【川端祐一郎】巨大システムへの向き合い方――1970年代以後の技術と社会

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

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 6月に発売された佐藤靖氏の『科学技術の現代史』という本を、先日読みました。戦後アメリカの科学技術政策をまとめたものなのですが、なるほどと思ったのは、第二次大戦後1960年代までは、「巨大システム」の形をとる科学技術を国家が総力を挙げて作り上げることが目標となっていたのに対し、70年代以降は、比較的小型で分散的な技術を官民の連携によって発展させることに力が注がれた、という大きな流れがあるという指摘です。

 巨大システムというのは、発電や兵器に用いられる「原子力」、アポロ計画に代表される大掛かりな「宇宙開発(開拓)」、そして当時はかなり大柄な装置であった「コンピュータ」を指しています。これらの技術は国家、特に米国防総省が莫大な予算と膨大な数の人員を投入して開発したもので、しかも無数のパーツを複雑に組み合わせて実現されているので、動作する際には、その全体が芸術的と言っていいほどの美しい協調をみせる必要があります。

 もちろんこれらの技術は、冷戦下におけるソ連との勢力争いを意識して研究・開発されたものでした。しかし60年代末からの米ソ緊張緩和の流れや、ベトナム戦争の失敗からくる軍産複合体への懐疑の目、70年代の景気悪化、環境問題をきっかけとした科学の権威の低下など様々な要因が重なって、潮目が変わり始めます。

 まず、軍事を中心とする国威発揚ではなく、経済的・産業的メリットが優先されるようになりました。また巨大な投資と組織を要する技術よりも、比較的小型で分散的に利用される技術の開発が促進されました。典型的な例は、医療への応用が期待された生命科学や、規格が標準化されたコンピュータです。

 コンピュータの例が分かりやすいと思いますが、昔は個々のコンピュータを独自仕様に近い形で作り込んでいたのが、UNIXというOSの登場などによって標準化が進みました。国家機密として管理されることもなくオープンに使える技術となったことや、大きな全体構造を一度に設計するのではなく、個々の機能をモジュール化した上で組み合わせるようになったのも大きな変化でした。さらに端末はどんどん小型化していって、ついにはパソコンが登場し、コンピュータは個人レベルでも利用できる技術となったわけです。

 私が興味深いと思ったのは、全体をシステマティックに構築・管理するタイプの重厚長大な技術から、小型化・分散化・モジュール化を特徴とするライトな技術への移り変わりというのが、同時期に政治や経済や文化の領域で生じた変化と重なって見えることです。

 60年代後半から80年代にかけて、政治的にはラディカルな個人主義が台頭し、経済においては小さな政府化と市場主義が推し進められ、文化の面では既成の社会秩序からの解放が叫ばれました。これらの「社会」的な変化は一種の時代精神となって「技術」における上述の変化を後押しした、あるいは、両者は一つの社会的潮流がもつ別々の側面だったと言えるのではないでしょうか。

 当時、特に若い世代の間では、エリート役人・政治家・ビジネスマンたちの作り上げてきた官僚主義的な社会システムへの倦怠感や嫌悪感が広がっていました。

 歴史学者のセオドア・ローザックは60年代に出版した『対抗文化(カウンター・カルチャー)の思想』という本の中で、その官僚主義的な社会のあり方を「テクノクラシー」と呼んでいるのですが、それは「産業社会がその組織的完結の頂点をきわめる社会形態」であり、「能率の向上、社会保障の充実、人と資源の大規模な統合、より高水準の豊かさ、より強烈な、集団的なマン・パワーの発揮」が求められるような状況を指すものです。

 そして、科学技術が生活の全面を覆ったことに加え、中央集権的な政府、利潤追求に明け暮れる大企業、個人の自由を束縛する法制度といったものがシステマティックに人間を支配するようになってしまった世の中に対し、息苦しいじゃないかと声を挙げた運動が「カウンター・カルチャー」でした。この運動は、ヒッピーのように頽廃する若者や、自然回帰(脱文明)の試みを生み出しただけではなく、当時のエンジニアや企業家をも刺激していました。

 世界で初めて大衆的に普及したパソコンはアップル社の「Apple II」だったと言われますが、アップルの創業者スティーブ・ジョブズは、IBMのような政府と結託した大企業がコンピューティングの能力を独占しているのは許せないと言い、等身大の個人の力を解放するための武器として「パーソナル・コンピュータ」を製品化したのでした。当時のアップルは、IBMをジョージ・オーウェルの『1984年』に登場する独裁者ビッグブラザーに見立てたCMまで作成しています。

 近代社会のメカニズムに適応することへの疲れから、そういう時代の空気が生まれるのはよく理解できます。また、小型化・分散化・モジュール化を特徴とする技術が花開いたことそれ自体はもちろん悪いことではなく、インターネットやスマートフォンもその一種であるように、大きな利便性をもたらしたことは確かです。しかしそうした潮流には、独特のリスクも付随するように思われます。

