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【松林薫】池袋暴走報道の「釈明」に見る新聞凋落の原因

From 松林薫(ジャーナリスト・社会情報大学院大学客員教授) 

こんにちは。ジャーナリストの松林です。

4月に東京・池袋で高齢男性が運転する乗用車が暴走し、横断歩道を渡っていた母子2人をはねて死亡させる事故が起きました。

負傷者が10人に上るなど事故としても重大ですが、話題になったのは運転手がすぐに逮捕されなかったうえ、当初マスコミが匿名や「さん付け」で報じたからです。この男性が旧通産省工業技術院の院長や機械メーカー大手クボタの副社長などを歴任した事実が明らかになると、警察やマスコミに「上級国民だから特別な配慮をしているのではないか」という疑問や批判が殺到したのです。

この騒動を巡っては、本サイトでも小浜逸郎さんが「池袋事故のSNS炎上から何を学ぶか」という記事を書かれています。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190426/

私自身はこの事件を取材したわけではないので、警察が男性を逮捕しなかった背景に「忖度」があったのかどうかは知りません。報じられている通り、単に治療が必要な状態だったからであれば、回復を待って逮捕する可能性もあるでしょう。そうなれば新聞やテレビは自動的に呼称を「容疑者」に切り替えるはずです。

それはともかく、私が注目したのは、人々の批判を受けて新聞各社が掲載した「釈明記事」でした。中でも読売新聞が5月10日にアップした「容疑者でなく元院長、加害者の呼び方決めた理由」という記事は、新聞がどうして凋落しつつあるのかを考えるうえで示唆に富む内容だと感じました。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20190510-OYT1T50294/

記事の要旨は以下の通りです。新聞は従来、逮捕された人を呼び捨てにしていた。しかし、逮捕や指名手配、書類送検をされるなど刑事責任を問われている人も、裁判で罪が確定しているわけではないので「犯罪者」ではない。そこで、あくまでも疑いを持たれている段階であって犯罪者ではないことを示すため、1989年(つまり奇しくも平成元年)から「容疑者」という呼称を使うようになった−−−。

では、「昭和時代」に被疑者はどんな扱いを受けていたか。昭和末期の読売新聞の記事を見てみましょう。

(前略)荒川署員が現場にかけつけたところ、同駅の東約三百メートルの線路上に乗用車が止まり、同区●●●●の●の●、アルバイト運転手藤森●●(●)が車内に泥酔状態でいるのが見つかった。(中略)調べに対し、藤森は「道を間違えた。ガタガタするので気がついたら線路を走っていた」と供述しており、同署は藤森を電車往来危険の現行犯で逮捕した。(後略)
(読売新聞「お粗末の“締め”は泥酔男 線路上1.4キロを車で走る 常磐線混乱」1988年12月31日付 朝刊)

記事中の「●」部分は筆者が伏字にしましたが、当時は被疑者を呼び捨てにし、住所も番地まで書いていたことが分かります。現行犯だったこともあるでしょうが、今よりずっとバイアスがかかった報じ方で、プライバシーへの配慮もなかったわけです。

要するに「容疑者」という呼称は、こうした社会的制裁につながる報道をやめ、「無罪推定の原則」を明確にするために導入したものだということです。読売の釈明記事もこうした経緯を説明することで、読者の理解を得ようとしたものでした。ただ、私の目を引いたのは次のくだりです。

“ご意見をいただいて気になったのは、「容疑者=犯罪者」という感覚の広がりです。犯罪者の印象を避けるために使い始めた「容疑者」が、30年たって犯罪者の代名詞のようになってしまっているとすれば皮肉です。”

そもそもこの騒動は、マスコミ側が「容疑者」をニュートラルな呼称として使っているつもりなのに、人々の大半が一種の「蔑称」として受け取っていることから生じました。本来は被疑者への「配慮」を込めた呼称なので、記者たちからすると「なぜ容疑者と呼ばないのか」という読者の批判は、根本的にズレているように感じるわけです。

しかし一番の問題は、この決定的なズレ自体を記者が認識していなかったことではないでしょうか。この書きぶりからは、ネットで「炎上」して初めて、どうも大多数の国民は「容疑者」を自分たちの意図と違うニュアンスで捉えているらしい、と気づいたことがうかがえるのです。

言うまでもなく、「容疑者」は新聞・テレビが使わない日はない基本単語です。そのニュアンスでさえ書き手と読み手の間で共有できていないのですから、あとは推して知るべしでしょう。

報道に使う言葉は、国民全体で共有されていなければならない日本語(国語)の中でも、特に重要な一分野です。ところが、実は報道機関と読者・視聴者の間でコミュニケーションが成り立たなくなっているわけです。

私自身がこの問題に気づいたのは、ネット掲示板やSNSで記事へのコメントを頻繁に目にするようになった10年ほど前でした。読者の感想や批評を読むと、記者からすれば誤読としか思えない解釈が、びっくりするほど多かったのです。

具体例を挙げておきましょう。新聞やテレビは、企業や役所の中で検討段階にある計画を報じる際、進捗や実現性がどの程度か読者に伝えようと表現を使い分けます。例えば、まだアイデアレベルであれば「〜する方向で検討に入った」、かなり煮詰まった段階なら「〜する方針を固めた」などと書くのです。

記者自身は「〜する方向で検討に入った」と書くとき、実現までに不確定要素が多いことを明示しているつもりです。しかし、ほとんどの人は「〜する方針を固めた」との違いなど気にしたこともなく、「要するに〜すると決まったんだろう」と受け取っているのが現実でしょう。だから、報じた計画が発表されなかったり取りやめになったりすれば「誤報だ」「憶測で書いたんだろう」と不信感を持つことになります。

平成を通じて「人々のメディアリテラシーを高める必要がある」という問題意識はかなり浸透しました。しかし、メディアリテラシーとは「マスコミ報道を疑うこと」がすべてではありません。それ以前に、情報の受け手が送り手の言葉を理解していなければ話にならないのです。その意味でのリテラシーは、むしろ平成の三十年で低下したというのが私の実感です。私が新聞社を辞めてすぐに『新聞の正しい読み方』(NTT出版)という本を出したのも、こうした分断への反省と危機感があったからです。

明治政府が近代国家を築くうえで重視したのが国語(共通語)の確立でした。それはある意味で「上級国民と下級国民」のような対立を回避し、国民国家を機能させるための前提条件でもあったはずです。そして、いろいろ問題はあったにせよ、新聞は国語を作り普及させるプラットフォームの役割を果たしました。私自身の反省も込めて言えば、そうした自覚を失い、ほとんど唯一の商売道具である「言葉」に対し鈍感になったことが、新聞凋落のかなり大きな原因の一つではないでしょうか。

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