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【浜崎洋介】「虐待の連鎖」の乗り超え方(1)――「語り」の力

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 今日は、先日あった「大阪シンポジウム」について書こうかと考えていたのですが、先週のメルマガ(「『児童虐待』の先にあるもの―『善』と『悪』の逆転について」)に対して、その「虐待の連鎖」からの「脱出口」について、もう少し書いて欲しいというお手紙を頂きました。なるほど、「脱出口」を示さないままで話を終わるのは、いくら何でも丁寧さに欠けますね。

 ということで、今回は予定を変更して、「虐待からの癒え」について、先週ご紹介した高橋和巳氏の『子は親を救うために「心の病」になる』(ちくま文庫)で紹介された症例を取り上げながら、そこに人間論的な考察を加えておきたいと思います。

 まず、最初に確認しておきたいのは、虐待によって起こる「善と悪の逆転」が、〈後天的な観念〉だという事実です。つまり、「目の前の『悪い親』に耐えることが『善』であり、その逆に、耐えられずに逃げ出すことが『悪』となる」こと自体が、まさに子どもが「生き延びる」ために「悪い親」に適応してしまった結果として作られた「心理システム」であり、その限りで、外界によって作られてしまった〈受動的感情〉だということです。

 しかし、それなら、その「虐待の連鎖」からの脱出のヒントは、〈後天的に身につけた観念の外にあるもの〉ということになるのかもしれません。では、その〈後天的に身につけた観念の外にあるもの〉とは何なのか。それは、〈先天的に与えられている私たちの生命力〉にほかなりません。言ってみれば、それは社会によって受動的に作られる「心理システム」(空間的意味、「~である」意味)より以前にある〈能動的感情〉、すなわち「生命システム」(生命的持続感、「~がある」という存在感)そのものです。

 では、私たちが〈先天的に与えられている生命力〉にアクセスするには、どうすればいいのか。高橋和己氏が注目するのは、「語り」と「諦め」です。紙数も限られているので、今日は「語り」の方に注目しながら、自らの「虐待」を克服していった一人の女性の例を紹介しておきましょう。

 その女性というのは、自分が受けた虐待によって、自分の子供をも虐待してしまうという、まさに「虐待の連鎖」に陥っている母親でした。が、彼女は、その後に、カウンセラーに対する「語り」を通じて、次第に「生命システム」に通じる回路を見出していくことになります。その際、目を引くのは、カウンセラーが、患者にアドバイスをするために(後天的に作られた患者の「心理システム」に、新たな意味を付加するために)存在しているのではなくて、ただひたすら、患者の「語り」を聴くため(患者の存在を受容するため)にこそ存在しているように見える点です。

 では、なぜ他者に対する「語り」は、「生命システム」への回路を開くのか。

 ポイントは二つあります。一つは、その「語り」を通じて、彼女自身が後天的に身につけた「心理システム」を距離化し客観化できるようになっていくということ。そして、もう一つは――こちらの方が大事ですが――、その「語り」に対して、耳を傾けてくれる他者がいるということを実感することによって、〈善と悪の逆転〉より以前の場所で、〈生命としての私が、存在している〉ことを感じられるようになっていくことです。

 しかし、だからこそ、その「生命システム」の存在にたどり着くには、自らの「心理システム」の在り方について徹底的に「語る」必要があるのです。具体的に言えば、それがどんなに苦しく辛い体験でも、あるいは、口にはできないような汚く醜いことでも、まずは自分の「心」を素直に他者に語ること。それを語る過程で、次第に彼女は理解することになるのです。その「汚く醜いこと」を超えて、自分の存在を受け容れてくれる他者がいるのだということを。自らが〈後天的に身につけてしまった心理システム〉を超えて、〈今、ここで与えられている生命それ自体〉を肯定する他者が存在しているのだということを。

 ただし、間違ってはならないのは、ここで肯定されているのは、彼女の「語っている内容」の方ではなくて、「語っている彼女の存在」の方なのだということです。〈我と汝〉の「語り」を通じて、〈今、ここで、こうして語っている私〉そのものが肯定されていると感じられたとき、はじめて彼女は、〈後天的に身につけた心理システムの囚われ〉から自由になって、「意味」より手前の「存在」に立ち返っていくことができたのでした。

 すると不思議なことが起こってきます。「語り」によって自らの「心理システム」に対する距離=余裕が生まれてくると、次第に〈意味に強迫された不安と恐怖〉が緩んできます。そして、その〈ゆるみ〉のなかに、自分の「存在(ただあること)」を感じられるようになってくると、そこに〈自分へのゆるし〉が生まれ、その〈ゆるし〉が〈他者へのゆるし〉へと繋がっていきます。こうして、子供の「甘え」を〈許容できる心=我が子をかわいい、愛しいと思える能動的感情〉が自然と沸き上がってくることになるのです。

 意味より手前にある自分を知ったとき、人は初めて、意味より手前で人を愛することを知ることになります。その「転回」の瞬間を、女性は次のように語っていました。

「一昨日、娘が保育園から帰ってきた時です。じっと黙っているので、『どうしたの? 何か嫌なことがあったの』と聞いたら、菜奈〔娘〕がポロポロ涙を流しました。私は自然と娘の頭を抱いて、よしよししてあげました。そんなことをしたのは最近なかったんです。
 その日、どうしてできたのか、自分では分からないのですが、自然とそうしていました。
 娘は頭を私の身体に押し付けてきました。
 私は何も言わずに娘の頭をなでていました。そうしたら、ふーっと力が抜けてきて、温かくて不思議な気持ちになりました。『これでいいんだ……』とその時は思いました。
 今思うと、私が許された気持ちになったようでした。そんなふうに感じました。菜奈は私を必要としている。自分は必要とされていると思いました。自分がいることがいいことなんだ、私はいていいんだ……あの時は、焦りが消えて、時間がゆっくりと流れていました」

 〈愛〉が伝染するというのは、おそらく、こういうことを言うのでしょう。この親子の〈愛〉について、高橋氏は次のように書いていました。「抑えてきた善、失ってきた善を想い出させてくれるのは、子どもの笑顔である。子どもは『この世界』が善なのか、悪なのか、まだ知らない。だから、彼らはためらうことなく笑顔を返す。親が生きていくためにとっくの昔に閉じてしまったものを、子供はまだ持っている。親は子に救われる」と。

 つまり、「児童虐待」による「善と悪の逆転」に対しては、結局、私たち一人一人の〈存在の手触り〉、〈存在への愛〉によって立ち向かっていくほかはないのだということです。簡単な道など、どこにもありません。私たちの心の奥深くに潜んでいる「他者と共に在りたい」という声に素直に耳を傾け、それに丁寧に〈かたち〉を与えること。その実践を通じて、私たちは、私たちの〈生きる喜び〉を次第に取り戻していくしかないのです。他のことは、徐々に徐々に生起して来るはずです。少なくとも、そう私は信じています。

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