【今月16日発売 最新号より先行公開】 辻田真佐憲 × 柴山桂太 × 浜崎洋介「特集鼎談・「自由」から自由になる原理」

柴山桂太

柴山桂太 (京都大学大学院准教授)

【今月16日発売 最新号より先行公開】

「自由」から自由になる原理

【特集鼎談】

辻田真佐憲 × 柴山桂太 × 浜崎洋介

「リベラル」の敗北か、「リベラル政党」の敗北か

柴山▼今回の特集テーマは「リベラルの終焉」です。二月に行われた総選挙では、自民党と維新の会で合わせて四分の三の議席を獲得するという、憲政史上最大規模の勝利を与党側が収めました。一方で、得票数を見ると自民党が急に伸びたわけではありません。むしろ旧立憲民主党と旧公明党が合流した中道改革連合や、共産党、れいわ新選組といった対抗軸になるはずのリベラルが票を減らしたことが、今回の与党大勝の原因になったとも言えます。こうした結果を踏まえて、なぜリベラル陣営が苦境に陥っているのかを考えてみたいと思います。

 最初に、これが果たしてリベラルの敗北なのか、それともリベラル政党の敗北なのかということを議論した方がいいと思います。私は仕事柄、若い人たちと付き合いがありますが、学生が保守化しているとは感じません。むしろ、私が学生だった三十年前と比べると価値観はかなりリベラル化している。同性婚や夫婦別姓を支持する若い人は多いですし、累進課税や社会保障の充実、環境保護などにも賛成の人は多い。

 つい二十年ほど前までは小泉改革に象徴されるネオリベラルな潮流がありました。当時は市場競争や自己責任といった考え方に共鳴する学生も少なくありませんでしたが、今はネオリベラルではなくリベラルの価値観が広まっているように思います。そう考えると、価値観としてはリベラルになっているが、リベラル政党がそうした層を取り込めてないことが、今回の結果につながっているとも言えます。

 二つ目に、リベラルの価値観が広まっているとして、それが望ましいことなのかという問題もあります。最近はイランで戦争が始まったり、アメリカでは関税引き上げや移民制限を行うトランプが支持を得るなど、国際的にも国内的にも反リベラルの潮流が生まれつつある。そこにはどういう背景があるのか、リベラルな思想や価値観はどのような限界に直面しているのか、ということも議論してみたいと思った次第です。まずは辻田さんからお話を伺えればと思います。

中道改革連合の犯したミス

辻田▼選挙結果に関してはさんざん分析されていますが、今の小選挙区制は二大政党のどちらを選ぶかというのが前提の仕組みです。そのため、今回の自民党の大勝は当然敵失の影響が大きかったと言えるでしょう。具体的には、中道が明らかにリベラル層を取り込めていなかった。彼らは「リベラル」と言いながら、高齢者ばかりを見ているのではないでしょうか。出口調査を見てもわかる通り、日本では左派政党の支持者に高齢者の割合が大きい。共産党や社民党、立憲民主党ですらそうです。とはいえ、その層の数は今後どんどん減っていくわけで、本当は主張やイメージを変えなければならないにもかかわらず、現実にはうまくいっておらず、維新や国民民主などに若い層を持っていかれてしまっています。

 その中で、国民民主的な方向に寄せると、共産党などを支持する層が離れていく。だからといって、目先の高齢のリベラル層を取り込もうと護憲ばかり強調すると、今度は世代間格差などに関心が強い若い人は離れていく。このジレンマで、リベラル勢力が減退していっているわけです。

 今回に関しては、公明党と急遽野合したことも大きかったでしょう。ちゃんと議論して政策協定を結んだ結果、安全保障や原発に対する政策をリアリズム的な方向に転換するのであれば、受け入れられたかもしれません。しかし、選挙に勝つために今まで大事にしてきた政策を放り出して公明党とくっついたとなれば、これまで応援した人たちは「この政党は選挙に勝つためなら、安保やエネルギーのような重大な政策も平気で放り出すのか」と考えるでしょう。これでは信頼できないと思って離れていった人たちの気持ちはわからなくもありません。

 格差問題や環境問題に敏感で、リベラルな価値観を持っている若者は意外と自民党に入れているとも言われています。やはり女性初の総理大臣は新鮮です。それに比べて、中道は高齢の男性二人が共同代表でした。特に野田さんに関しては十数年前に首相をやっていて、大変不人気な中で退陣したのにまた出てきたわけです。そういう状態でどちらがイメージとして強いかと言えば、それは高市さんとなる。その意味では、自民党は勝つべくして勝ったと言えます。

