【浜崎洋介】「生活」を守るということ――道元禅師と「悟り」

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 先週は、「生活の必要」(坂口安吾)に掉ささない言葉の虚しさについて、時代現象に終わっていった「ポストモダニズム」を例に引きながら述べておきました。

 ただ、「生活の必要」とは言っても、それは生活を便利にする「有用性」のことを指しているわけではありません。いや、そもそも、生きて死んでいく人間が「有用なモノ」ではない限り、その人間を支える言葉というものも、やはり〈有用性=意味〉を超えたものの手触りを宿していなければなりません。思うような結果(意味)から見放され、不如意な現実を受け止め切れないままに、人生を諦めかけてしまいそうになるその時にこそ「必要」とされる言葉、それが私の言う「生きて死んでいく人間」を支える言葉です。

 では、「生きて死んでいく人間の事実」に見合った言葉とは、一体どのようなものなのか。それを考えた時、いつも私が想い出す言葉が禅の―特に道元禅師の言葉です。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で戦った武士のなかには、禅に心の拠り所を求めた人間―北条一族、足利一族、武田信玄、上杉謙信、あるいは、勝海舟、山岡鉄舟など―が多くいましたが、まさに彼らは、見透しのつかない状況で、それでも自分の心の支えとなる言葉を探し求めていった先で、禅のなかに一つの「落ち着き」を見出したのでした。

 しかし、ではなぜ、武士たちが頼ったのが、天台宗や真言宗や浄土宗ではなく、禅宗だったのか。そこには禅の「個人主義」も影響していたのかもしれませんが、より決定的だったのは、「悟り」を「今、ここの実践」のなかに見出す禅宗が、現実のなかで「いかに生くべきか」を問い続けた武士たちの「必要」に見合ったことが大きかったと考えられます。

 そもそも仏教は、現実の「迷い」の世界に対して、仏の「悟り」の世界を対置します。「迷い」とは、避けられない苦しみを避けようと思い、満たされない欲望(煩悩)を満たそうとすることによって、ますます苦しみの世界へと落ちて行くこと(四苦八苦――生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を加えた八苦)を指しますが、「悟り」は、その「迷い」の世界からの離脱を意味しています。

 では、「悟り」とは、この現実を超えた彼岸を目指すことなのでしょうか。因縁(因果)を超えたユートピアを夢見ることなのでしょうか。道元禅師は違うと言います。

 なぜなら、現実から脱して、それとは違う世界に「悟り」を見てしまうと、そのために為されている現在の「修行」は、「悟り」のための手段となってしまい、それ自体が〈目的―手段〉関係に絡めとられた人間の「煩悩」を深めてしまうことにもなりかねないからです。

 つまり、「悟り」を目的にしてしまった瞬間、「いつか悟らねばならない未来」と「まだ悟っていない現在」との間にズレや齟齬を呼び込んでしまい、それが、まだ悟っていない自分自身への焦燥や、もう悟っているかもしれない師匠や仲間たちへの競争心・嫉妬心・怨念を掻き立ててしまうのだということです。そうなれば、その他者に対する思惑・打算が、自分本来の「仏性」―ありのままの世界をありのままに映した私の直感、つまり、私が私であることを素直に受容した落ち着き―を曇らせていかざるを得ません。

 しかし、だかこそ、道元禅師は「修証一等」(修行と悟りとは分かれておらず、一体のものである)と語っていたのではなかったでしょうか。補足して引用しておきましょう。

 「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修(悟りの基盤の上での修行)なるがゆゑに、初心の辨道(初心者の修行であっても)すなわち本証(悟り)の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさずくるにも、修(修行)のほかに証(悟り)をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証(言葉などの間接性を排した本来的な悟り)なるがゆゑなるべし。すでに修の証(修行の上にある悟り)なれば、証にきはなく(果てはなく)、証の修(悟りの上にある修行)なれば、修行にはじめなし」(道元禅師「弁道話」、( )内引用者)

 つまり、目的に囚われる心(我執)を消して、目の前の現実にただひたすらに向き合うことを「修行」だと言うのだとしたら、その「修行」の姿こそ、そのまま「悟り」の姿ではないのかということです。そして、ここから「悟りのために座禅する」ことを拒む「只管打坐」(ただ座る)や、「不立文字」(言葉に頼らない)といった道元の思想、日常生活における一つ一つの動作――髪を切り、爪を切り、顔を洗い、歯を磨き、料理を作りといった、常住坐臥の立ち居振る舞いの全てが「修行」であるという曹洞宗独特の教えも生まれてきます。

 しかし、だとすれば、「修行」とは、凡夫とは無縁の難事なのでしょうか。

 そうではありません。むしろ、凡夫を支える実践こそが「修行」なのです。遠い未来(目的)を空想するのではなく、まずは目の前のことに集中すること。それは、生活者なら多かれ少なかれ引き受けざるを得ない「生き方」でしょう。部屋が汚れているのなら掃除をし、食べなければならないのなら工夫を凝らして料理をし、風呂に入るのなら、ただその湯加減を静かに味わえばいい。その一瞬一瞬の「必要」に向き合いながら、その時間を真剣に生きること。実は、それ以外に、私たちが私たちの人生を支える道はないはずなのです。

 考えてみれば、人生の大部分は、「ただ反復すること」で成り立っています。つまり、目的もなく繰り返される毎日――食べ、排泄し、働き、寝て、また起きるといった反復によって、私たちは、私たちの「生活」を支えているのだということです。

 しかし、もしそうだとすれば、人生の最大の使命とは、この「目的なき反復」を守り切ることだと言えはしないでしょうか。どんな状況に巡りあおうとも、それを心静かに引き受けながら、与えられた運命を無心に生きること(任運自在)。その懸命の姿のなかに、真の意味での「信仰」も見えてくることになります。

 道元禅師の教えを書き留めた『正法眼蔵随聞記』には、次のような教えが記されていました。今度は「現代語訳」(水野弥穂子訳)で引いておきましょう。

「われわれの生命は刻々に流れゆいて少しもとどまらず、物事は日々うつりかわって、一定の状態なく、変化することのすみやかなことは、だれでも目の前に見ている道理である。指導者や経典の教えを待つまでもない。一刻一刻に、明日のあることをあてにしてはならない。その日、その時だけ生きているものと考えて、このあとどうなることかはきまったものではない。先のことはわからないから、ただ、今日だけでも、命のある間、仏道にしたがおうと思うべきである。その仏道にしたがうということは、仏法を興し、生あるものに利益を与えるため、身を捨て命を捨ててさまざまの事を行なっていくのである。」

 人は目的があって歩くのではありません。歩きたいから歩くのです。そして、真剣に歩き続けるその姿が、そのままにして「生あるものに利益を与える」ことになるのです。その事実を直感すること、その事実を信じること。人は、それを「信仰」と呼ぶのです。

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