前回のメルマガでは、教育現場にAIを積極的に導入しようとする“思いつき”の軽薄さについて論じておきました。が、話が、少々哲学的になり過ぎたせいもあって、AI批判が目立ってしまい、本当に重要な教育論の方が後景に退いてしまったかもしれません。その点、今になって、もう少し書き方を工夫すればよかったと反省しています(笑)。
ということで、今回は、私の経験談を織り交ぜながら、改めて教育の本質について論じておきたいと思います。そのなかで、おそらく以前の論についての補足もできるでしょう。
まず、前回のメルマガで私が強調したかったのは、教育とは意識的なレベルでの知識の受け渡し以上に、無意識のレベルでの「躾け」が必要な領域であり、そうである以上、「規則」を前提にすることのできる教育現場などはあり得ないのだということでした。換言すれば、「信頼」が支配する領域に「計量」を持ち込むこと、あるいは、「信頼」の基礎を問わずに、その負担を「計量」に肩代わりさせようとすることへの強烈な違和感です。
というのも、まさに私自身が、その教師生活を通じて、「計量」によっては「信頼」が賄えないという人間的事実を何度となく思い知らされてきたからです。
ここで、一つ、私の体験談をお話ししておきましょう。
かつて、塾で小学生に国語を教えていたときのことです(たしか、小学三、四年生くらいの子だったと記憶します)。そこで、生徒と一緒に読解文を解いていた私は、ほとんどウィトゲンシュタイン的と言っていい体験をすることになるのでした。
覚えている範囲ですが、まず、そのときの読解文の概要を述べておきましょう。
「ある日、ある町に、母と子二人の家族が引っ越してきます。ところが、引っ越して、しばらく仕事に忙しかった母親は、なかなか隣近所に挨拶に行く暇を見つけることができません。そんなある日、お腹を空かせて学校から帰宅した小学生の息子が、テーブルの上に、見慣れない紙袋が置かれていることを発見します。が、まさか、それが、隣近所への挨拶用に母が用意しておいた菓子折りだとは思いもしない男の子は、それを見つけるなり、紙袋のなかにあったお菓子を全て食べてしまうのでした。
その後、仕事から帰宅した母親は、空っぽの紙袋を見て全てを悟ります。しかし、子供には何も言わずに、母は、手ぶらのまま隣近所への挨拶回りに出かけることになります(代わりの菓子折りを買う余裕もない家庭なのです)。そして、母の挨拶回りに連れていかれた男の子は、そこで『何も持たずにご挨拶にうかがい、申し訳ありません』と頭を下げる母親の姿を見ることになるのでした。」
さて、これが読解文のおおよその内容ですが、例のごとく、その最後の部分(頭を下げる母親の姿)には傍線が引かれてあって、次のように設問されていました、「このとき、母親の姿を見た子供の気持ちについて説明せよ」と。そして、その「正答」は、言うまでもなく「母の気も知らずに勝手に紙袋を開けてしまった自分自身に対する後悔、母親に対する申し訳ないという気持ち」というようなものです。
しかし、私が教えていた小学生の「答え」は違っていました。さすがに、それを聞いたときは耳を疑いましたが、彼は悪びれもせずこう答えたのです、「ざまぁみろ」と。
あまりの答えに、私は、その言葉が向けられた先が母親なのか、隣近所の住民なのかを確かめ忘れてしまいましたが、しかし、どうも彼は真面目にそう答えているようなのです。
では、果たして、この子に「正答」を教えるという行為とは一体何なのか。
それは、おそらく「論理的説得」のようなものではあり得ません。実際、「論理」だけで言えば、そこで「ざまぁみろ」という答えを否定する理由はない。その子が、母親を憎んでいる、あるいは隣近所の住民を憎んでいるということがあるなら、それも一つの答えになり得ます。が、一般的に愛情関係のある人間なら、「ざまぁみろ」ではなく、「申し訳ない」と答える「べき」なのです。あるいは、そう答えるのが「自然」なのです。
しかし、ということは、何かを教えるという行為のなかには、すでに「躾け」の要素が入っているということになりはしないでしょうか。それは意識に向かって「解説する」というよりは、ほとんど、そう思うように「訓練する」と言った方が正しい。実際、その「ざまぁみろ」と言った子供に対して私は、「こういうときは、つべこべ言わずに、申し訳ないと思うのが人間なんだ! 」と言って聞かせるしかありませんでした。それは、もうほとんど「読解」などという高級なものでなく、文字通り「身を整える」ための「躾け」です。