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ネオリベ路線を加速させたリベラル

浜崎▼私は、今回の出来事を、少し歴史的に眺めてみたいと思います。

 まず、戦後という時代は、基本的に「リベラルの時代」だったと思っています。その意味で、「リベラル・デモクラティック・パーティ」である自民党が、保守政党だというのは大きな勘違いだろうと(笑)。彼らは、GHQの改革に適応して、「諸条件の平等」を拡大していった。かつての進歩派知識人が言うところの「封建的遺制」を壊し、そこから解放された個人によって、ダイナミックに社会を変革し、それによって「自由と平等」を可能にしていきました。自分の親父なんかが典型ですが、田舎から出て来て都会の自由を使って貧乏から抜け出して、まさに「自由と平等」が噛み合った奇跡的な時代を生きたわけです。

 ただ、「一億総中流」がある程度実現した一九七〇年代から、「リベラリズム」は方向性を見失い始めます。さらに、そのときには、すでに頼るべき共同体も解体されているので、従うべき規範を見失った個人の不安と焦燥が拡大していきます。が、それでも七〇年代から八〇年代は、高度経済成長の恩恵もあって、そこまで不安が拡大することはなかった。

 しかし、九〇年代、いよいよ人々の不安が表に出てきます。そこに阪神淡路大震災や、オウム真理教事件、金融危機などが次々と襲ってきて、いよいよ人々はパニックに陥る。そこで藁をも摑む気持ちで摑んだ藁が、「構造改革」という魔語、つまり、日本的行政、日本的経営を全否定するグローバリズム路線だったわけです。橋本行財政改革、小泉構造改革、民主党の事業仕分け……、彼らは口々に「古い日本的体質からの自由」を語り始めます。

 そして二〇一〇年代、「選択の自由」を加速した結果がいよいよ明らかになります。貧富の格差、東京一極集中、移民問題、そして、先進国と新興国との間の軋轢です。が、それら「(ネオ)リベラリズム」(~からの自由)の問題が明確になった現在に至っても、中道改革連合を含めて日本のリベラルは、何らの解決策も打ち出すことができません。「官から民へ」というネオリベ路線を批判できないばかりか、いまだに財源論や、アイデンティティ・ポリティクスに拘泥していて、これで「現実」に対処できるわけがない。

 つまり、彼ら日本のリベラルは、「自由と平等」の条件を考えることができないのです。「自由」を担保するためには、一定程度の「平等」が必要ですが、その範囲を確定するには、われわれ「宿命共同体」のナショナリズムが必要になります。そして、そのナショナリズムを介して、「徴税・再配分」を行うわけですが、しかし、ナショナリズムを認めることができない日本のリベラルは、再配分を適切に行うことができません。また、その「宿命共同体」を守るための兵士の現実について語ることもできない。戦死した兵士の「自己犠牲」にどう報いることができるのか、あるいは、その「自己犠牲」をどう褒め称え、それに栄誉を与えるのかという問題についても、「自由な価値の選択」を語るリベラルは、突っ込んだ議論ができないのです。

 危機が高まっている現在、「現実」に対処するにはキレイゴトだけでは済まないことは、もう多くの国民も気が付いている。その結果が、今回のリベラルの大敗北であり、また、消極的にでも「高市政権しかない」という判断につながったのではないかと思っています。

戦後史からリベラルを問い直す

辻田▼ちょうど「『戦後』の正体」という連載を『文藝春秋』で始めたので、戦後史に関する本をいろいろと読み直しているのですが、どの本を読んでも書きぶりが同じで退屈なんです。占領期があって、高度経済成長があってオイルショックが……と流れはどの本もほとんど同じ。なぜあんなに退屈なのかと考えると、まず価値判断がないからでしょう。客観的に書かなければいけないという意識が強すぎて、何のために戦後史をやるのかという問題意識が薄い。そのため、総花的な記述になってしまっている。また、戦前の場合は失敗したのでそれを繰り返してはいけないという問題意識が共有されていますが、戦後の場合は成功したという幻想がぼんやりとあるので、わざわざ掘り返す必要はないという考えもあるのでしょう。さらに、掘り返して成功の前提条件を知ってしまうと、自分たちはもうあの頃の繁栄や成功を取り戻せないとわかってしまうので、あえて触れないようにしているという無意識の抵抗もあるのかもしれません。

 ただ、だんだんと状況は変わってきています。これまでは長らく「失われた何十年」と言われていました。バブル以前の日本が本来の姿で、われわれはそれを取り戻せるんだという思い込みがあった。ところが、いよいよ「失われた四十年」とは言われなくなりつつあります。失われたとされている何十年の方がむしろデフォルトであるということを受け止めなければいけなくなりつつあるということでしょう。

 そうした中で、戦後の繁栄をそのまま復活させるのではなく、また戦後を完全に切り捨てるのでもなく、戦後のいい部分をどう継承するのかという「腑分け」の作業をしないといけないと私は考えています。そのときに、戦後の社会が築いてきた自由を継承することに関しては多くの人が同意してくれるのではないでしょうか。もちろん、戦前が不自由で暗く、戦後が自由で明るいという単純な白黒二元論の歴史観を持ち出すつもりはないですが、戦後日本が自由な社会を築いてきたことは事実です。

