先週は、「生活」に根を持たない虚構的な「知性」が、いかに暴走してしまうものなのかということについて、ドストエフスキーの『罪と罰』を取り上げながら述べておきました。
が、この「生活」を失ってしまった「知性」の暴走は、決して、文学・思想だけが問題視した主題ではありません。それは、20世紀の精神医学、特に「現象学的精神病理学」と言われる領域(ベルグソン、フッサール、ハイデガーなどの「生の哲学」に立脚して立ち上げられた精神医学の領域)において積極的に問題化された主題でした。
なかでも、重要なのは、ヴォルフガング・ブランケンブルク(1928―2002)というドイツの精神病理学者が提示した「自明性の喪失」という概念です。それは、統合失調症の基底に、コモン・センス(共通感覚・常識)の欠如を見出すという試み、要するに、分裂病を「あたりまえ」に関する病として捉え直した病理学研究の成果の一つとしてあります。
では、「あたりまえ」とは何なのか。
それを考える際に、手掛かりになるのが、実は日本語の「自然」という言葉です(ブランケンブルクの「自明性の喪失」を、日本語の「自然」に引き付けて考察した日本の精神病理学の成果として木村敏の『心の病理を考える』や、『自分ということ』などを参照下さい)。実際、私たちは、自明性(常識)に沿った振る舞いを「自然」だと感じ、逆に、私たちの自明性を裏切る振る舞いに対しては、それを「不自然」だと感じながら生きています。
では、「自然」とは、一体どのような事態なのか。
まず、それを言語的観点から考えてみましょう。すると、私たちは、「自然」という言葉を、「おのずからしからしむるところ」と、「みずからしからしむるところ」の二様に読めることに気がつきます。しかし、「おのずから」と、「みずから」とは、やはり微妙に違う。
『広辞苑』によれば、前者の「おのずから」という言葉は、〈己(おの)+柄(から)〉から成り立っているらしく、要するに、己のなかに自然に生起してきた「性格」に注目しながら言われた、〈私自身(己)の本来のあり方(柄)〉を意味しているとのことです。
一方、後者の「みずから」は、〈身(み)+柄(から)〉から成り立っている。つまり、こちらは、自分自身の身体性に着目したかたちで言われた行為的自己を意味しています。
そして、興味深いのは、まさにこの「おのずから」と「みずから」の重なり合いのなかに、「自明性」が宿るのだというブランケンブルクの指摘です。逆に言えば、「自明性の喪失」とは、この二つの「自然」の関係の失調としてあるのだということです。
「おのずから」ひとりでに立ち上がってくる己の「自然な感情」(受動性)と、「みずから」身体的に活動していく際に必要となる己の意識的「行為」(能動性)とのズレ、その亀裂に兆してくるものが、ほかならぬ「統合失調症」(分裂病)なのだということです。
ただし、ブランケンブルクの場合、この「おのずから」(Von selbst)と、「みずから」(selbst)とは、弁証法的相補関係として対等に見られているに対して、たとえば、日本の「現象学的精神病理学」の草分けである木村敏は、前者はむしろ後者の基礎ではないかと言います。つまり、「おのずから」生起する生命の流れに従うことによってはじめて、「みずから」行為する主体の生き生きとしたアクチュアリティが可能になるのではないかということです。
たとえば、孤立した「行為」(みずから)から「自然な感情」(おのずから)が生まれることはほとんどありませんが、「自然な感情」(おのずから)の流れに沿って「行為」(みずから)が為されるということは、まさに、私たちが日々「あたりまえ」に経験していることでしょう。自然に生起してくる「おのずから」が保たれている場合にのみ、自己は自己として「みずから」行為できるのであって、その逆ではないということです。
では、最後に、この自然に生起する「おのずから」は何によって支えられているのか。
ブランケンブルクによれば、それこそは「時間」にほかなりません。いや、「時間」と言って抽象的にすぎるなら、それを「歴史」と言っても、「過去」と言っても構わない。たとえば、英語のHaveが、所有の意味(動詞)と完了時制の意味(助動詞)を同時に持っているように、「事物に対する自明な関係」(世界の実感)を〝持つ〟には、過去から現在に向かう「連続性」を感じる必要がある。さもなければ、時間は、今、今、今、今に断片化されて、自己による「自己の所有」(一貫性の手応え)は霧散して行ってしまうことでしょう。
しかし、だとすれば、このメルマガで延々と主題にしてきた、日本人の「内発性の欠如」(分裂病気質)という問題も、実はこの「時間的連続性の欠如」として語り直すことはできないでしょうか。言葉を換えれば、おのずから生起してくる時間を味わう前に、みずから虚構した「史観」ばかりを頭に詰め込んでしまったばかりに、私たち日本人は、己の「自然な自明性と自立」(ブランケンブルク)とを失ってしまったのではないかということです。
事実、多くの日本人は、アメリカと戦争をしたことを知っていても、なぜ、アメリカと戦争をしなければならなかったのかを知りません。あるいは、歴史年表を詳しく覚えていても、その歴史が、一体、自分とどのような関係にあるのかを実感を込めて語ることができません。それは「靖国史観」であろうと、「東京裁判史観」であろうと同じです。いや、「史観」に立っている限り、その人は「歴史」の手触りを何も知らないと言ってもいい。
だからこそ、「歴史を取り戻せ」などと叫んでみても仕方がないのです(それは、簡単に取り戻したり、取り戻せなかったりする「モノ」ではないからこそ、「歴史」と呼ばれいているのです)。実際、それが「取り戻せるもの」なら、統合失調症の治療は容易でしょう。
とすれば、やはり、私たちにできることは限られていると言うべきです。
前回触れた『罪と罰』のラスコーリニコフがそうであったように、私たちは、他者と共に、根気強く、焦らず、時間が熟してくるのを「待つ」ほかないのです。時間によって紡がれる関係=履歴なかに、次第に「あたりまえ」の感覚が戻って来ることを、「歴史」の感覚がおのずと甦ってくることを「待つ」しかないのです。それは、右や左の立場といったこととは関係ありません。〈他者と共に生きる=生活する〉ことは、私が私であろうとする限り、私自身の「自明性」を守ろうとする限り、人間にとって、どうしても必要な「倫理」としてあります。
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