杉田水脈議員が『新潮45』への寄稿で、「リベラルなメディアは『LGBT』の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません」と疑問を投げかけた件が、ここ最近炎上していますね。
特に、LGBTカップルのための支援は、子供をつくるという意味での「生産性」がない人たちに税金を投入することになるわけで、それが果たして良いことなのかどうか…と主張したのが批判を呼んだようです。
杉田議員の寄稿文自体は、「人間は生産性のために生きている」と言ったわけでも「子供をつくらなければ人間じゃない」と言ったわけでもないので、批判の中には不公平なものも混じっているようには思いました。しかしその寄稿文も後半になるにつれて、リベラル派から見れば「普通の人間」像の押し付けと感じられるような内容になっていたこともあって、まぁとにかく癇に障るという人がたくさんいたのでしょう。
ところでこの騒ぎを見ていて気になったのは、リベラル派における「アイデンティティ・ポリティクス」が、昔に比べても多くの人々、特にインテリではない普通の人々にも支持されるようになってきたのだなぁということでした。
アイデンティティ・ポリティクスというのは、人種、ジェンダー、セクシャリティなどに関して特定のグループが不利益を被っているときに、その権利の確保を目指す活動のことです。要は、「なぜこのアイデンティティ(黒人である、女性である、同性愛者である等)を持って生まれただけで、苦しい思いをせねばならんのか」と怒りの声を挙げる運動のことですね。
なぜそのことが気になったかというと、たまたま読んでいたマーク・リラという政治学者の『The Once and Future Liberal(永遠のリベラル)』という本が、まさに「アイデンティティ・ポリティクスに過剰に入れ込んだことが、アメリカのリベラルの失敗であって、今すぐ方向転換しなければならない」と主張していたからです。
リラ氏は根っからのリベラル派で、2016年の選挙で「トランプ大統領」を誕生させてしまったことについて、アメリカのリベラルがここ30年ほど採ってきた戦略上の過ちを総括しなければならない、と一種の自己批判を繰り広げています。
私はべつにリベラル派ではないので、「リベラル派がどうやったら国民の支持を得られるか」みたいな議論に関心はないのですが(しかもアメリカの話ですし)、リラ氏のリベラル批判の論理の中には興味深い論点がありました。
リラ氏は、アメリカの現代史を「ルーズベルト体制」と「レーガン体制」に大きく分けて捉えると理解がしやすいと言います。これらは一種の時代精神のようなものを指しているのですが、前者はニューディール政策などをやっていた1930年代に始まり、70年代に行き詰まりを迎えたもの。後者は新自由主義的改革が始まった1980年代から、トランプ大統領が登場するまでのものとされます。
この2つの体制の間で、リベラル派の振る舞いに大きな変化があったとリラ氏は言います。労働運動や公民権運動がそうなのですが、「ルーズベルト体制」時代のリベラルの運動は「国民統合」を志向するもので、立場の違うもの同士が手を取り合って困難に立ち向かい、ともに社会を築き上げて行こうというような、「国家の未来像」を掲げて戦われたものだった。
ところが「レーガン体制」時代になって、リベラルはもっぱら「アイデンティティ・ポリティクス」に邁進するようになった。もちろん人種・ジェンダー・セクシャリティの壁を乗り越えること自体は大事なのだが、「あれも差別」「これも偏見」と文句を言うばかりで、結果的にアイデンティティの境界に沿って社会を分断し、左派のエネルギーを分散させる運動になってしまったというわけです。
そうなると、「国民統合」や「国家の未来像」のようなビジョンは、リベラル派からは出てこないことになります。社会が共有するビジョンを提示できなかったせいで、最近は民主党支持者の中ですら、「リベラリズムなんてのは、教育のある都会のエリートのお遊びごとだろ」というイメージを持たれており、これでは社会を動かす力は持てないだろう、というのがリラ氏の批判です。
さて、このリベラル派の転換が、レーガン大統領に象徴される自由主義の台頭と同時に生じたとされている点に着目すると、我々にとって考えるべきことが2つあるように思います。
1つは、「新自由主義」と、「あれもこれも差別だ〜」と声を挙げまくる「アイデンティティ・ポリティクス」というのは、じつは1つの同じ思潮の両側面なのではないかということ。もう1つは、その両者のセットが欧米からひと世代遅れて台頭してきたのが日本であって、これから欧米と同様の混乱を経験するのではないかということです。
リラ氏自身が、「アイデンティティ・ポリティクスは、新自由主義への対抗力たり得ない。むしろそれは、新自由主義の左派バージョンと言うべきだ」と指摘しています。たしかに個人主義的であるところ、習慣や伝統を「邪魔なもの」として扱うところ、邪魔さえ排除すれば世の中は自然に良くなるはずだと構えるところなど、共通点がいくつもありますね。
そのリベラルが大多数の人々を置き去りにしてしまい、トランプ大統領を誕生させ、アメリカ社会が混乱に陥ったというのがリラ氏の総括です。日本のリベラルが、欧米から一周遅れて「アイデンティティ・ポリティクス」に邁進するのであれば、同じような失敗に陥らないようにと祈るばかりです。
リラ氏の主張は、要するに「リベラルにもナショナリズムが必要だ」みたいな話です。彼自身はナショナリズムという言葉は殆ど用いていませんが、「社会が皆で共有できるビジョン」の必要性を訴えるというのは、要するにナショナリズムですよね。
現代の社会にも、「左派」と「右派」あるいは「進歩派」と「保守派」という対立軸は未だ健在である一方で、それと交わるようにして「ナショナリズム重視派」と「軽視派」という対立軸が存在しているのではないか。件の炎上事件を眺めながら、そんなことを思いました。
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