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【川端祐一郎】人文学的教養とは何なのか?

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

シリコンバレーのベンチャーキャピタリストが何年か前に書いた、『FUZZY-TECHIE』(ファジーとテッキー)という本があるのですが、副題に「リベラルアーツがデジタル世界を支配するのはなぜか」とあるように、ITを始めとするハイテク産業において、文系の人材や教養がいかに重要な役割を果たしているかを論じたものです。

「ファジー」はもともと曖昧という意味ですが、アメリカの一部の界隈では「文系」を指す言葉として使われているそうです。理系の人からみると、客観的に定式化できない、モヤモヤっとした雰囲気のようなものを扱っているように見えるからでしょう。一方「テッキー」というのは、テクノロジーに直結するような、いわゆるSTEM(Science, Technology, Engineering & Mathematicsの略)教育を受けた「理系」の人びとを指す言葉です。

本書で事例がたくさん紹介されているのですが、ITやインターネット関連の有名企業――といってもこのメルマガの読者にはあまり馴染みがないかも知れませんが――の経営者には、文系出身者が意外と多い。

LinkedInの創業者は哲学の修士号を持ち、PayPalの創業者が大学で学んだのは哲学と法律で、Pinterestの創業者は政治学、AirBnBの創業者は美術、Salesforceの創業者は英文学、Slackの創業者も哲学を修めている。ヒューレット・パッカードには中世史と哲学を専攻したCEOがいたし、YouTubeのCEOは歴史と文学を専攻していた。アリババ創業者のジャック・マー氏も、学生時代の専門は英文学。アップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏が学生時代に魅せられたのは、カリグラフィ(書体のデザイン)の授業でした。

しかも彼らは成功要因として、自分たちの学んできた「文系」の知識を挙げることが少なくない。人間や社会が何を求め、何を嫌うのかに関する人文社会科学的な洞察がなければ、売れる製品は開発できないし、健全な組織も作れないということです。本書で紹介されている例では、米軍のデータ分析チームでも文系の人材が活躍していて、ビッグデータ解析に人間的な直観をうまく取り入れることで高い成果が挙がっているらしい。

また、著者は「テクノロジーの民主化」と呼んでいるのですが、データ解析、アプリ開発、装置の製造などを支援するツールがどんどん充実してきたことも、この傾向を後押ししているようです。高度なテクノロジーを利用するためのハードルが下がっているので、中途半端に技術力があることよりもむしろ、人間や社会の性質を深く理解する文系的なセンスが、ビジネス(や軍事)上の優位性をもたらすのだというわけです。

そのせいか、最近はシリコンバレーの著名な企業に勤める人たちの間で、子どもを「ウォルドルフ・スクール」(Waldorf School)と呼ばれる学校に通わせるのが流行っているらしい。日本では「シュタイナー教育」と呼ばれていますが、子どもたちをテクノロジーから遠ざけ、身体を動かすこと、自然に触れること、社会性を身につけること、芸術を味わうことなどを重視した教育方針をとる学校です。

さて、こういう話は知っておく分には面白いのですが、議論のあり方に違和感を覚えるところもあります。「教養」というのはたしかに文理を問わずどんな専門分野においても必要とされるはずですし、文系学問の素養がハイテクを駆使するビジネスの世界で案外役に立っているというのも、おそらく本当なのでしょう。しかし、そうやってビジネスに引き寄せた語りの中では、人文学的教養というものの意義が矮小化されてしまうようにも思えます。

「文系的な教養は役に立つのか」という議論が繰り返されるたびに気になるのですが、教養というのは、べつに産業や技術に役立てるためにあるわけでもありません。役に立つのは事実でしょうし、たいていの場合それは良いことでもあると思いますが、それとは別に、文学や哲学や歴史を学ぶとはそもそもどういうことなのかを考えておく必要があります。

文系の学問の中でも、「社会科学」というのは、人間や社会を「外側から説明する」ような知のあり方だと言えるでしょう。それに対して人文学というのは、人間や社会を「内側から経験する」ような営みだと私は思っています。哲学書や文学作品を読んで何かを考えるのは、人間の習性を把握して何かに利用したいからではなくて、読んだり考えたりする行為それ自体が、我々にとって、「生きる」という経験の重要な一部になるからです。

社会科学の研究にも人文学的な側面がありますし、人文学の研究とされるものも社会科学的な体裁を取っていることは多いので、一つ一つの研究や文献を、どちらかにはっきりと分類できるわけでもありません。しかし、二つの異なる方向性を区別しておくことは有益です。私は、社会科学であれ自然科学であれ、その成果を人文学的に解釈したときに「教養」になると考えるのがいいと思います。

