万朶の櫻か襟の色 花は吉野にあらし吹く 大和男子と生まれては 散兵線の花と散れ
尺余の銃は武器ならず 寸余の剣何かせん 知らずやここに二千年 鍛え鍛えし大和魂
軍隊の精髄は歩兵にあり、これは事実である。いかに戦争の性格が変わろうと、戦争が異なる集団に属する人間同士の闘争であり、また人の手によって行われる限りにおいて、歩兵は常に戦争の中心にある。彼らが小銃手︱Riflemanとして戦争の勝敗を左右するほどの役割を既に失っていたとしても、国家や国民の生存意志というのは彼らの姿を借りて顕れる。精強な歩兵を潤沢に供給し得る国は、つまるところ血の巡りのよい快活明朗な国であり、勇敢で自律的な国である。彼らは民族の筋肉となり、敵があれば文字通り四肢をもがれるまで戦い、わが身を守るための犠牲となるのである。
しかるに、筋肉と同じように、使わなければ彼らは衰えてゆく。鍛え鍛えて、なんとか守れるものが、兵隊の強さである。いかに近代戦が機械化されていても、戦争が血と汗と油の中で戦われている時代は過ぎ去っていない。最後は人間が、死に物狂いでやらなければならない。だからこそ、軍隊というのは常日頃、有事を想定して負荷をかけ、擬似的な戦争を作り出して訓練を施す必要があり、またその異常性の中に秩序を作り出すためのあらゆる工夫を考案、実施して守り伝える必要がある。そしてそれが文化といえるものになって所属する者を律していることが、国の安危を担う組織である軍隊の要件なのである。
そんなことは当たり前のことだと思う。だが、そこに綻びが見えること、またそれに自覚的でない自衛官や国民の問題を、私は元自衛官として、及ばずながらも訴えてきたつもりである。何かの力になり得たとは到底思えないが、このままでは自衛隊が本当の意味での税金泥棒になってしまう、おもちゃの軍隊どころか、たんなるガラクタ遊園地になってしまう、そしてその事実に無関心で、時に自衛隊を腐敗させる元凶ともなっている国民には、深刻な反省を求める、というのが私の主張であった。
それは、私の陸上自衛隊在隊期間、具体的には平成27年から令和2年頭の約五年間の経験をもとにしている。その時点において、自衛隊の抱える問題は深刻であった。あらゆるものに崩壊のきざしが見られた。国民はおろか、自衛隊の高官も、それには無自覚ないし無関心であったが、それでもなお、自衛隊には良いものもたくさんあった。それが今、決定的な破綻を迎えつつある。現役の自衛官たちから聞く機会があったから、そのことをここに報告しておきたい。
もっとも過去や思い出は美化され、年を取れば今の世を嘆くのは人の世の常であろう。しかし、私はずいぶん変わったところがあり、物心ついたころから常に時代を呪い、若者を軽蔑し、進歩は退廃であり、調和は矮小性の氾濫と心得てきたから、少しは年季が入っている。「時代も変わったな」と嘆いて旧交を温めた、そんな与太話とは思わないでもらいたい。つまり、今自衛隊で起きている変化は、「変わったな」ですましてよいものではないのである。
端的に言えば、かつて自衛隊と一般社会(旧軍の言葉を使えば〝地方〟)の間にあり、両者を隔てていた垣根が急速になくなりつつあるのである。その傾向は以前からあり、それは私も幾度となく指摘してきたことだが、軍隊は決して地方と同化してはならず、それが混和したときにおこるのは軍人の文民化であって、文民と化した軍人は戦争という異常な悲惨事を扱い得なくなるのだ。そしてそのように書いたのは、本誌の賞をもらった最初の寄稿であり、すなわちそれは今に始まったことではない。
そもそも、そうした傾向ををギリギリのところで抑えて自衛隊を成り立たせていたのは、自衛官であり、とりわけ中堅以上の陸曹たちであった。ここにまた詳述することはしないが、彼らが酸いも甘いもかみ分けて、人間自然の生理も、一般社会の現実も、自衛隊の論理も、そんなものを全て飲み込んだ上で、或る特殊な自衛隊の文化というものを守ってきたのであり、彼らが一定以上の忠誠心と、下に対する統制力を持ちうることによって、なんとか成り立っていたのが自衛隊(少なくとも陸上自衛隊)という組織であり、そのことに異を唱える自衛官はいないものと思う。彼らは実に、あなどりがたい嘘つきであり、御し難い強情ものであり、またもっとも愛すべきゴロツキであった。人間に格付けというものがあるのであれば、現代日本において迷わず私はかれらを一等に推す。大げさに言えば、悪人正機を信じさせるほど、悪徳と美徳を平気で乗り越える連中、そして、最後に抑制の効いた愛情を垣間見せる連中、それが自衛隊に残る選良たちの姿である。
