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【浜崎洋介】平成文化と「クールジャパン」の虚妄

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

コメント : 4件

こんにちは、浜崎洋介です。
 
前々回は平成政治の「空虚さ」について、前回は近衛文麿政権の「空虚さ」について述べました。が、「空虚」なのは、なにも政治に限ったことではない。それどころか、それらの政治的空虚は、まさに私たちの文化的空虚と共に生み出されたものでした。
 
それを象徴しているのが、おそらく、「政治改革」がはじまるのと同じ90年代から人口に膾炙しはじめる「サブカル」という言葉であり、また、それを受けて造語された「クールジャパン」という言葉でしょう。今回のメルマガでは、丁度一か月前に出演した討論番組―「クールジャパンの空虚と日本文化の現在」(https://www.youtube.com/watch?v=DmYs2K5pe8Q&feature=emb_logo)での議論を要約しながら、改めて平成日本の文化状況について考えてみたいと思います。
 
 ただし、最初に断っておきたいのは、私自身は、アニメ・マンガを見て育った世代であり(未だに見てますが…笑)、「サブカル」それ自体を批判する意図は全くないということです。ただし、それでも、「サブカル」という言葉が「持て囃されてきた文脈」に対しては、やはり違和感を禁じ得ない。というのも、「サブカル」を評価する文脈が、常に「世界で市場を獲得し得たかどうか」という文脈、つまり、「外国人」と「市場」にあるからにほかなりません。
 
 では、なぜ一部の「サブカル」は、90年代以降に世界市場を獲得しはじめるのか。それは、おそらく「サブカルチャア」と「サブカル」の違いにヒントがあります。
 
 劇作家・演出家の宮沢章夫氏によれば、「サブカルチャア」という言葉が初めて登場したのは、1968年2月号の『美術手帖』のなかで金坂健二氏(写真家、映像作家、批評家)が「惑溺へのいざない―キャンプとヒッピー・サブカルチュア」という文章を書いた時だとのことです(1)。が、その時代と題名から推測できる通り、そこで言われた「サブカルチュア」という言葉は、「都市化と工業化がほとんど飽和点に達して」以後に現れ始めたヒッピー文化や、ニューエイジ文化、あるいは、ポストモダニズムとも関係した言葉でした。つまり、当時の「サブカルチュア」という言葉は、「反文明(後文明)」という回路を通じて、「カウンターカルチュア」とも繋がりをもっていた言葉だったということです。
 
 では、「カウンターカルチュア」とは何なのか。それは、ヨーロッパ経由で齎された「上位文化」(中心)に対して、それ以外の国の「下位文化」(周縁)からの異議申し立ての延長線上に現れてきた文化だと言えます。たとえば、黒人から発したジャズやブルース、あるいは、白人の下層階級に発したロックやパンク、また日本で言えば、「アングラ演劇」なども「カウンターカルチャア」のうちの一つに数えていいでしょう。ということは、「カウンターカルチュア」とも繋がりのある「サブカルチュア」という言葉の中にも、「土着性」や「階級性」の響きが残っていたということであり、それにゆえに、80年代までの「サブカルチュア」のなかには、それ固有の「アウラ」が孕み込まれていたのだということです。
 
 しかし、「サブカルチュア」が「サブカル」と略されはじめる90年代、いよいよ、その「アウラ」が霧散していくことになる。たとえば、その現象を、社会学者の宮台真司氏は、「日本的なサブカルチュアによる社会的文脈の無関連化」(フラット化)と呼んでいますが(2)、要するに「サブカル」とは、80年代までの「サブカルチュア」が、日本固有の文脈(一つの対抗性)を失って、いつでも誰でも消費できるようなもの――取り換え可能な商品――と化していったときに登場してきた言葉だということです。
 
