こんにちは、浜崎洋介です。
先週は、伝統的に「~からの自由」(消極的自由)を看板としてきた「リベラリズム」が、しかし、結果として世界観に訴えた「大嘘」を許してしまい、私たちのなかに眠る〈悪魔=ニヒリスト〉を呼び出してしまうまでの必然について簡単に述べておきました。
ただ、「リベラリズム」が頼りにならないのだとすれば、「悪魔」に抵抗できるものとは何なのか。私たちの「価値」を守る最後の砦とは何なのか。
しかし、その答えは悪魔自身が示してくれているのかもしれません。
というのも、先週も引用した小林秀雄の「ヒットラアと悪魔」(昭和三十五年五月)のなかに、悪魔自身が「最も嫌ったもの」が記されているからです。
「三年間のルンペン収容所の生活で、周囲の獣物達から、不機嫌な変わり者として、うとんぜられながら、彼が体得したのは、獣物とは何を置いても先ず自分自身だという事だ。〔中略〕彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。無方針な濫読癖で、空想の種には困らなかった。彼が最も嫌ったものは、勤労と定職とである。
当時の一証人の語るところによれば、彼は、やがて又戦争が起るのに、職なぞ馬鹿げていると言っていた。出征して、毒ガスで眼をやられた時、恐らく彼の憎悪は完成した。勿論、一生の方針が定ってからは、彼は本当の事は喋らなかった。」
注目すべきなのは、もちろん、「彼が最も嫌ったものは、勤労と定職とである」の一節であり、また、「やがて又戦争が起るのに、職なぞ馬鹿げていると言っていた」との一節です。つまり、小林の指摘によれば、ヒトラーは、社会の〈連続性・持続性〉を期待していないのみならず、その〈連続性・持続性〉をこそ憎んでいたのだということです。
では、なぜヒトラーは〈連続性・持続性〉を目の敵にしなければならなかったのか?…
答えは、簡単です。〈連続性・持続性〉が保たれている社会では、ヒトラーの〈素面なき仮面〉、つまり、目の前の現実を否定する「大嘘」の力が発揮できないからです。
たとえば、〈連続性・持続性〉が比較的保たれている「家族」のことを考えてみてください。メンバーは、おそらくそう簡単には嘘がつけないはずです。互いが互いの過去(=素面)を知っている状況では、その場しのぎの「嘘」は、すぐに見破られてしまうからです。実際、ヒトラー自身も家族を作りませんでした。
しかし、これは逆に言っても同じです。〈素面なき仮面=大嘘〉が通用するのは、流動性が高く、また〈連続性・持続性〉が希薄な社会なのです。かつてディユルケムは、自殺者の心性を描いて、「いつも未来にすべての期待をかけ、未来のみを見つめて生きてきた者は、現在の苦悩の慰めとなるものを、過去に何一つ持っていない」(『自殺論』)と書いていましたが、まさに「嘘」が忍び込むのも、そんな過去を失った孤独な人間の心なのです。
実際、ヒトラー自身が、そのことをよく見抜いていました。ヒトラーは言います。
「民衆集会というものは、まず第一に若い運動の支持者になりかけているがさびしく感じていて、ただ一人でいることで不安におちいりやすい人に対して、たいていの人々に力強く勇気づけるように働く大きな同志の像を、はじめ見せるつもりであるから、それだけでも必要である。〔中略〕もし探究者としてかれが三千人から四千人の人々の暗示的な陶酔と感激の力強い勢力にまきこまれるならば、もしもこの目に見える成果と数千人の賛同とがかれに新しい教説の正当性を確証し、はじめてかれのいままでの確信の真理性に対する疑いの念をめざめさせるならば、――そのとき彼自身は、われわれが大衆暗示ということばで呼ぶあの魔術のような影響に屈服するのである。」(『わが闘争 下』第六章、平野一郎、将積茂訳)
ここで注意すべきなのは、「新しい教説の正当性を確証」するのが「目に見える成果と数千人の賛同」であり、また、それは真実性とは関係のない「あの魔術のような影響」によって可能になるのだというヒトラーの言葉です。つまり、その言葉が真実だろうが嘘だろうが、そんなことはどうでもよくて、その世界観が、「ただ一人でいることで不安におちいりやすい人」を飲み込むことができるのかどうか、それだけが問題だということです。
果たして、ザールの占領、ハイパーインフレーション、六百万の失業者などによって、ドイツの〈連続性・持続性〉がズタズタに破られた時に、その一種の記憶障害の隙間を縫って登場して来た「悪魔」、それこそが「何物も信じないという事だけを信じる事を、断乎として決意した人物」であるヒトラーだったのです。
では、翻って、今の日本の現実には、「悪魔」の嘘を見抜くだけの〈連続性・持続性〉が担保されているのでしょうか。かつて茶髪・サングラス姿でワイドショーのコメンテーターをしていた弁護士は、いまではすっかり大物政治家気取りで、「学者、文化人(テレビコメンテーター)は現実を知らない」と嘯いていますが、かつての彼自身が「現実を知らないコメンテーター」の一人だったことを記憶している人間はほとんどいません。
あるいは、「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」と語りながら、種子と、水道と、移民(国の形)のことごとくを資本(カネ)に晒そうとしている男が、かつては「私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。(中略)棚田は労働生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかもしれません。しかしこの美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです」(『新しい国へ』文春新書)と語っていたことを覚えている人間はどれほどいるでしょうか。
もちろん、私は、この二人が正真正銘の「悪魔」だとまで言うつもりはありません――ただし、前者は限りなく悪魔に近いですが、後者はただ単に呆けているのだと思います――。が、いずれにしろ、私たちが「悪魔」に抵抗できる〈連続性・持続性〉を失いつつあることだけは確かだと思います。しかし、とすれば、これからは左右のイデオロギーとは関係なく、それが〈素面のある仮面〉なのか、〈素面なき仮面〉なのかを、私たち自身が見分ける必要があるということです。頼れるものは、自分自身の〈連続性・持続性〉の感覚と、その感覚に基づいた一人一人の「嗅覚」だけだということです。
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