山や川で遊んだ経験は、「自然」がどんなものであるかに関する我々の信念の一部になっているでしょう。あるいは海外旅行で見聞した物事は、「世界」についての我々の理解の一部を形作っているはずです。これらは、「それを知っているから何かができる」という類いの手段的な知識ではありません。かといって、それ自体が人生の目的かというと、そうも言えない。これらはむしろ、我々の「生の空間」そのものを広げる材料であって、その広げられた空間の中では、目的も手段もともに増えるのです。

人文学を通じて得られるのも同様に、「生の空間の広さ」です。広がることで幸せになるのか不幸になるのか、快適になるのか不快になるのかは分かりません。それは、人間が猫よりも幸せだと言えるのかどうかが分からないのと同じです。たいていの猫は人間よりも幸せそうに見えますが、それでも「猫に生まれ変わりたいかと言われれば、やはりもう一度人間として生きてみたい」と思う人が恐らく多いように、ともかく人類は、生の空間の広がりを一種の「豊かさ」であると捉えてきました。

人間や社会について考えることで、自分の生き抜くべき空間を広げてゆく努力の過程。それが人文学だと私は思うのですが、その意味では、いわゆる「人文書」を読もうが読むまいが、誰もが自分なりの人文学をもって生きているのだとも言えます。ただし、人文書を読むことには、テントの内側に張られる骨格のように、空間を飛躍的に広げたり安定させたりする力があります。

ところで、「生の空間」は自分一人だけのものではありません。一人ひとりがそれぞれ、社会や世界というものについて異なるイメージを持って生きてはいますが、そのイメージは社会的なコミュニケーションの中で形成されるので、共有部分もあるわけです。だとすると、人文学的教養によって生の空間を広げる努力というのは、それ自体が社会に対する貢献でもあり、またある意味では、社会の一員としての義務でもあると言えるでしょう。みんなの空間なので、みんなで広げておこうという話です。

教養やリベラルアーツ教育の話になると、どうしても「何かの役に立つ/立たない」という議論に流れてしまうものですが、まず「役に立たない」説が間違いであることは、冒頭のIT産業の例をみれば分かります。しかし、結果的に役立ってしまうことが多いからといって、「役に立つ」ことが目的であるかのように論じたのでは教養の意義を見誤ってしまう。また逆に、「役に立たなくても良い」とわざわざ開き直るのも、それはそれでおかしな話です。

教養は目的でも手段でもなく、目的や手段を持った種々の活動が生起する「場」あるいは「空間」の広さや充実度や安定性のことであると捉えておけば、混乱がなくなるのではないでしょうか。

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コメント

  1. 映画マニア より:

     メールマガジン、いつも拝読しております。
    Technologyの進歩に伴い、若い世代はIT技術を身に着けることや、TOEICの資格に躍起になっている様子。確かに必要なことではあるとは思いますが、それ以上に社会を一歩ひいたところから眺める視点であったり、人間の人生とは何ぞや?と考えたり、美を求める心を養ったり。この経験が人間にとっては必要なのではないかと、最近考えています。例えば20歳の時に夏目漱石を読んで当時は腑に落ちなかった点が、歳を重ねると解るようになったり、福田恆存の「人間この劇的なるもの」を読み返して、新しい発見があったり。
    シェイクスピアの演劇やMonetの絵画を観て感動を覚えたり。確かに役に立つかと云われれば、返答に辟易しますが、藝術作品を観るのは、その藝術作品が言葉に表し難い何かを含んでいるからです。
    小林秀雄が、「美を求める心」を書いたのは、今の教育の在り方に疑問を付す為ではなかったのではないでしょうか。

  2. リグス より:

    そういえば現代では死語かと思いますが、昔は「教養が邪魔をする」って言い方がありました。これは何か自分が道を外れるような事をしそうになったり、言いそうになったりした時、「俺は教養があるから、そんな事はしない、言わない」となるわけです。

    この意味での教養は自分の生き方の指標でもあります。が反面「あいつは教養が無い」など侮蔑的な使い方もありました。今ではこれも死語ですね。

    バカロレアなどでは何を学んだかではなく、学んだものをどう活かせるか、他者にわかるよう説明できるかが焦点になるようです。さて教養という言葉は現代でも活かされているのでしょうか?そして、この言葉自身が今後も続いていくのでしょうか。

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