 ここで考えるべきは、この自由とは抽象的なものではないということです。憲法で自由や権利が認められたからといって、それらは直ちに社会で実現されるわけではありません。社会の規範やルール、中間共同体の存在や機能などによって自由や平等は実質的に担保されます。例えば、理念上は男女平等と書いてあったとしても、「女に高等教育はいらない」とか「会社に入っても結婚したらすぐに辞めればいい」という社会規範が強いと、女性は男性と平等に振る舞いにくくなってしまうわけです。

 ですので、戦後日本の自由を守り継ぐとは、それを担保していた社会的な条件をどのように今後維持していくのか、あるいは発展させていくのかということを考えることでもあります。なかには、当然変えていくべきものもあるでしょう。一つは防衛の問題です。戦後の日本はアメリカの横にくっついておけば防衛にあまり力を注がなくても大丈夫という状態でいられましたが、今それが可能なのかと言えば当然そうではなくなっています。

 そこまで話を大きくしなくても、身近なところにも自由の前提条件をめぐる問題は存在します。大阪万博と同じ年に塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』という本が刊行されて、爆発的に売れました。かつて人々は地域共同体の中で冠婚葬祭のルールを継承してきた。ところが、高度経済成長期に集団就職などで東京や大阪などの大都市に「民族大移動」と言われるほどの人口移動が起きた結果、礼儀作法がぶつかるようになってしまった。そこでどうなったか。「なんでもいい、自由にやってしまえ」とはならないわけです。それだと、人々が衝突して社会がうまく回らなくなってしまう。そこに、「こういう礼儀作法がいい」という一種のマニュアル本が出たので、皆これだと飛びついたわけです。その背後には、社会の規範を整えて、会社などの中間共同体を円滑に回していかないと、結局自由は失われてしまうという無意識の気づきがあったのではないでしょうか。

 ほとんど同じ時期には、教育勅語の「口語文訳」も出されました。佐々木盛雄という元政治家が教育勅語を普及させるために現代語訳したもので、今でも「こんなに普遍的なことが書いてある」とよく引用されるものです。内容としては正確なものではないのですが、これもまた、社会が劇的に変化する中で、道徳やルールに対する関心が生まれた結果の産物と言えるかもしれません。

 ただ、こういう自由のためには何が必要かという前提条件についての議論は、あまり深掘りされませんでした。むしろ、単純に抽象的な自由を追い求めることがリベラルであるかのような勘違いが蔓延してしまった。これは大変残念なことで、地に足の着いたリベラルを定着させるためには、戦後史を俯瞰してみるぐらいの大きな態度が必要と言えます。

ロールズが示した新しい自由主義

柴山▼今日われわれが用いている意味での「リベラル」は、アメリカの政治的な色分けの中で出てきたものです。とりわけ戦後アメリカの左派的な考え方をリベラルと呼びますが、そうした価値観を最も見事に体現したと言われるのが、ジョン・ロールズの『正義論』(一九七一)です。この本は、個人の自由を重視しつつも、社会的・経済的不平等の是正を正当化する点で、古典的自由主義とは異なる新しい自由主義を定式化したものでした。

 古いタイプの自由主義とは、各人が望むことを行う自由を、政治権力や社会権力は妨げてはならないという意味での自由を重視する立場です。それに対してロールズは「正義の二原理」を提示しました。第一原理は、自由に平等を組み込んで、各人が持つ善の構想、つまり望ましい人生を追求する自由は平等に保障されるべきだというものです。リベラリズムが積極的な制度設計の原理となる。これは大きな転換でした。

 しかし、自由に善を追求すれば、格差や不平等は不可避的に生じます。この不平等を一定の条件の下で容認するというのが第二原理です。そこには二つの条件があります。第一に、仮に社会に階層が存在しても、機会の平等が保障され、かつ人々がその間を移動できること。第二に、上位の者がより多くの所得を得る場合でも、それが最も恵まれない人々の生活改善に資するのであれば正当化されることです。例えば、医者が高い所得を得ていたとしても、それによって技術や知識が向上し、結果として貧しい人々の健康状態が改善されるのであれば、その格差は容認される。こうした考え方が現代リベラリズムの原型をなしていて、あとは概ねそのバリエーションと言ってよいでしょう。だからこそロールズは、二十世紀を代表する政治哲学者と評価されているわけです。

 ただ、この考え方には難点があります。代表的なものが…

(続きは本誌にて。今月16日発売、どうぞお楽しみに!)


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本日は、今月16日発売の最新号より、特集鼎談の冒頭部分を先行公開いたしました。政治状況が激変する今、「リベラルの終焉」をどう読み解くのか。鼎談の全貌は、ぜひ本誌にてお確かめください。

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