が、この「訓練」が必要なのは、何も小学生だけではない。大学生でさえ、「議論というのは、あげ足を取ることではないのだ」とか、「一度口にした言葉には責任を持たなければならない(行為で示す必要がある)のだ」とか、「以前に言ったことを誤魔化したり、無視してはならないのだ」とか、「単なる博識や論理的整合性を『思想』とは言わないのだ」とか…そういう「常識」(議論の作法)は、いちいち「訓練」しなければ身につかないのです。
しかも、この際、ああ言えばこう言う式の「頭のいい学生」ほど、「論理的説得」は功を奏しません。逆に、その教師による説得行為自体が、その学生に対する「特別扱い」になってしまい、学生の勘違い(自意識)を加速させてしまいかねないのです。
だから、もう、お分かりだと思いますが、教育において「規則」が前提になるなどということはあり得ません。もちろん「訓練」した後でなら、世界はあたかも「規則」を持っているかのように見えてくるでしょう。が、まずは、その「規則」を教える「力」が、つまり、子供たちを訓練し、躾けるための教師の「肉体」が必要なのです。そして、たとえば、そこで怒鳴られた(躾けられた)生徒が、「怒鳴られた自分が悪かったんだ」と思える条件が、すなわち、教師と生徒(学生)との間の信頼関係が教育には必要不可欠なのです。
その「信頼」なくして、どうして、知識と論理で頭をいっぱいにした生意気盛りの学生が「自分が悪かったんだ」などと思えるでしょうか。あるいは、どうして「善悪の彼岸」に立っている子供たちに「正答」を教えるなどということができるのでしょうか。
そのこと一つとっても、「先生不要のAI教育論」のバカバカしさは明らかです。それは、教育から「訓練」と「躾け」を、そして「人を信頼する力」奪い取ってしまいます。いや、もしかすると、単に人びとは、面倒な「訓練」や「躾け」の責任を「計量」に押し付け、「信頼」などというあやふやなものから逃げたいだけなのかもしれない。
が、それは人々の心に、「ニヒリズム」を植え付けてしまうだけです。操作できない無意識(文化)を、操作可能な意識(計量)に還元しようとしたとき、私たちの「信じる力」は死んでしまうのです。
果たして、「技術的進歩によって教育も進歩する」などといった安易なオプティムズムは捨て去るべきです。人間が変わらない以上、教育の原理も変わりません。〈学び=まねび〉の営みは、どこまでいっても、人が人を信用するところからしかはじまり得ないのです。
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コメント
ウィトゲンシュタインの洞察は規則(ルール)と実践(プレイ)の優先順位の逆転ということでした。普通に考えれば、規則に基づいて実践(行動)が行われ、規則の中に従い方の正しさが内蔵されているとなりますが、ウィトゲンシュタインの数列を教える教師と子供の間に、先の例のような齟齬が生まれる可能性を否定することができない。つまり、教師の正しさを理性的に根拠によって提示することは出来ない。
しかし、ウィトゲンシュタインはこうした齟齬はなぜか起きないという事実で答えたわけです。実践がなぜか一致するので、その後で規則の正しさが理解できるというわけです。教師と子供の間にすでにそうした前提が共有されている時、その子供は正しい数列の数え方を了解できる。根拠が意味をもつのはそうした場合なのでしょう。
さて、浜崎さんが遭遇した子供の事例では、国語というより倫理・道徳の問題な気がしますが、似たような構造ですね。
道徳は自身が正しさを決めているため、これを根拠づける事はできない。道徳は数学や論理学のような厳密性は必要なく、その正しさは道徳体系全体をもって答えるしかないでしょう。
「ざまぁみろ」と答える子供が正答を理解するには、すでにそう躾られている前提が必要なります。この子供が実は正答がわかっているのに、ひねくれて「ざまぁみろ」と答えたのではなく、知的な疑問から「ざまぁみろ」と言ってもいいのでないかという疑問を表明すること、そして、その事を議論する余地は残していただきたいと思います。
ただ、小学生くらいの場合教師というより親がすでに躾けておくのが良いと思いますが、価値が多様化すると道徳の解釈も様々になるので、今日では簡単ではなくなってきているのかもしれません。
最後にAI教育ですが、私はなんとなくですが、AIが心をもつ、あるいは意味を理解することも可能なんじゃないかと考えます。心とは個々人の中に実在するものではなく、他者との関係性の中で成立するもので、心という観念が成立したあとは自分には心があるとか言える気がします。
赤ん坊に心があるかないかは非常に難しいです。単に入力と出力の関数AIに心があるとは認められませんが、人間と非常に近い反応をするようになったAIにはひょっとしたら心があると認めてもいい気もします?
