(前編はこちらから)
「核兵器禁止条約」や「核兵器廃絶決議」では「核兵器のない世界」を理想として掲げています。日本は「核兵器禁止条約」への不参加を決定していますが、そのことは決して我が国が「核兵器のない世界」を理想とすることを否定したという訳ではありません。
我が国は「『核兵器のない世界』に対して現実に資さないのみならず…逆効果にもなりかねない」ということを同条約に参加しない理由としているのであり、2017年にICANがノーベル平和賞を受賞した際に、日本政府は「ICANの行ってきた活動は、日本政府のアプローチとは異なりますが、核廃絶というゴールは共有しています。今回の受賞を契機として、国際社会で核軍縮・不拡散に向けた認識が広がることを喜ばしく思います」との談話を発表しています(注10)。我が国が「核兵器禁止条約」を推進しようとする国々と「核兵器のない世界」という理想を共有していることに変わりはありません。
しかしながら、「核」に関する知識も「知識の不可逆性」の例外たり得ないという至極当然な事実に思いを巡らせたとき、「核兵器のない世界」を国際社会が目指すべき理想とすること自体が「綺麗ごとに過ぎない」と断ぜざるを得ません。
「核兵器のない世界」に向けた国際社会への働きかけが評価されてノーベル平和賞(2009年)を受賞したオバマ米大統領(当時)が、その授賞理由の1つとなった「プラハ演説」で「米国が核兵器のない平和で安全な世界を追求すると約束」すると同時に「核兵器が存在する限り、米国は、いかなる敵であろうとこれを抑止し、同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持する」と明言していることは示唆的です(注11)。
「核兵器のない世界」が理想として成り立つためには、既存の核兵器を全て廃絶するだけでは不十分であり、全人類の頭の中から「核」に関する全ての知識と情報を消去して再現できないようにしなければならないのですが、我々人類が「核」に関する知識という「禁断の果実」を手にしてしまった以上、「核」を知らない時代へと歴史を後戻りさせることがそもそも不可能な話なのです。
「核」に関する知識について、かつて吉本隆明氏と鮎川信夫氏が、対談「崩壊の検証-『反核』をめぐる<戦後>理念の終焉」で次のようなやり取りをしています(注12)。
鮎川信夫 核兵器を作っちゃったということは既に原罪みたいなものなんだよ。人間が知っちゃったことは、核兵器を廃絶したところで知識としては存在し続けるんだよ。そういう点で知識というものの力を軽く見てるね。
吉本隆明 知識や科学技術っていうものは元に戻すっていうことはできませんからね。どんなに退廃的であろうが否定はできないんですよ。だからそれ以上のものを作るとか、考え出すことしか超える道はないはずです。
また、西部邁氏は『核武装論』において、「核知識」そのものが不可滅である以上、「核兵器が廃絶された瞬間が国際社会にとって最も危険」であり、「核廃絶」が実現した後に「核」を不法に製造・保有した単独者が世界の絶対的な覇者になるという異常事態が生じ得る可能性を否定することができないという冷厳な事実を明確に指摘しています。
そして、「知識のイリヴァーシビリティ(不可逆性)」、それこそが歴史が後戻りできないことの根本因であり、そのことが物質・エネルギー・情報の世界の核心において生じる「核」という製品をめぐって劇的な形で証明されるのであり、ここで「劇的」というのは「核廃絶は理想ではなく(絶対的覇権の登場を予感させるという意味で)悪夢である」という逆説に現代文明が陥っているからであると論じています(注13)。
現在、我々が直面している北朝鮮の核・ミサイル問題が、世界的な核廃絶が実現した後に発生していたと仮定した場合、国際社会が「核兵器を手にした独裁者」に対して為す術もなく対峙せざるを得ないという悪夢のような事態に陥っていたであろうことは容易に想像がつくのではないでしょうか。
国際社会からの度重なる警告や制裁を物ともせずに核実験や弾道ミサイル発射実験を繰り返している北朝鮮が、核兵器とICBМの技術を完成させて実戦配備をするのは、もはや時間の問題であると言わざるを得ません。現段階で国際社会が北朝鮮の核・ミサイル開発を止める有効な手段を有していないということは明らかです。
現在、我が国は、北朝鮮によるミサイル発射や核実験が行われるたびに「情報収集と分析」を急ぎ、「断じて容認できない」と「最も強い表現」で抗議し、「さらに強い制裁を」と国際社会に向けて呼びかけるということを繰り返しており、あたかも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とする日本国憲法前文を頑なに実践しようとしているかのように映ります。
しかしながら、日本国憲法で自らの「交戦権」を否定し、軍事力によって担保されることがない我が国の言葉が、国際的な交渉の場において有する外交的・政治的効果には自ずから限界があります。残念ながら、経済制裁等を含む我が国からの外交的・政治的な働きかけによって北朝鮮が核開発を思い止まる可能性は皆無に等しいと看做さざるを得ません。
我が国が、北朝鮮に対して強く抗議することや国際社会に北朝鮮への制裁を呼びかけることと経済制裁以外の選択肢を持たず、しかもその外交的・政治的効果を全く期待することができないという現実に、「自分の国を自分で守る権利」を自ら放棄して自国の防衛を米国に頼らざるを得ない我が国の悲哀を感じてしまいます。