 たとえば、それは文学を例にとると分かりやすい。日本固有の文脈を担っていた大岡昇平の戦争文学や、安岡章太郎の私小説、あるいは中上健次の紀州サーガなどが、世界市場で売れるということは考えにくい。が、後に「J文学」などと持て囃されることになる村上春樹以降の日本文学は、次第に世界市場を獲得していくことになるのです。そして、この「文学のサブカル化」は、まさしく、日本人の「生活世界」が空洞化し、目の前の「現実」がフラットになっていく90年代以降のグローバリズム現象と軌を一にしていたのでした。
 
 こうして2000年代、「サブカル」という言葉の延長線上に、いよいよ「クールジャパン」という言葉が登場してくるのです。が、その言葉の由来は、もちろん「日本人」ではなく「外国人」でした。それは、たった三ヵ月だけ日本に滞在した外国人ジャーナリスト=ダグラス・マッグレイの書いた論文「ナショナル・クールという新たな国力―世界を闊歩する日本のカッコよさ」(『中央公論』2003年5月/Japan’s Gross National Cool,2002)に由来する言葉だと言われますが(3)、たとえば、そのなかには次のような一節があります。
 
「三宅一生のガウンのように、世界に広まる『日本』は、時には純粋である。しかし、クリームチーズをサーモンで挟んだスシのように、そうでない場合もある。しかし、文化的に正しいかどうかは問題ではない。肝心なのはジャパニーズ・クール(日本的カッコよさ)の香りだ」(神谷京子訳)
 
 けれども、「文化的に正しいかどうかは問題ではない」のだとすれば、どうやって「日本的カッコよさ」を判断すればいいと言うのか。なるほど、マッグレイが称揚する対象を見れば、だいたいの推測はつく。マッグレイは、「政治、経済上の落ち込み」に比して「衰えを知らない」ように見えるマンガ、アニメなどの「日本のグローバルな文化勢力」、それこそが「ジャパニーズ・クール」だというのです。が、それなら「クールジャパン」なる掛け声の裏には〝製造業がダメなら、文化で金儲け〝とでもいうような、安易かつ軽薄な文化観があると言うことになりはしないか。実際、その後に政府が作った「クールジャパン室」(2010年)なるものは、文化庁ではなく、経産省のなかに設置されていたのでした。
 
 しかし、だとすれば、「クールジャパン」という言葉自体は、「日本的なものが世界に受け入れられた(売れた)結果」を指した言葉ではなく、「世界に受け入れられた(売れた)ものこそが日本的なものだ」という倒錯をこそ意味しているということになります。
 
 事実、現在、「クールジャパン」の名で呼ばれているものは、映画、音楽、漫画、アニメ、ドラマ、ゲーム、食文化、ファッション、現代アート、建築、武道、日本料理、茶道、華道、日本舞踊、自動車、オートバイ、電気機器などの日本製品などに及び、そこに何か統一的なコンセプトを見出すことはできません。つまり、それが「正しい日本文化」でなくても、あるいは、それを発信しているのが「日本人」でなくても、「儲かる文化表象は全てクールジャパン」なのです。それは、まるで「日本」そのものが「空虚な器」となってしまったがゆえに、そこにはどんな「まがいもの」(キッチュなもの)でも入るとでも言うように。
 
 果たして、2012年、いよいよ安倍政権は「クールジャパン戦略担当大臣」を置き、「クールジャパン」の合言葉は、経産省を超えて、各省庁で口にされるようになっていきます。が、それは言い換えれば、「日本」が、その固有の文脈(アウラ)を失って、完全に「空虚」に飲まれてしまったことを意味しています。そして人々は、今、そんな「空虚さ」に見とれながら、「日本はクールだ!」とナルシスティックに叫び始めているというわけです。「大衆社会(ニヒリズム)のおぞましさ、ここに極まれり」と言うべきでしょうか。
 