まあ、非常に難しいですね。
親も劣化してるんよ…..悲しいかな。
浜崎はんの言う「力」は本来親が子に躾るもんなんよね。
話が繋がるか分からんけど私は「座敷わらし」が大好きです。
「座敷わらし」が好きなのではなく「座敷わらし」を作った日本文化が好きな訳です。映画「この世界の片隅で」でも登場しましたが「座敷わらし」とは親の居ない迷い子です。迷い子は生きる為に他人の家の軒下や屋根裏に入り込み雨風をしのぎ空腹を満たすため寝静まった夜中に出てきては余った残飯を漁る生活。ならば迷い子からしてみれば少し裕福でなおかつ優しさが漂う家に入り込もうとするはず。(この迷い子の嗅覚が今日の座敷わらしがいる家は繁栄すると言われるゆえん)
ではその家の住人は本当に「座敷わらし」と言う妖怪が家に入り込んだと思っていたでしょうか。そんなはずはないw 迷い子だと誰もが分かっていたはず。特に女性は。ここで私の推測なのですが映画「この世界の片隅で」の部分でお婆さんが「あれは座敷わらしじゃ」と断言していました。これ男の感覚(数量的感覚)なら絶対何かを突き止めようとするはずです。迷い子とは言えただの泥棒。では何故、この時代までの男達は己の行動を自粛し行動に移さなかったのでしょうか。私はお婆さん(女)が断言したからだと思うのです。この時代までの庶民レベルの男達は女の言う事に逆らわなかった、と言うより絶対的信頼をしていたのではないでしょうか。(逆の信頼もあったでしょう)
私はこれこそ日本の文化。女の母性とそれを優先する男女の信頼関係があればこその「座敷わらし」が出来上がったのだと思う今日この頃でございます。
教育の不思議さは、とても興味深いですね。
自分が高校生のころ、東大に入学したとても頭のいい先輩(自分とは隔絶感アリアリ)から聞いた話があります。
僕は教師になりたい。なろうと思った。
でも、実際に子供に教えようとして、気が付いた。
自分は今まで、なんでも悩まずに勉強できてしまった。
だから、勉強でつまづく子供が分からないんだ。
これでは、教師になれない、そう気づいたんだ。
教えるということは、一体なにをやっているのか。
学校の社会人の形成という側面も膨大ですが、そもそも、勉強、学科を教えることすら、とても不可思議なものなのではないか。
人工知能だロボットだという話で、日本人はいきなり鉄腕アトムを目指したりする。それはそれで方向性として結構だと自分は思います。が、もしもそれを目指すならば、ゴマカシなく、妥協なく、どれぐらいそれが困難か、いや、その遠く険しい道のりをどれだけ現代で進めうるのか。ふわふわしないで、個人的ロマンに逃げないで、命がけで真剣にやるべきだと、そう思っております。
不知為不知。是知也という強がりぐらいしか、自分は持っておりませんが。