『表現者criterion』メールマガジン

【川端祐一郎】日本も「排除型社会」に向かうのか?

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

施光恒さんの先週のメルマガで「デジタル権威主義」というものが論じられていて、興味深く読みました。
【施光恒】デジタル権威主義に覆われる世界?

権威主義的な国々(要するに自由民主主義的ではない国々)で、最新のデジタルテクノロジーを活用した国民の監視が進んでいるという話なのですが、これを読んで思い出したのが、90年代末にジョック・ヤングというイギリスの犯罪社会学者が書いた『排除型社会』という本です。私は邦訳が出た2007年頃に読んだのですが、この本はむしろ、自由民主主義社会がそういう抑圧的な管理社会に至るという道筋を論じているんですよね。

ヤングは、第二次産業中心の高度成長が終焉した1970年代以降の先進国経済のあり方を、「ポスト・フォーディズム」と呼びます。ポスト・フォーディズムの下では、個々人の持っている趣味や嗜好の「差異」を表現したり刺激したりする商品やサービスが好まれるようになっていきました。いわゆる「消費社会」ってやつですね。単調な大量生産では通用しなくなり、しかも「今までとは違う」という意味での差異も重要な消費の対象になるので、生活スタイルは急速に変化していきます。

その土台にあるのは「多元主義」という価値観で、人々の間にある差異はとにかくまず肯定すべきものである、とされている。もちろん画一主義は息苦しいですから、多元主義にも良いところはあるのですが、それが行きすぎると人々の間にあった共通のアイデンティティというものが失われ、人々はかえって「不安」に苛まれるようになる。

しかもやっかいなことに、多元主義は簡単に「本質主義」に陥るのだとヤングは言います。本質主義というのは分かりにくい用語ですが、ある人が持っている価値観やアイデンティティというのはその人の「本質」であって、永久に変わることがないという捉え方のことです。変わることがないとされるので、価値観が異なる人の間では、「私は私、あなたはあなた」という分断が生じます。

たとえば体育会系の人とオタクの人が、「オタクが家から出てスポーツに目覚めることは絶対にない」「体育会系が何かの知識を深めることに喜びを感じることも絶対にない」と決めつけて、永遠に分かり合うことなく、互いを憎んで偏見を持ち続けるみたいなイメージですね。お互いの間にある違いは「自然なもの」とみなされ、自分と他者の境界線上では「警戒心だけが交換される」とヤングは言います。

上に述べたのは「消費」の面で生じる人々のあいだの分断ですが、生産者、つまり働く者としての人々のあいだでも、分断が深まってくるとヤングは言います。ポスト・フォーディズムの時代においては、昔のように強い労働組合もないし、ひたすら市場原理が社会全体を覆っていくので、結果として労働者のあいだの経済的格差は大きくなっていきます。この格差がもたらす「剥奪感」は、犯罪の増加等も伴いつつ、不安定な社会をもたらすことになります。

そこで登場するのが「保険統計主義」だというのが、ヤングの主張です。これは何かというと、社会秩序にとって脅威になりそうな人々を、統計的推測に基づいて社会の中心からあらかじめ排除しておけばよいという考え方です。「貧乏人は犯罪率が高い」といった統計的傾向に基づいて、実際に罪を犯すかどうかに関係なくレッテルを貼り、「犯罪者予備軍」として管理するような考え方です。

ヤングが述べている例ではないのですが、分かりやすく言うと、たとえばAmazonでの購入履歴データから過激な政治運動に関心を持っていそうな人が浮かび上がってくるとします。あるいは、性犯罪者と似たような消費傾向があることが分かるとします。そういうデータを活用して、ヤバそうな人物は大学入試で落とし、就職試験でも落とし、保険の審査でも落とすみたいなことを通じて、生活圏から排除していくわけです。しかも、その推測には間違いが付きもので、不当に排除される人も出てくるのですが、全体としてリスクは減るのだから構わない、と割り切ります。

ヤバそうな奴やヤバい奴は昔からたくさんいるわけですが、昔の社会では、そういう奴らを教育や刑罰を通じて変容させ、なんとかして社会に統合しようとしていた。それを「包摂型社会」とヤングは呼びます。その包摂を「抑圧的だ」と嫌がって多元主義化を進めてきた現代の社会では、文化的にも経済的にも分断が進んでいて、統合しようにも「共通の価値観」が希薄になっているので、どこへ統合すれば良いのか分かりません。

それで、ややこしい奴は隔離してしまえばよいという「排除型社会」になるわけです。しかも、価値観の違う者同士が「分かり合う」という可能性に期待を持つことがなくなっていて、お互いのあいだでは不安と警戒心だけが交換されているので、推測に基づいてあらかじめ敵になりそうな奴を排除しておこうという力が働く。そこで、データ分析に基づくリスク管理が幅を利かせることにもなる。

この本を読んだ当時、これは大量の移民が居たり、スラム街が存在したり、カネ持ちが住宅街を壁で囲んで防衛するというようなこと(ゲーテッド・コミュニティと言います)が行われている欧米社会を分析したものであって、日本にはあまり当てはまらないような気がしていました。しかし考えてみると日本は欧米に比べて変化が遅れているだけかもしれません。今週発売された『表現者クライテリオン』最新号で特集しているように新自由主義が依然として猛威を奮っていて、新自由主義はポスト・フォーディズムの価値観そのものです。

施さんのメルマガでは、「欧米、あるいは日本も、今のままではデジタル権威主義に陥る可能性は決して少なくない」と言われており、私もそういう懸念を持つべきだと思います。欧米や日本のように早めに近代化を遂げた国は、自由民主主義体制の国が多いわけですが、この自由民主主義というのは、施さんが言われるように、じつは「文化や伝統、生活習慣、言語といったものの緩やかな共有から生じる自然な連帯意識や道徳観、信頼感に依拠するところが多い政治体制」なわけです。

ヤングが述べる「ポスト・フォーディズム」のような傾向は日本でも確実に強まっていて、「包摂」の原理は希薄化していると思います。ヤングは左派なので共同体の歴史や伝統のようなものを擁護することができず、上述のような問題に対する解決策は「能力主義」と「アイデンティティの脱構築」だとかいうトンチンカンなことを言っているのですが、「包摂型社会」に必要なのは恐らく、結局のところナショナリティに基づく社会運営です。

中国などの権威主義国家では、家族や部族を超えたナショナルな価値観が広く共有されているわけではなく、また人々の文化的価値観を政治的決定につなげる回路も強くはないため、市場経済とテクノロジーの進展が、簡単に「排除型社会」をもたらすのでしょう。そしてそれは権威主義国家だけの問題ではなく、日本のようにナショナリティの希薄化が進む自由民主主義国においても、今後重要な課題になる可能性があるはずです。

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