例の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」の展示中止に伴って、新たな動きが出てきました。34組の参加アーチストたちが、新プロジェクト「ReFreeedom₋Aichi」を立ち上げ、トリエンナーレの枠を超えて、広く「表現の自由」を取り戻すための運動を呼び掛けているとのことです。参加アーチストの一人である小泉明郎氏(映像作家)は言います、「表現の自由は言論の自由に直結している。私たち一人一人が、自分の人生を自分で決める、という自由にも直結しています」と。(詳しくは、https://digital.asahi.com/articles/ASM9B5FGZM9BUCVL026.htmlや、https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d7700bde4b07521023198f9、あるいはhttps://blogos.com/article/404180/をご参照下さい)。
もちろん、「運動」を展開するのは結構なんですが、これまでも様々な「自主規制」を見てきた私の目に、「あいちトリエンナーレで起きていることは、この自由がここで崩壊するのか、それともここでそれを食い止めるのか。その分岐点にあると思っています」という言葉が「大げさ」に映ってしまうことも事実です(実際、今回の問題は「権力による強制的検閲」ではなく、単に世間が彼らを甘やかしてくれなかったということに過ぎません。そうであるなら、「表現の自由」が死ぬだの、死なないだのという話ではないはずです)。
しかし、それにしても気になるのは、アーチストたちが強調する「表現の自由」という言葉の曖昧さです。果たして彼らは、その「表現の自由」という言葉によって、「他人からの干渉をうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている」(I・バーリン「二つの自由概念」1958年)状態を手に入れたいのか、それとも、世間的物差しでは測りきれない「芸術作品」そのものの強度(芸術作品の自律性)を守りたいのか。
前者の「自由」なら、それは「政治的自由」と呼ぶべきものであり、そうである以上、そこには当然、「公共の福祉に反しない限り」(日本国憲法)という「限界」がつき纏います(もちろん、「公共」とは何かという点については、「政治的」議論の余地がありますが)。
他方、後者の「自由」なら、それは「芸術的持続」に関する問題であり、それは作品そのものの「力」において説得すべきものである以上、政治的議論には馴染みません。
しかし、彼らの議論は、いつもその辺りを曖昧にします。いや、それどころか彼らは、「世間的物差しでは測りきれない」という「芸術」の性格を利用して、それを自分に都合のいい「公共」的主張(社会変革、時代の前衛)に繋げようとするのです(その歴史は、ロマン主義から写実主義、印象派の絵画から20世紀のダダイズムやシュールレアリズムなどの前衛芸術までを貫くもので、ほとんど「近代芸術」の伝統芸と言っていいものです)。
しかし、「芸術的自由」とは、本来「政治的自由」とは明確に区別されるべき概念ではなかったか。いや、むしろ「芸術的自由」とは、「宿命感」や「必然感」にこそ関係する人間の体験ではなかったのか。たとえば、人間にとっての「自由」について考え続けたベルグソンは、やはり二つの「自由」を区別して次のように書いていました。
「自由意志を信じている哲学者でさえ、自由を二つないしそれ以上の数の方針のあいだでの単なる『選択』にしてしまっている。まるでそれらの方針があらかじめ描き出された『可能性』であるかのように。〔中略―しかし、本来の自由行為を考えるためには〕つまり、創造性と新しさと予見不可能性をどんな形でもいいから思い浮かべるためには、純粋持続のなかに戻らなければならない。」『思考と動き』原章二訳、〔 〕内引用者
ここで、「二つないしそれ以上の数の方針のあいだ」の「選択」といわれているものの政治的実現、それこそが「表現の自由」を支えている理念にほかなりません。実際、近代このかた、私たちは〈自由意志の可能性=選択肢〉を増やすことを「進歩」と言い換え、その「可能性」の広がりを科学的に、政治的に、経済的に担保しようとしてきたのでした。
が、それは、ベルグソンに言わせれば、たかだか「空間」化された「数の方針」(分割し、数量化し、見ることのできるもの)の拡大でしかありません。つまり、未来の選択肢を〈スナップショット〉のように並べて、その「あらかじめ描き出された『可能性』」を拡大していくこと、それこそが「表現の自由」を支えてきた近代的理念だということです。
しかし、その反対に「時間」のなかで、私たちが実際に感じている「自由」、たとえば、気の合った友人と会話する時間、子供たちと夢中に遊び戯れる時間などは、ベルグソンも言うように分割することも数えることができない。それは、その外部から観察したり、選択したりするものではなくて、ただ、その内部に入って味わうしかないような「純粋持続」の体験なのです。そして、その例としてベルグソンが挙げるのが、音楽や絵画、小説やドラマのなかに入っていく「放心」の体験、つまり「芸術」の体験でした。