その彼らが、匙を投げた。もう無理だという。一陸士(Aとする)が性被害を訴えて数年がたつが、やはりあのあたりから崩壊のペースが変わったという。断っておくが、私はセクハラ(あのケースはセクハラと片づけてよいようなものでもなかったが)は憎むし、許容したこともない。部下が仮にそれをしていたら必ずやめさせたし、実際、自衛隊ではないが、セクハラ行為を目の当たりにして、被害者を手助けして組織に加害者の矯正を行わせたこともある。Aは我慢していたらいいんだと思っているわけでは決してない。
しかし、Aが告発したときにも言ったことだが、あのやり方では組織は健全になるわけがない。言い方は極めて不穏当だが、自衛隊(軍隊)という国家のひとつの主要な機能を担う組織を相手に〝小娘〟(相手はそう思う)が正規のルートを外れてぶつかっていくには、メディアを含め、A以外の連中を巻き込まざるを得ないし、それを統制するだけの力も見識も彼女には残念ながらない。被害者である彼女を非難するのは酷な話だが、自らが利用された結果、どのようなことになるのか、自衛隊がどうなってしまうのか、また、そもそも自衛隊をどうしたいのか、ただ「性被害がなくなればよい」という願いだけでは、それがもたらした惨害への言い訳にはならない。自衛隊は内部通報制度を用意しているし、仮に悪党どもによって部隊で握りつぶされたとしても(実際あのケースでは部隊の対応が不誠実であった)、いくらでも方法はある。外部の弁護士をつかったってよいが、社会を味方につけて運動しようとするのであれば、結果まで責任を持つ姿勢が必要である。
あの騒ぎのあとで、防衛省・自衛隊は防衛監察を繰り返した。海自では高官の降格という前代未聞の出来事もあった。それでどうなったか。出来上がったのは、ハラスメント狩り(厳しい指導者を嵌める言ったもん勝ちのケースもまま見られたという)による摘発を逃れることに専念し、他者、特に部下への関わりを極端に控え、統制を弱くし、自由で明るい職場を標榜する文化的で民主的な自衛隊である。もはや黒髪短髪の統制さえも行き届かない。身なりを特に端正にし、教範通りの服務に努めることが求められた陸曹候補生ですら敬礼をさぼる。新隊員も丸刈りにはしない。そんな連中に目を丸くしながらも、決して強い指導は行えない。
新隊員教育は私の在隊時代から乱れが始まっていたが、いまや完全に上下が逆転しており、腕立て伏せをさせたらよびだされ、「苦情が来ているからそういう指導は控えた方がよい」と言われた者がある。襟が曲がっている女性新隊員に、「曲がっているぞ」といって直した教官が、「おじさんが自分の首元に触った」として配置換えさせられたケースもある。指導の厳しい助教が気に入らないと新隊員たちが結託して訴え出るような話も聞く。訴えがあれば、以前は新隊員から見れば雲の上だった佐官クラスが出てきて、にこやかに会同でもひらいて新隊員様のご意見をうやうやしく拝聴する。間違っても、「お前たちにも落ち度がある」なんていう話にはならない。これではもはやソーシャルワーカーかケアワーカーと変わりがない。税金をつかって、バカをなだめるバカを養っているだけである。そしてそんなものを見ていて下がつけあがるのは当然、どうにもならなくなって熱血漢が手を出そうものなら指導部総入れ替えとなる。こんなことで一体軍隊教育などできるものか。
そればかりではない。ハラスメント狩りは人員不足とも連動しており、充足率の低い自衛隊ではとにかく若手に甘い顔をするようになった。実動人員確保の為に駐屯地内に一定の隊員を残す(おもに営内者を営内待機として外出させない)のが基本であるが、営内待機の基準はまさかの撤廃となったから、もはや残るは当直とFF(FastForce)のみ。それもこれも、若年隊員のご機嫌を取って自衛隊に居てもらうための施策だ。