 1つは、暴走した場合の制御の難しさです。たとえばインターネットは非常にオープンかつ分散的に利用されるネットワークで、だからこそ全体としては壊れにくく、しかも広く利用されるようになった面があります。しかし同時に、流通する情報の統制は非常に難しく、コンピュータ・ウィルスを始めとする悪意ある攻撃が、いつか大惨事をもたらしたとしても不思議ではありません。

 『科学・技術と社会倫理』という本の中で物理学者の池内了氏が述べているのですが、原子力発電のような巨大システム型技術は、不都合があるなら国家権力やそれに働きかける市民運動によって止めることが可能である一方で、たとえば非常に手軽になった遺伝子改変(ゲノム編集)のような技術は、暴走した場合に制御する手立てがありません。

 「DIYバイオ」などと呼ばれるのですが、今やキットを購入すれば個人が自宅ででも遺伝子改変(ゲノム編集)を行った細胞を生成できるらしく、仮に人間にとって有害な生物を新たに発明してしまうリスクがあったとしても、管理どころか把握のしようもないわけです。

 もう1つ大きな問題だと思うのは、小型化・分散化・モジュール化を志向する中で、「大きなシステムの全体を設計し管理していく」という気概や能力が失われてしまっても良いのだろうか、ということです。これは技術の話に限らず、政治や経済や文化の領域でも同じようなことが言えると思います。

 我々は70年代頃を境に、個人主義的な世界観へ急速にシフトしていきました。しかし、多くの人が合意形成を行って同じ目標の実現に向けて協調するという、集団としての能力や習慣は、文明社会を支える重要な原理の一つであるはずです。そのことがここ50年間ほど真剣に顧みられなかったために、たとえば労働運動のようなものも低調になり、資本や権力を持つ「強者」に過大な自由を与えてきたのではないでしょうか。

 さらに言えば、大きなシステムを創り上げるための民主的な討論や合意形成を怠っている間に、意図せざる形で誰かの経済的利益のためのシステムや、独裁権力のためのシステムに巻き込まれることもあるかも知れません。リチャード・バーブルックらが『カリフォルニアン・イデオロギー』という論文で描いたのは、既成のシステムからの解放を目指したアメリカ西海岸のエンジニアたちが、いつの間にやら新自由主義的なマネーのシステムに飲み込まれていくという皮肉な歴史でした。以前のメルマガで紹介した「排除型社会」というものも、「システムからの逃避」が「システムの支配」を招いてしまう顛末の一つであると言えます。

 1970年前後に先進国の人びとが、人知を超えた巨大技術への警戒や、官僚主義的で窮屈な社会への倦怠を訴えたのは、概ね正しい感覚であったと私は思います。ただその後、社会を全体として快適なものに作り変える努力よりも、むしろ「全体」というものからの逃避をいかにして可能にするかという方向に進んだわけで、それが何ら有意義なものを生み出さなかったとは言いませんが、少なくとも一面的ではありました。

 分散化を志向するイデオロギーは今も生きていて、たとえば「DIYバイオ」を世に送り出したのは、リバタリアン(あるいは無政府主義)的なイデオロギーから反権力・反官僚主義を唱えるエンジニアです。「遺伝子編集の技術を個人の手に!」というわけですね。仮想通貨ビットコインの基盤となっている「ブロックチェーン」という技術も、反権威主義的なイデオロギーを持つエンジニアが、「政府や大企業の管理を受けずに、純粋な個人間の取引を実現する」ことを目的に提案したものです。

 戦後の技術史と社会史を並行して眺めることで気づかされるのは、1970年頃に「過剰な近代性」によって生活空間が塗りつぶされてしまうことに対する危機感を覚えた人類が、それから50年経っても、近代性への上手な向き合い方を身につけることができていないのではないかということです。

 この課題には、解決策があるのでしょうか。あるとすればそれは、技術や制度のように分かりやすいものではなく、各国の国民が過去の歴史を振り返りながら何十年かかけてようやく身につけられるような、ある種の「文化」や「生活様式」のようなものではないか、と私はひとまず思っています。

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コメント

  1. 学問に目覚めた中年。 より:

    巨大システムの総本山は皆さんご存じの米国サンフランシスコのシリコンバレーです。それから見えるものとは、インテリ連中が幅をきかせる家畜以下の出鱈目な学力、学歴社会の弊害なんです。なぜなら人びとの一生とは厳密には、差ほど変わらないからです。それはインテリの大半は就職までに絶頂期を迎え、その後は下火の人生を送るからです。それから観れば、財務省とその関係者も例外なくその後の活躍は当然期待出来ないのが実態ですから、彼らにはなんの説得力もないのは自明の事となります。それでも正当に見せかけ正義面する財務省やら与党の図ぬ乗る横行は許し難い存在でしかありません。だから酷い仕打ちは許さない。

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