しかし、だとすれば、この〈芸術的自由=持続〉とは、直接的には〈政治的自由=分割〉とは関係しないということになる。むろん、一定程度の「政治的自由」が担保されているから、ある芸術作品と出会うことができるのだという理屈は分かります(それが、本来の「政治と芸術」の正しい関係です)。が、だからこそ「政治的自由」は、「芸術的自由」の条件になることはあっても、それが直接に「芸術的自由」の強度を担保することにはならないのだということは、心に留めておくべきでしょう。
そして、さらに注意すべきなのは、その「流れの内部に入って味わう」しかないのが「芸術的自由」なのだとしたら、その「自由」とは、むしろ〈他者との共同性=流れ〉に拘束されることを通してしか現れないという逆説です。「流れ」を「分析」することができない以上、それを捉えるために私たちは、自分たちの無意識に耳を傾けるしかない。そして、無意識に耳を傾けたとき、そこに立ち現れてくるのは、いかようにもしがたい私たちの「生活世界」、つまり、私たちが、そこに根を生やし生きるしかない「大地」からの呼びかけなのです(実際、「芸術」ほどに、その土地に条件づけられている営みもないでしょう。文学で言えば、ドストエフスキーやトルストイはいかにものロシア人であり、ゲーテはドイツ人、プルーストはフランス人であり、鏡花や谷崎、梶井基次郎などの掌編は間違いなく日本人以外には書けません)。
かつて、ハイデガーは、「芸術作品」の本質を論じて、それを「世界と大地との闘争」(『芸術作品の根源』1935年)だと語っていましたが、その「闘争」とは、まさしく「知性」によって明るませられる「世界」のなかに、無意識のなかに暗く閉じた「大地」を開示しようとする際に生じる摩擦や葛藤、その「受苦(パッション)」のあり様を意味しています。
しかし、それは間違っても「政治的自由」を巡る他者との「闘争」ではない。「見えるものと見えないもの」(メルロ・ポンティ)との間にある「闘争」であり、時間(持続的直観)と空間(分析的知性)の間に生じる闘争なのです。何の「選択肢」もなく、今、ここに生れ落ちた己の生を引き受け、やがて、その「大地」から立ち上がってくる自らの直観(衝動=無意識)に形を与え、それを他者と共にある「世界」のなかに打ち立てること。その持続的努力のなかに、あの「あるようにあり、なるようになる」という芸術特有の「必然性(持続)」の感覚が生まれるのであり、その「宿命感」こそが、今、ここに生きて、死んでいくという人々の「宿命」を肯定し、それを医やし、愛しませてきたのではなかったのか。その歴史の積み重ねこそが、私たちに「文化」(culture-cultivate-cult―私たちの心を守り耕す営み)と呼ばれる営みを与え、私たちの「自由」を作り出してきたのではなかったか。
だから、もし、その作品が自らの〈大地―無意識―宿命〉と誠実に向き合う行為によって成り立っているなら、その主題が「慰安婦」だろうが「天皇」だろうが、あるいは、マルセル・デュシャンが扱った「便器」(泉)だろうが構わないのです(私はデュシャンの作品は好きではありませんが)。しかし、それでも、アーチストへの信頼は、彼らが扱う「政治的主題」や、その「社会的発言」によって調達されるものではないということは忘れるべきではないでしょう。それらが導くものが、「政治的自由」に関する議論ではあっても、「芸術的自由」の強度でないことは確かです。もし、その二つの「自由」を混同したところに生まれるものが「アート」(近現代美術)などと呼ばれているものの実態なら、私は一刻も早く、そんな「アート」(近現代美術)からこそ自由になりたいと思います。
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コメント
芸術とは一言で、富の象徴だと思います。それから富の象徴は社会にとって多大に影響を及ぼしますから当然、そこには権力闘争が絡んでくる訳です。ならば、資本主義が体制を占める中、莫大な資本が正当だなんて全く有り得ないはなし。なら芸術は政治を混乱させるだけの代物だから社会上邪魔な存在でしかない。また国際的にも慰安婦は社会通念上当たり前に存在するものです。ならば、我が国だけ慰安婦問題を指摘する国際連合自体、存在する価値はありませんよ!なぜならベトナム戦争のライダイハンやら沖縄に駐留する米国軍属の問題も、突き詰めれば同じ意味合いだからです。ならば、デタラメの国連こそ廃止するべきですよ。
浜崎さんならではの優しさに満ちた論説、感服しました。また、言論誌ならではの、高度かつ懇切な教え、この出来事についての論評で最も共感を覚えるものです。しかし、しかし、大学の講師である貴殿が、大学の教授たち(親玉までカウントすると何人になるのでしょう?)にこれだけ丁寧に教授しなければならない現状こそが、偽り人がはびこる日本の現状を映しているように思えます。
私は、今回の出来事を知るために出会ってしまった、あまりにも
気持ちの悪い動画を視聴して、口直しに福田恒存の「芸術とは何か」を再読し、平常心を保った次第です。また、猛暑から逃げる中で下腹部に少しずつ付きはじめた肉をランニングで徹底的に削ぎ落とす決意を固めました。知ることや学び続けることを
望んでない知識層がいる。だからこそ、本物のウィスキーやブルースは、味わい深いのかもしれません。