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【平坂純一】人生の平行棒としての煙草 〜精神的健康増進法〜

From 平坂純一(雑文家) 

「煙草をやめるのは、意志の弱い人間だ」(立川談志)
「煙草は人生の句読点」(野坂昭如)、

 天変地異、IR事件、コロナウイルス、そして経済不況…もはや半笑いで「東京五輪」と発話するしかありません。それに関連して、今春から健康増進法と東京都受動喫煙防止条例が足並み揃えて「改正」されます。

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kensui/tokyo/file/300719_joureisetumei.pdf

 国と都内の基準は異なります。原則として屋内禁煙を謳う一方、喫煙室の設置が緩和措置として取られます。コーヒーを飲みながら煙草も吸えないとは?電子タバコとの合理的な差異とは?など、私含む愛煙家の気分を逆撫でせんでもないです。ただ、今回のメルマガ「どうせ、嫌煙ファッショに対するアンチ回でしょう?」と思われては困ります。クラブやバーなど喫煙を主たる目的とする+主食を提供しないこと、これらをクリアすれば今まで通りであり、悲観していません。ハリボテのようなつまらないチェーンの飲食店に立ち寄らなければいいだけのですから、泰然とすべきです。

http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html

 これは厚生労働省発表の成人喫煙率の推移です。左端の「20代の男性」の列だけをご覧になって欲しい。昭和後半80%から現在23%を示します。ただ、10年前は40%も保っていたのは私の体感と合致するところで、その後の神奈川県の受動喫煙防止条例(2010年)や、電子タバコの流通化が萎縮効果を生んだとも読み取れます。ただ、私はこの平成最後の10年は、文化や社会の20世紀的な男性性、ひいては現実で人と集うことへの期待が薄れた時代だと看做します。その流れに抗うのは煙草問題に限らないのですから。

 ここで一つ、拝読頂きたい文章があります。『愛煙家通信』の西部邁『煙草は死んでも指先から離すな』
http://aienka.sakura.ne.jp/articles/007/

 この宣言的な文章で際立つのは、師の他者性だと感じます。この世の迷惑の根源をすべて喫煙者に押し付けることに憤りつつも、喫煙者のマナーもまた問題ありと自己批判する。この非喫煙者とのコミュニケーションのズレに敏感であるべきで、師が重要としたヒューマン・オーガニゼーションが喫煙者の内に消えたことが挙げられます。

 たとえば会社の喫煙所で、部長を輪に囲んで笑い声が絶えない情景があったとしたら。上役と少しでも砕けた会話ができる新人の青年、取っ付きづらい秘書の女性も加わり煙草を楽しむ…これらが灰皿周辺の普遍的な景色でありさえすれば、人数は少数派であっても精神的には高踏派であり、おいそれ絶滅させられることはなかった。むしろ、この10年で喫煙所はマスマンのスマホいじり場になっています。「喫煙者の数が少ないから偉い」では、リベラル運動と変わりなくなります。

 また「別冊 愛煙家通信」の中で師はこんな発言もされています。

「社交の場でまあまあ面白い話をできる人がいたとしたら、おおむね、少々本を読んでいて、少々酒を嗜んで、たばこは少々でも相当でもいいんですが、ちゃんとのむ。そういう人達の会話のグレードが高いんですよ(中略)たばこをのまない連中の社交を見ていると、じつに言葉が少ないし、些末なパターン化された紋切り型の話しかしていない。ヒューマニズムの見地から、たばこをのまない社交が増えることはくだらない国家になりますので、やっぱり喫煙家が国家には必要なんですよ」

 約10年前に「タバコミュニケーション」なるつまらない流行語がありました。今は禁句でしょうし意味的には重要ともいえますが、社交を舐め始めた時期とも言えます。人は声を出して話す契機が減れば減るほど下手になる。経験が蓄積されねば時代と社会は痩せこけます(おそらく、この気分は団塊Jr.以下の世代でなければ共有不能でしょう)。私はむしろ飲酒制限法を制定して、下品な会話と笑い声で安酒に気炎上げる会社員の酒飲みの排除が先に思えます。

 5年ほど前、フランスの地方の路地裏で煙草吸っていたら、品のいいおばあさんが歩いてきました。かの国は路上喫煙が公然と許されており、またカフェには必ずテラスと灰皿があります(日本のチェーン店にそんな了見は無い)。おばあさんに煙がかからぬよう、種火を持ち上げると通りすがり際に「メルシー」と返ってくる。この程度の感情の交換すらスマホ睨みの絶縁体・現代日本人とは困難ですから、その代表者があの首相なのは自明の理です。

 また、こんな発言もされています。

「人間だけがたぶん、煙草を吸うんでしょう、お酒もそうですね。人間はどこかおかしくて、芸術だとか、宗教だとか、いろんなことをやっている。これ自体、人間の精神活動は肉体面での健康から見たら完全に余計なことなんですよ(中略)本当の健康なんていうのは、人間でなくなってしまうんだ、ということがわからなくなってしまったのではないでしょうか」

 ネットによって内在的な空間が広がれば、ラ・ロシュフコー「死と太陽は直視できない」問題です。いわば、機能的に生きてなるだけ死を見つめずブルーライトで目を痛めながらテクノロジーの画面を見ていれば、この問題を回避できる芸術や宗教は深く肉体と実存に依拠しており、それらを酷使してでも生きる価値が見出せなければ、煙草でテンションを上げる必要もなく、男性ホルモンも減少する。デフレ社会への過剰適応とも、スタバとMac的グローバル人間化とも言えるでしょう。

 歴史を少し紐解けば、コロンブス経由でヨーロッパに煙草が受容される16世紀、案外とカトリックは煙草に寛容でした。啓蒙主義以前の人々は理性的でなく、むしろ庶民は麦角に含まれるアルカロイドや不純物の混ざった食品、あるいは神秘思想や魔術など、向精神性のある幻覚体験に対しての希求があったらしい。理性一辺倒の禁煙主義はむしろ無意識のピューリタン化と揶揄されるべきでしょう。

 総じて、禁煙化は新自由主義的人間観の賜物です。人に迷惑をかけなければ何をやってもいい、そんな観念の上滑りが人の迷惑です。人と人は迷惑の掛け合いであり公私が混同するのが人間関係だとすれば、個人の嗜好が他者を害することが前提でなければ、集団など形成しえません。

 私の場合、実家が美容院なもので、ヤニ臭い男が出入りしては母親への営業妨害、上京するまで大して吸ったことがありませんでした。周囲の環境と人に対しての慮りがあれば禁煙や節煙は可能です。迷惑だと思うなら吸う者も吸わない者も、その場で何か言うべきです。その程度のことがここまで禁煙ブーム化したそもそもの原因ではないのでしょうか。

 時折、ゆらめく紫煙の先に死者がいて、そして自分もまた煙になることを思うことがあります。コロンブスが煙草の葉を「発見」する以前から、南アメリカの原住民は精霊との交信に煙草を用いたそうです。それと同じで、敬愛する死者とギスギスした現実を相対化してくれる意味での「人生の平行棒」として、私にも煙草がある。そして、いくら制度や人心が変容しようとも、私が手に煙草をとって火を付ける現実になんらの変化もありはしません。なので禁煙ブームも「どうぞ、ご勝手に」と構えるようにしています。

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