海自でも艦艇内の生活空間改善の話は聞くが、陸自も同様、営内を個室化(ホテル化?)して陸士様を丁重に扱うよう鋭意努力中とのこと。営内は先輩から24時間指導を受ける、〝自衛隊文化揺籃の根幹〟であったが、それもいまでは〝ハラスメントの温床〟に過ぎない。そんなものはぶち壊してきれいにするのが、自衛隊得意の〝処置対策〟がたどり着いた窮余の策である。
たしかに、ハラスメント狩りが行き過ぎているのは一般社会どこでも見られることだが、始めに書いた通り、自衛隊は一般社会とは根本的に性質が異なり、言うなれば存在や任務自体にハラスメント成分を含んでいる。そこからハラスメントを一般社会と同じ基準(いまや一般社会以上に神経質に)で剔抉していったら、残るのは穴だらけのチーズのような廃墟同然の軍隊に過ぎない。これまで班長や先任、中隊長の〝指導〟によって〝隠蔽〟されていたものがすべて白日のもとに曝されるのは、現代社会の要請通りだろうが、そんなことをして残るのは、何度も言うがおよそ戦争とはなんの関わりもない、我々が電車で乗り合わせるひ弱で不愛想で無責任な現代日本人ばかりの集団である。
そして、そのように属人的な秩序を破壊してシステムによる組織の健全化を果たせば物事はよくなる、という幼稚なコンサル的思考は、ものの見事に現実によって否定されている。あらゆる告発が責任逃れのために上に報告される結果、服務事故の処理を担う部署が臨時勤務で方面内から増加人員を手当せねばどうにもならないというような不名誉な事態まで招いているようだが、それ自体、秩序規律の維持に失敗していることの証左であり、また副作用として、いかなる教育指導の術も奪われた中堅以上の管理層に著しい士気の低下をもたらしている。
私が話した自衛官は次のように語っていた。
「今自衛隊に入ってくる若い子はもう、どえらいポンコツばっかりですよ。私らもたいがいポンコツですけどね、それでも昔は先輩にしめられて、ポンコツでもなんとかやれるようにしてくれたし、それでいまもなんとかやっとるわけですけど、いまの子にはとても手つけられません。あのポンコツがそのままになっていくのがおそろしいですが、定年ものびるし、私でもまだ二十年もあります。六十過ぎて中隊長かなんかにこれやれあれやれといわれたって、ようやれませんわ」
この際はっきり言っておこう。世の中には自衛隊応援団を自称する人たちがある。便所のちり紙がどうといって、自衛隊の待遇改善を叫ぶような連中のことだ。彼らの善意を疑うわけではないし、実際話したこともあるが、親切な人であった。だが、そんな言説をまき散らしたところで、どうにもならない局面が近づきつつある。今自衛隊に必要なことは、自衛隊が軍隊として必要なことを遂行できる地位の確立(現法憲法秩序の破壊)と社会環境整備である。個々の自衛隊員にうらみを買うかもしれないものの、自衛隊員の待遇改善は目指すべきことではあるが、健全な防衛力整備の一施策に過ぎない。それは何かの手段としてなされることであり、本来的には目標になり得ないテーマである。
思えば、自衛官たちは今も昔も「自衛隊は戦えませんよ」と言う。しかし、その響きが変わったことを今回感じた。かつて彼らがそれを口にしていたとき、笑った顔の下には、自棄になった人間の持つ苛立ちや不安、そして一抹の正義感が見え隠れしていた。それゆえか、100人おっても、全員は戦争に出てこんかもしれん、でも、それが50人でも、30人でも、おれはやるぞ、という隊員がたしかに居た。しかし、もうそんな夢も見られなくなりつつある。刀折れ、矢尽きたのか。彼らの笑顔の中に見つけられたのは、今や寂しさだけであった。
<編集部からのお知らせ>
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皆さまのご参加を、心よりお待ちしております。
表現者塾事務局
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