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【川端祐一郎】プログラミング教育必修化の前に弁えておくべきこと

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

一昨日の報道で、小学校でのプログラミング教育が必修になると言われていました。
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO42915160W9A320C1MM8000?n_cid=SNSTW001&s=1

表現者クライテリオンは「保守思想誌」ですので、読者も執筆者も、

「小学生にプログラミングなんて教える必要はない。初等教育で大事なのはあくまで読み書きと算盤、そして道徳だ」

というような考えをお持ちの方が多いと思います。

私も基本的にはそう思うのですが、要するに頭の体操のようなことをするのだと思えば、べつにプログラミング教育を行うこと自体に強く反対しようとは思いません。国語などの時間が大きく削られるとになると問題ですし、実際のカリキュラムの質にもよりますが、算数や理科の一部に出てくるぐらいなら、弊害を叫ぶほどのことではないでしょう。

子供向けにMITが開発した「Scratch」というプログラミング言語がありますが、これは教育目的で使われるものとしては最も有名だと思います。イラストや図形や文字を並べ、それらについての簡単な動作ルールが書かれたブロックを組み合わせることで様々な処理を表現し、ちょっとしたアニメーションやゲームを作成することができます。

実際、少し教えれば小学1・2年生でもいろいろなロジックを実装することができるのですが、やっていることはレゴや図画工作とあまり変わらないので、従来我々が受けてきた教育から大きく逸脱するという印象はありません。(上の記事や文科省の文書をみる限り、計画されているのは実技というよりも主に考え方の学習のようですが。)

しかし今回述べておきたいのは、プログラミング教育そのものの是非についてではありません。それよりもこの手の話題を論じる際に気をつけておかなければならないのは、教育そのものがプログラミングのように「人間の思い通りになるもの」として語られてはいないか、ということです。

いや、余談にはなりますが、コンピュータのプログラムだって「思い通りに動いてくれる」ようなものでは全くないということを、IT業界の方なら誰もが知っています。プログラムがちょっと複雑になるだけでも数えきれないほどの「予期しない動作」が生じるもので、だから「デバッグ」(プログラムの誤り=バグを見つけて修正すること)は、情報システムの開発や運用において最も骨の折れる作業の一つとして知られているわけです。

人間というのは、大抵の情報システムよりも遥かに複雑な存在で、教えたとおりに育ってくれるようなものでは全くありません。これは初等教育であれ高等教育であれ、家庭教育であれ社員教育であれ同じです。しかも、学校で教える実務的なスキルが、教わった子供が大人になる頃にも社会で必要とされているのかどうか、保証はありません。

教育というものがいかに「思い通りにならない」ものであるかを知るのは重要なことだと私は思うのですが、どうも多くの人が、ついつい教育の力を過大評価してしまうようです。社会が抱えている問題の解決策を議論し始めると、「結局、教育を変えるしかないんだよなぁ」などと安易に言う人の何と多いことか。

冒頭の「小学校でプログラミングを教えよう」という話や、これに類する提言の胡散臭さには2つの面があって、1つはもちろん「もっと大切なことがあることを忘れていないか」ということです。私も、とりわけ初等教育においては国語に圧倒的な比重を割くべきだと思います(実際、小学校低学年のカリキュラムは国語と算数が中心ですよね)。

でも今回強調しておきたいのはもう1つの面で、教育のカリキュラムを弄ることで人間を思い通りに設計できるとか、自分の設計した人間が将来この世の中に役立つ仕事をしてくれるはずだとかいう安易な思い込みが、「プログラミング教育」等々を語る人の言葉の端々に感じられるということです。

昔、何かの記事で読んで笑ってしまったのですが、企業の粉飾決算事件が相次いだときに「学校教育において財務会計の基礎知識を必修化すべきだ」というようなことを主張している人がいました。プログラミングと同じで、多少教えても特に害はないと思うのですが、不正会計の対策が「学校教育だ」というのは、いかにも安直な発想です。しかしこの手の意見は、ビジネス界に限ったわけでもなく、かなり広く見られるものです。

もちろん同じことが、私を含めて、国語や歴史や道徳の教育を重視する立場の主張についても言えるということには注意が必要です。ただ国語教育等にはプログラミング教育と違って、我々の社会が長い時間をかけて培ってきた「常識」が詰め込まれていて、そこで身につけられる知識や感覚の汎用性や持続性が、ビジネススキルなどとは比べ物にならないとは言えます。

もちろん、思い通りにならないものだからといって教育が無方針であってよいわけではなく、カリキュラムの設計が重要な作業であることは間違いありません。それに、時代に合わせて内容を変化させることももちろん必要で、コンピュータにまつわる知識が取り入れられることそれ自体については目くじらを立てなくてもよいでしょう。しかしその手の議論に臨む我々には、教育の結果を予測することがいかに難しいかを弁えておく謙虚さが求められます。

教師の偏見や押し付けがましさに込められた愛情が忘れがたい思い出となることもあって、ある程度の独りよがりは、教育を面白いものにする条件の一つですらあります。しかしそれとて、教師が「人を思い通りに育てることなどできない」という無力さとの格闘を通じて表現するからこそ心を動かすのであって、「プログラミングの必修化でIT立国」というような安易な思い込みは、教育を貧しくするに違いありません。

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