西部邁氏は、『核武装論』でICBМやSLBМが発明されたことによって「核の傘」という防衛論が顕著にその有効性を失ったことを指摘しています(注14)。
日本が「核」のファースト・アタック(先制攻撃)を受けたとしても、米国はその侵略国家からの(ICBМやSLBМを使った)サード・アタック(報復攻撃に対する報復攻撃)を受けることが予想されることから、米国はその(日本の)敵国に対して「核」のセカンド・アタック(報復攻撃)を加えることができなくなると考えなければなりません。
北朝鮮がICBМで米国本土を核攻撃する能力を獲得した時点で、北朝鮮による「米国による報復に対する報復としての米国本土への核攻撃(サード・アタック)」を想定しなければならなくなり、北朝鮮が「日本に核攻撃(ファースト・アタック)」を加えた場合に米国が「日本への核攻撃に対する北朝鮮への報復攻撃(セカンド・アタック)」に踏み切る可能性は限りなく低くなるのです。
自国の安全保障が脅かされれば、たとえ強固な同盟関係を結んでいたとしても自国の防衛を優先するのは当然のことであり、米国が自国の甚大な被害をも覚悟した上で日本のために北朝鮮への報復攻撃を断行すると期待するのは、我が国の米国に対する依存心の顕れでしかありません。
北朝鮮が核兵器を保有し、ICBМの技術を完成させて実戦配備をすることが現実味を帯びてきた現在、我が国は、米国の「核の傘」が機能せずに「拡大抑止力(同盟国への攻撃であっても自国への攻撃とみなして報復することを示すことで得られる抑止力)」が消失することに加えて、米国が「米国に届かない範囲の弾道ミサイルなら容認する」として北朝鮮による核ミサイルの保有を認めてしまうという我が国にとってより厳しいシナリオをも想定しておく必要があるものと考えられます。
我が国が目指すべき「防衛・安全保障体制」を考察する際には、①「核」に関する知識も「知識の不可逆性」の例外たり得ない、②「核廃絶」が実現した後に「核」を不法に製造・保有した単独者が世界の絶対的な覇者になるという異常事態(=「核兵器がない世界」の悪夢)が生じる可能性を否定することができないということから「核兵器のない世界」を理想とすることはできない、③ 米国の「核の傘」は既に有効性を失ってしまっている、ということを前提としなければなりません。また、本来であれば、「核保有」の資格を持たない「侵略的国家」(注15)でありながら、事実上の「核保有国」である北朝鮮と中国、ロシアに囲まれているという我が国の地政学的な条件をも考慮する必要があります。
前述した北朝鮮の「核」を巡る動向に加えて、東シナ海や南シナ海における漸進的な膨張を進める中国が、尖閣諸島の接続水域や日本領海への侵犯を急増させ、中国船籍の船舶による領海侵犯が日々のニュースとしては報道されなくなるほどまでに常態化しています。その信憑性については様々な見解があるものの、「中国が2027年までに台湾に武力侵攻をして『台湾有事』が発生する」(注16)とまことしやかに語られるなど、近年、中国が東アジア地域における覇権を握ることを目指して攻撃的な拡張主義を一層強めていることは紛れもない事実であり、我が国や台湾をはじめとする周辺諸国にとっての脅威となっています。
緊迫化の度合いが増し続けている国際社会において、既に米国の「核の傘」による庇護を期待することができず、アグレッシブ(侵略的)な性格を持ち、ヘゲモニック(覇権的)な国家意志の下に他国へのプリエムプション(先制攻撃)をも辞さない可能性が高い「侵略的国家」(注17)に対峙しなければならない我が国が、将来にわたって国家としての「独立」を保ち、「国民の生命・財産」を守り続けていくためには、「防衛・安全保障戦略」の一環として自ら「核」を保有することを選択肢の一つとして具体的に検討しなければならない時を迎えているように思えてなりません。
もし我が国が「核保有」を実現することができれば、「台湾有事は日本有事である」との認識に基づいて、台湾に対して日本製の「核の傘」という「拡大抑止力」を提供することによって東アジア情勢の安定化に寄与することも可能となります。
我が国が目指す「核保有」は、あくまでも「報復にのみ使用すること」を目的とするべきであり、より正確には「核による先制攻撃を受けた場合には、確実に報復する旨を予告することによって相手からの先制核攻撃を防ぐこと」を、その第一義的な目的とするべきものであると思慮します。
国際的に「先制攻撃」と表現される場合は、差し迫った武力攻撃の危険に対し、機先を制する形で武力行使する「先制的自衛」のことを意味しています(注18)。
例えば、敵国が核兵器を使う兆候が見えた時には、放っておけば本当に使うかもしれず、そうなれば自国は壊滅的被害を被ってしまうことが予想されます。このような場合、敵国が核を使う前に自国が「先制攻撃」をすることは当然、自衛戦争として位置づけられて国際法上も正当な権利として認められています。敵が核ミサイルを発射するまでこちらは何もできないという訳ではないのです。
