先々週、先週と続いて、近代化による「故郷喪失」の問題を扱ってきました。が、それと同時に、この「喪失感」が「過去に還れ」式の掛け声(復古主義)で埋まるものでないことも強調しておきました。おそらく、そんなところに、前近代と近代とが相対的に地続きなヨーロッパと、前近代と近代との断絶感が相対的に強い非ヨーロッパ諸国との宿命的違いというものがあるのでしょう。そして、その違いのなかに、非ヨーロッパ国である日本は、いかに近代と向き合うべきなのかという困難な課題も孕まれてきたのでした。
しかし、この課題は、何も文学・思想だけが背負っている課題ではない。わたしたちに最も身近な「経済政策」においても、この「近代」の引き受け方は問われています。
たとえば、「近代化はもうこりごりだ」という感想を加速していけば、その先には「もう経済成長は要らない(不可能だ)」という「脱成長論」を引き寄せてしまう可能性があります(ちなみに、「脱成長論者」は、左右を問わずに存在していますが、そのほとんどが団塊の世代あたりに集中していることには注意してください。つまり「脱成長論」は、既に「成長」の恩恵をたっぷりと享受している世代の主張だということです)。
また、その反対に、「日本などという特殊性は忘れて、さっさと近代化をすればいい」という感想を加速していけば、「構造改革とイノベーションによる成長戦略こそが日本には必要なのだ」という、ここ20年ほど「バカの一つ覚え」のように唱え続けられてきたネオリベ政策(新自由主義とグローバリズム)に行き着く可能性がでてきてしまいます。
つまり、私たちは、この20年間、「脱成長」(反近代)か「成長」(近代主義)かという、何とも不毛な二項対立(二者択一)に陥っていたのではなかったかということです。
ところで、最近私は、この二項対立自体が、実は二つの「成長」概念の混同による偽の対立なのではないのか、という興味深い指摘を目にしました。『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(ブレディみかこ氏×松尾匡氏×北田暁大氏、亜紀書房、2018年5月)という本のなかでの、経済学者の松尾匡氏(立命館大学)の指摘です。
松尾氏は、「経済成長」には質の違う二つの「成長」概念があると言います。
一つは、「天井の成長」と呼ばれるもので、要するに「供給能力の側の成長」のことを指します。簡単に言ってしまえば、既にある程度まで「完全雇用」が実現し、国内に新たなフロンティアが見出せない場合、構造改革とイノベーションによって、その国が持つ潜在的GDPの限界自体を克服(革新)し、そこに成長の余地を創り出そうとする試みです。
そして、もう一つは、「短期の成長」と呼ばれるもので、要するに「需要の側から見た成長」のことを指しています。これも簡単に言ってしまえば、デフレ下において、まずは目の前の失業者や需要不足(GDPギャップ)を埋め合わせることによって果たされる「成長」、いわゆるケインズ政策(金融緩和と政府の財政支出)による「成長」のことを指しています。
そして松尾氏は、この二つの違いを、次のような巧みな比喩で語っていました。
前者の「天井の成長」論は、「桶の中に水(労働者)が入っているとして、その水がめいっぱい入っている(完全雇用)とみなして桶のサイズそのものを拡大しようとする」ものだが、後者の「短期の成長」論は、「桶に水がぜんぜん入っていないから(不完全雇用)、景気対策をして桶の中に水をもっと注ごうとする」ものなのだと言うのです。つまり、「桶」そのものを革新することによって「成長」を狙うのか、「桶」のなかに足りていない水を注ぐことで、その後に自然な「成長」を促すのかは全く違う営みなのだということです。
なるほど、言われてみれば私たちは、「経済成長」を語りながら、この二つの「成長論」を明確に区別してこなかったきらいがあります(というより、あまりに当たり前すぎて、区別の必要を感じてこなかったと言う方が近いでしょうか)。しかし、もしかすると、その〝不注意〟こそが、議論を「混乱」させてきた原因の一つなのかもしれません。
需要の側から「成長が必要だ」(水を入れろ!)と言っているだけなのに、供給能力の側に立って「これ以上の成長は必要ない」(桶を代える必要はない)などと言いながら、成熟社会の自覚を促してみたり、あるいは、「桶に水が溜まっていないぞ」(政府支出による成長)と言っているのに対して、「じゃ、桶のサイズを変えよう!」(構造改革による成長)などと言いながら、それによってますます社会構造を不安定にしてしまう…などという、笑うに笑えない喜劇を、私たちは、ここ20年の間ずっと繰り返してきたのではないでしょうか。
さらに言えば、「保守派」の勘違いが、この「混乱」を加速させてきました。つまり、「グローバルな競争力の欠如によって今の日本の沈没があるのだから、今こそ、痛みを伴った構造改革で、国力の底上げを図ろう!」と語る「ネオリベ保守」の勘違いがそれです。
この「デフレ下での構造改革」が、どれだけ危険な勘違いであるかは、繰り返す必要はないでしょう。しかし、だとすれば翻って、「保守」に相応しい経済的態度というものはどのようなものになるのか。それを文芸批評家の私が言うのは気が引けますが…(汗)、それは、おそらく、あの二つの「成長論」の質的な違いを弁えたものになるはずです。
すなわち、目の前で不足している事があれば、それに対しては徹底的に手を打つが、不足がない場合、社会の「進歩」に対しては抑制的に振る舞う――つまり「進歩」を「主義」にしないというものです。もっと具体的に言えば、常に「短期の成長」に気を配りながら(アベノミクスの第一と第二の矢=金融緩和と政府支出で需給バランスをとりながら)、「天井の成長」(アベノミクス第三の矢=規制緩和)に関しては出来うる限り「恣意」を避けて、「自然」に任せる、あるいは、できうる限り慎重に振る舞うというものです。
しかし、それにしても、日本はやらなければならないのに、やっていないこと(各種財政政策)が多すぎ、一方で、やらなくてもいいのにやっていること(消費増税・規制緩和)が多すぎます。それをただ、「やるべきことをやり、やらなくていいことはやらない」という常識的な態度に立ち戻るだけで、この国は劇的に「余裕」を回復するはずです。
いずれにしろ、私たちは〈成長戦略=近代主義〉を批判しながら、〈成長=近代〉を語ることはできるのです。ただ目の前の「危機」に適切に対処すればいいのです。
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