に発言し自由に行動できることが「歓び」である。しかし、だれか一人の「自由の歓び」が、他者の「自由な歓び」を蹂躙する場合がある。無制限な自由を、みんなが納得できる範囲で「等しく」制限するのが「神の意志の下」の平等だった。いま、それを担っているのは、国家である。

 

武器化するアイデンティティと平等 

 

民主的な制度が機能するには、共有された規範、物の見方、つまるところ文化が必要であり、これらはすべて国民国家のレベルでは成り立つが、国際レベルでは存在しない。」(フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』朝日新聞出版 /2019)

「すべての民主主義国家は国家を土台として成り立っているため、管轄権が及ぶのは自国の領土内に限られる。管轄権の及ばない外部の人を無制限に保護する義務を引き受けられる国家は存在しないし、すべての国家がそれを試みたとしても世界がよくなるかどうかはわからない。世界の国々は難民を受け入れる道徳的義務を当然ながら感じており、移民を歓迎するところもあるが、そのような義務を果たすには経済的にも社会的にもコストがかかる可能性があるため、民主主義国はこれとほかの優先事項との間でバランスをとる必要がある。また、民主主義では国民が主権者だが、国民に含まれる人の範囲を決められなければ、国民は民主的選択を行うことができない。」(同上)

 国家の基本は、分配と安全である。全体主義でも民主国家でも、どんな体制にあっても、国家を構成する人々の生活を守るには、最低限の分配と安全を保障しなければならない。経済と防衛である。為政者の意図を強要して人間を完全に均一に収斂したければ、それは全体主義になる。民主国家の「平等」というのは簡単ではない。民主的な制度が機能するためには、何が「同じであるべきか」を、国民が納得できなければならない。共有される規範は、国民のものの見方や感じ方によって決められる。それらは長い時間をかけて培われるもので、それが「文化」なのだと思う。誰が「国民」という範疇に属するかは、その国の文化に包摂されるかどうかなのだ。ナショナル・アイデンティティは、そこに生まれる。

 経済移民や難民が問題になるのは、彼らが自分たちのアイデンティティを奪う者からの解放を求めて国土を離れた人たちだからである。難民が他国へ行くのは、相手国の精神に共鳴したからではない。彼らが求めるのは、自らのアイデンティティを守る自由である。彼らを受け入れることは、彼らの命を救う人道的な行為だが、彼らの目的が自分たちのアイデンティティを守ることであれば、受入国のナショナル・アイデンティティを毀損することもある。受入国での摩擦は避けられない。世界で増え続ける難民問題は、善意だけでは解決しない難しさがある。

 いま、ナショナル・アイデンティティは「内部」からも脅かされている。平等が保障される範囲は有限で、無限の外延の他者には適用されない性質を持つがゆえに、民族間や宗教間で対立を生み、ナショナリズムが他者への攻撃に使われてきた。しかし、文化によるナショナル・アイデンティティは自然な感情である。その自然な感情を壊そうとしているのが、テクノロジーの変化に伴う「アイデンティティ」の政治化である。コミュニケーション・ツールの変化によって、多様なアイデンティティ集団に囲い込まれる人々が増えた。多種多様なアイデンティティ集団は、それぞれがアイデンティティとしての平等性を要求する。各々のジェンダーの集団もたくさんの宗教の集団も、どんな集団も、彼らのアイデンティティを平等に認めよと要求する。IT産業による情報の収集と「占有」は、同じ関心を持つ人々を、国家という地理的制限を外して、アイデンティティ集団の都合のいい「フィルター・バブル」の中に閉じ込めようとしている。関心の領域が狭くて限られたフィルター・バブルの中ほど居心地がいいのかもしれない。異なる意見に出会うと、それが否定されたと感じてアイデンティティは武器化される。

 国民としてのアイデンティティの散逸は、全体主義や権威主義の国家では強権で取り締まれるが、規制の緩い自由主義的な国家を弱体化させる。自由主義国家でのアイデンティティの細分化は、学問の専門化と同様に、それぞれの集団内での独自の正当性と権利を論じるのみであって、国民全員の平等な権利については、無知で無関心であってもそれを恥じない。細分化されたアイデンティティが政治色を強めると、他のアイデンティティに対する無慈悲な攻撃によって、民主的な政治ができなくなる。いま、アメリカがその状態に陥っている(キャンセル・カルチャー)。

 国家のアイデンティティは「高貴な噓 γενναῖον ψεῦδος」(プラトン『国家』)といえるかもしれない。人間社会での「平等闘争」に巻き込まれたとき、自然のなかに身を委ねてみるといい。人生の舞台は広いのだと感じるだろう。日本の文化は共有する四季の自然にあり、誰の日々にも季節がある。私たちも弱体化する前に、もう一度、何がどう「平等」であるべきか、考えてみる必要がある。

 


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