この正当な権利として認められている「先制攻撃」に対して「予防戦争」という概念があります。これは相手国との力関係がいずれ不利になると考えた国家が、不利な条件で戦うことになるのを防止する目的で、領土割譲などの講和条件を相手に強制できる見込みがあるうちに始める戦争のことであり、国際法に違反しています。
我が国で一般的に「先制攻撃」と表現されている武力行使は、国連憲章に違反する「予防戦争」のことを指しており、このように2つの用語がきちんと区別されずに誤った形で使われてしまっていることが、我が国の「防衛・安全保障」に関する議論が混乱する要因の1つとなっています。
「相手の状況に関する当方の予測はフォリブルである(間違う可能性がある)」との認識を前提にしたとき、たとえ国際法において「正当な権利」として認められていたとしても、我が国は「核」による「(予防的)先制攻撃=先制的自衛」をすべきではありません。何故なら、相手の(「核」による)攻撃は、たとえ実際にその準備が進められていたとしても、最終的に実行にまで至るとは限らず、「予防的先制」としての自衛の核攻撃は、事前的には正当とみなされても、事後的には「間違った予測」に基づいて甚大で回復不可能な被害を相手に与えることになってしまう可能性を否定することができないからです(注19)。
我が国が「核保有」を目指すに際して「予防的先制」を禁じて「報復にのみ使用する」との制限をかけるということは、国民に「相手からの『先制核攻撃』によってもたらされる甚大な被害を甘んじて受けること」を求めているのであり、国民に対する極めて厳しい要求を突き付けているのだということを認識しておかなければなりません。
我が国が「核保有」を実現するためには、越えなければならない数多くの高いハードルがあることが容易に想像できます。
国内的には、国民の間に「核に対するアレルギー」が広く存在しており、「核保有」に関するコンセンサスを得ること自体が極めて困難だと思われます。また、憲法改正も避けて通ることはできません。
たとえ国内における全てのハードルをクリアして「核保有」に向かう準備が整えられたとしても、国際社会における様々な困難が待ち受けています。
まず同盟国である米国が我が国の「核保有」を望まないということを想定しておかなければなりません。さらには「核兵器禁止条約」や「核拡散防止条約(NPT)」「包括的核実験禁止条約(CTBT)」等の条約が成立しており、少なくとも表向きには「核廃絶」や「核軍縮」を目指すという国際的な合意が存在していることから、我が国が「核兵器を保有しないことを誓約するとともに、世界に対して核兵器廃絶を訴える」といった従来の態度を翻して「核保有」を目指すことを宣明した場合には、国際社会からの非難の集中砲火を浴びせられることを覚悟しておかなければなりません。
我が国が「独立国に相応しい防衛・安全保障体制」を確立し、米国に依存する「半独立」状態から脱却するための方法として「核保有」は有効な選択肢であると考えられますが、その実現に至るまでの道程は極めて厳しく、現時点で、我が国の「核保有」は「その実現可能性は限りなく低い」と判断せざるを得ないように思えます。
しかしながら、我が国が「独立国に相応しい防衛・安全保障体制」の確立を実現するためには、「核保有」を含むあらゆる選択肢を検討していかなければなりません。
私たちは、「核兵器」の廃絶を目指すことが「核兵器のない世界」という理想へと繋がる途ではなく、国際社会が「核兵器を手にした独裁者」に為す術もなく対峙せざるを得なくなるという「悪夢」へと通じているということを認識するところから始めなければならないのではないでしょうか。
人類は「核兵器を作った」ことによる「原罪」を背負ってしまったのであり、「核」という「禁断の果実」と向き合い続けなければならないのです。
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(注10) 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞について(外務報道官談話)|外務省 (mofa.go.jp)
(注11) バラク・オバマ大統領のフラチャニ広場(プラハ)での演説 |About THE USA|アメリカンセンターJAPAN (americancenterjapan.com)
(注12) 吉本隆明・鮎川信夫「崩壊の検証-『反核』をめぐる<戦後>理念の終焉」『反核異論』深夜叢書社、1982年
・「反核」異論 (1983年) |本 | 通販 | Amazon
(注13) 西部邁『核武装論 当たり前の話をしようではないか』講談社現代新書、2007年
(注14) 西部邁、前掲書。
(注15) 西部邁氏は『核武装論』で「侵略的な国家の核武装、これだけが現代の国際社会にあって不当とみなされ、それゆえに国際社会が全力をもって封殺しなければならない課題なのです」と述べています。
(注16) 中国人民解放軍の〝実力〟を徹底解剖『日本人が知らない台湾有事』小川和久 | 文春新書 (bunshun.jp)
(注17) 西部邁、前掲書。
(注18) 小川和久、前掲書。
(注19) 西部邁、前掲書。
・本記事は、拙稿「『核兵器のない世界』の悪夢と防衛体制の再構築」『表現者』76号(2018年1月号)に大幅な加筆修正を加えたものとなります。
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