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【浜崎洋介】「児童虐待」の先にあるもの――「善」と「悪」の逆転について

From 浜崎洋介(文芸批評家) 

 国語改悪、消費増税、移民政策など毎度暗い話題ばかりで気が滅入ってきますが、やはり、重要なことだろうと思うので、今回も敢えて暗いニュースを取り上げます。今年、過去最高の件数(約37000件)を記録したと報じられた児童虐待の問題です。(ちなみに、この件は、以前、毎日新聞の記事でも、取り上げたことがあります。)

 児童虐待の件数は27年連続の増加で、昨年同期と比べても7000件も多いと言いますが、児童相談所が扱う13万件超の外の例までを考えると、それは、ほとんど、日本人核家族が置かれている「息苦しさ」と「愛着障害」の症状を示す数字のように見えてきます。

 それに対しては、児童相談所(児相)の慢性的人手不足の解消や、児童相談所と弁護士・警察との連携などが求められており、また先日も、児相の介入機能を強化する報告書を厚生労働省の社会保障審議会ワーキンググループが纏めたというニュースもありました。

 が、この問題が、それらの技術的な対策だけで解消できるとは到底思えません。

 もちろん、その背景には日本の家族(中間共同体)の構造的変質がありますが、それに拍車をかけているのが、長引くデフレと貧困問題です。つまり、この三十年間の共働き核家族化と離婚にくわえ「経済的余裕の消滅」が、親たちの「孤立」を加速させているのだということです――事実、主な虐待は「身体的虐待」(3万3223件)ではなく、親のストレスによる子供の面前での夫婦喧嘩や暴言などの「心理的虐待」(7万2197件)だと言います――。

 しかし、だとすれば、今、日本の家族が必要としているのは、耳ざわりのよい「一億総活躍」などの掛け声ではなく、かつての中間共同体の支え――会社・地域・大家族――に代わる、若い子育て世代に対する「国家的支え」(公的扶助)の方ではないでしょうか。

 たとえば、エマニュエル・トッドは、「核家族と国家との間には共振関係がある」とした上で、すでに核家族が全面化している日本では、「すべてを家族が担うやり方には無理がある」(『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書)と指摘していますが、なるほど、共働き核家族の先進国で出生率を維持しているフランスの例などを見ると、確かに国家の家族支援は圧倒的です。DGPに占める家族給付は日本の倍以上の3・65%で、初等教育から高等教育までの国費負担にくわえ、政府公認の「産み捨て制度」さえあると言います。

 もちろん、だからといって私は、日本の家族観――親子の継続性重視や、家族の自生的な互助の精神――が悪いと言っているわけではありません。むしろ、できることなら、それを維持・発展していきたいとさえ思っています。が、その一方で、すでに日本社会が「共働き核家族」を前提にしているのなら、国家の積極的支援策なしで、「日本の家族」の未来はないだろうとも考えています。そして、まさに、その「日本の家族」の限界を示しているのが、年々上がり続ける「児童虐待」の件数にほかなりません。

 ただし、その数字は、「親の孤立」を示しているだけではありません。それはまた、虐待を受けた子供たちの将来の「孤立」を、そして、さらなる「虐待の連鎖」を暗示しています。

 よく知られるように、虐待を受けた子供たちの「心」は、「あるがままの自分」を感じ取ることが難しくなってしまいますが、たとえば、精神科医の高橋和巳氏は、それを「虐待されて育った子は『善と悪が逆』になっている」と表現して、次のように書いていました。

 「この世界に生れて初めての自己主張〔お腹が空いた、眠いよ、あれが欲しい…など〕を認めてくれるのは「母親」である。お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足する。主張を受けとめてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。その積み重ねの上に、私たちはこの世界に生きている「実感」、「存在感」を作り上げていく。

 虐待を受けて育つと、ずっと自己主張を封じられてしまうから、自分の存在を確認できなくなる。周りの誰も自分を認めてくれないから、自分がいるのか、いないのかが分からない。〔中略〕虐待を受けた子(人)が自分の存在を確認する唯一の方法は、自分を抑えることである。自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。」『子は親を救うために「心の病」になる』ちくま文庫、〔 〕内引用者

 つまり、普通の子であれば、〈内発的な欲求〉を他者に伝えること=他者と共有することに「生きる喜び」や「善いこと」を見出し、〈内発的な欲求〉を他者に伝えられないこと=共有できないことに「不快な思い」や「悪いこと」を見出すのですが、虐待を受けて育った子供たちの場合は、それが逆転してしまうのだということです。虐待は、子供たちから、内発的な「倫理」(ethic―ethos―住み慣れた土地・習慣)を奪ってしまうのです。

 子どもにとって、親に従うことが〈生きること〉である以上、目の前の親がどんなに「悪い親」でも――暴力を振るい、ネグレクトする親でも――、子供は、その親に従うしかありません。が、そうなれば、次第に「目の前の『悪い親』に耐えることが『善』であり、その逆に、耐えられずに逃げ出すことが『悪』と」なっていかざるを得ないでしょう。こうして、虐待に「適応」してしまった子供の「倫理」は、次第に「悪に耐えることが『善』で、善を求めるのが『悪』である」という感覚に犯されていってしまうのです。

 そして、この心理システムが思春期を経て定着すると、「悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていたほうが不安は小さい」といった「生き方」が身についってしまうことになるでしょう。

 ところで、もう想像はつくと思いますが、この「善と悪が逆」になってしまった場所こそ、「虐待の連鎖」が生みだされる場所なのです。なぜなら、虐待に「適応」することで生き延びて来た子供たちの多くは、将来、自分の子供を育てる際もまた、自分たちが身につけてきた「価値観」――子供の欲求や甘えは「悪いこと」で、それを抑え込むことが「善いこと」だという価値観――によって、子供に接するようになってしまうからです。

 果たして、支えを失った「孤立した親」と、その「虐待の放置」は、〈目の前の現実が不条理であればあるほど、その悪に耐えることをこそ善しする社会=自発的隷従者たちの世界〉をより一層加速していくことになるでしょう。しかし、考えてみれば、それは、もう既に実現しかかっているのかもしれません。「消費増税」や「移民政策」などの〈不条理=悪〉を目にしても、何の声も上げない「メディア」や「政治家」の姿がそれを暗示しています。

 では、この虐待によって作り上げられた「存在感の希薄さ」から抜け出る道はないのか。しかし、それについて論じるには、あまりに紙数が足りません(1500字前後でと言って始まったメルマガなのに…いつのまにか3000字近くになっています…汗)。次回、チャンスがあれば、その「脱出口」について考えておきたいと思っています。

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