(1) 宮沢章夫『ニッポン戦後サブカルチャー史』NHK出版
(2) 宮台真司「一九九二年以降の日本のサブカルチャー史における意味論の変遷」(『日本的想像力の未来―クール・ジャパノロジーの可能性』NHKブックス所収)
(3) 三原龍太郎『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか―「熱狂」と「冷笑」を超えて』中公新書ラクレ
※その他、マッグレイ論文の翻訳を含む『中央公論』(二〇〇三年五月号)の「特集・日本文化立国論」を参照させていただきました。著者の皆様には感謝も申し上げます。
 
 
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コメント

  1. 斑存・不苦労 より:

    >文化庁ではなく、経産省

     そう言えばそうだったんですね。再度読んでいて改めて・・・云々かんぬん。
    商売根性魂・・・だったんですね。だから売buyアベノミックス?。(やっぱりメイン・カルチャーとして佐藤氏が売れてしまうのはまずい?)
    個人的に前々から甘利(この大臣のせいで誤字が身に付きました)好きではなかったのが(まぁ掛かってても食べますが)、たこ焼きのマヨネーズ掛けです。やっぱり醤油味に青海苔だと思います。しかし歯にくっついた青海苔を見てしまったらクール、かっこよくはありません。やっぱり日本的なモノにはかっこよさは・・・。

     頭に連想されたことだけで誹謗するわけでも麗賛するわけでもなく何の脈略もない思っただけの無駄話です。失礼しました。

  2. 明紘 より:

    いつも読ませていただいております。
    今日は、浜崎先生に一つ質問があるのですが
    最近よく耳にする「老害」という言葉についてです。
    私は、今年で30になる自営業の者ですが、この言葉に対してかなり強い嫌悪を抱いております。
    まず、私も年をとったということもあるとおもわれますが(笑)何か、最近の人、特に21世紀に入ってからからの人は、成熟することを拒絶しているような気がしてなりません。一切の根拠もないのですが、私は、肌でそう感じております。
    この「老害」という言葉も上記の文脈からでてきた
    とおもわれます。人格は人の批判に晒されて成熟せるのに、その批判を避け、SNSという子宮のなかで戯れる。そんな甘ったれた時代に生きる現代人が年を重ねて老いた人、自分たちに警鐘を鳴らしてくれる存在に対して、「老害」などというのは、かなり歪んだことだと思われます。
    確かに、ただ年をとっただけの人間が多いことも承知しておりますが、やはり年配の方とお話しんしておりますと、「生活の知恵」を身に付けられている方もかなり見受けられます。
    長くなりましたが、浜崎先生は、この「老害」という言葉についてどう感じておられますか?

  3. 学問に目覚めた中年。 より:

    クールジャパンの根本は腐敗している国際政治の存在があるわけです。それから、政治の方策は本来、無限にあるわけですが、それに、わざと踏み込まない卑劣で卑怯の財務省とその関係者を中心としたインテリ連中。また、こんにちの政治の実態も結果的には、与野党の見事なまでの合作でしかありませんから、それは実質、平成ではなく、既に昭和の三島事件で我が国のインテリ連中の堕落した劣化が克明に証明されている訳です。となれば我が国の総理大臣は長くやるべきではありませんよ。なぜならコレが腐敗して人災になるからですね。それを昭和の常識ある良識派たちは、歯がゆい思いで見つめていた筈です。つまり平成は昭和の恥ずべき成れの果てでしかありませんでした。

  4. 令和の時代は平成の時代からの転換を より:

    >しかし、だとすれば、「クールジャパン」という言葉自体は、「日本的なものが世界に受け入れられた(売れた)結果」を指した言葉ではなく、「世界に受け入れられた(売れた)ものこそが日本的なものだ」という倒錯をこそ意味しているということになります

    nhk bs1でcool japanという番組があるんですが 正にそれをやってます(苦笑)
    自分ははじめこの番組のコンセプトは日本の固有な文化とか日本人の感性をいかに
    外国人に分かってもらうか説明するのかって思ってたんですが、外国人にいかに受けるか外国人に売れるかがcool japanになるそうです(苦笑)

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