先日編集部で、カミュの小説『ペスト』に関する座談会を行いました。雑誌の『表現者クライテリオン』に載るのは来月ですが、「表現者塾」の塾生の方には、近日中に動画で公開します。(入塾はこちらから)
『ペスト』についての詳しい論評は座談会のほうに譲るとして、この作品中でペストと格闘する人物たちと、いま新型コロナを目の当たりにして大騒ぎしている人々の姿を比較して、痛感したことがあります。それは、我々現代人が、「政策」はいくらでも語ることができる一方で、「人間」に関する論争ができなくなってしまっているということです。あるいは、政策論から人間論が排除されてしまっていると言っても良い。
『ペスト』は、1940年代にアルジェリアのオランという人口20万人の町で、ペストが大流行したという設定のフィクションです。都市封鎖が行われ、人がバタバタ死んでいくなかで、主人公の医師リウーらは有志で「保健隊」という組織を結成し、独自の方法でデータを収集分析したり、治療に使う血清を開発したりと奮闘し、多大な犠牲を伴いながら流行の終息を目指します。
この物語の主要な登場人物は、それぞれ大きく異なる価値観や人生観を背負いながらペストという共通の脅威に対峙していて、しかも、いずれの価値観・人生観にも相応の言い分がある。全員が同じ危機に直面してはいるのですが、悲観する者もあれば楽観する者もあり、神の思し召しだから災禍を受け容れよと言う神父がいれば、敗北をよしとせず闘いに着手する医者もいる。殆どの市民が日常の喪失を悲嘆する一方で、社会から疎んじられてきた外れ者は、むしろ日常性の破綻を歓迎し高揚している。
価値観や立場が違うので、保健隊のメンバーの間でも、このペスト禍にどう立ち向かうべきか、あるいはそもそも立ち向かうべきなのかどうかについて、たびたび意見は割れています。しかし彼らは皆、自分がどういう人生経験や人間観を持つ人間であるのか、それ故にこのペスト禍に対してどのような印象を抱いているのか、そして未来に何を期待しているのかを、それぞれが素直に語ります。そして言葉を尽くすことで、物別れに終わることなくコミュニティが成り立っていて、ペストとの闘いは継続されて行く。
「価値観が違っても一つの目標に向かってみんなで頑張る」というような凡庸な話ではありません。この作品の登場人物たちは、そもそも一つの目標を共有していると言えるのかどうかすら怪しいのです。
たとえば医師のリウーは、職人的な生真面目さで淡々と患者の看病と治療(といっても殆どなす術がないのですが)に精を出している。たまたまこの町を訪れたところで運悪くペスト禍に巻き込まれた新聞記者のランベールは、恋人のいる地元へ帰るため非合法な手段での脱出を目論んでいて、「愛より大事なものはない。命を救うなどというリウーらの目標は、抽象的な観念に過ぎない」と主張する。逃亡犯のコタールは、ペスト禍が終息すれば再び追われる身になる可能性が高いので、この非常事態が永遠に続いてほしいと願っている。
それでもオランという町は、あたかもそれ自体が一つの有機体であるかのようにしてペストの災厄と戦っている。これが、社会のリアリティというものでしょう。価値観も立場も大きく異なる人々が、それでも有機的に繋がって一つの物語を成しているように見えるのは、その「違い」を彼らが素直に言語化しているからであり、腹を割って話し合っているからだと私には思えます。そして今の日本に欠けているのは、そういう会話なのではないか、とも思ったわけです。
新型コロナの感染者数や死亡率などの統計は広く共有されています。しかし同じ数字を目にしても、リスクの感じ方は人それぞれですし、仮に同じようなリスク認識を持ったとしても、その上でどのような行動を望ましいと考えるかはまた人それぞれです。そもそも、死というものに感じる重みも人によって違う。さらに言えば、一人の人間が一つの価値観で動いているわけですらない。要するに、リスク認識にしても対処方針にしても、唯一の正解があるわけではないのです。
いま、社会活動の自粛に関して私自身の周りでも意見がある程度割れていて、家族の間でも友人の間でも、見解に幅があります。この幅は、事実認識の相違に由来する面もあるでしょうが、「新型コロナをどの程度怖いと感じるか」「自粛にどの程度の苦痛を感じるか」という感情的な違いも強く影響しているはずです。また事実認識にしても、政府発表や論文を読んで自分で考えるという人もいれば、「テレビの言うことを信じる」「掛かりつけのお医者さんの言うことを信じる」「息子の言うことを信じる」というような人もいるわけですが、何を信じるかというのも人生観の滲み出る決断の一つではあります。
厳格な自粛論者も、インフルエンザや結核や麻疹について同じレベルの自粛を求めたりはしておらず、要するにそこには何らかの線引きがあるはずですよね。新型コロナには、有力な治療薬やワクチンがなく、病原体の性質に未知の部分が多いという事情があるにはありますが、ほかの感染症でも現実に死ぬ可能性が存在し、不確実性も皆無ではない。つまり、突き詰めれば「治りやすさ」も「不確実性」も程度の差に過ぎず、どこに線を引くかの判断はやはり必要です。ではその線はどうやって引かれるのか?
自粛を唱えるにせよそれに反対するにせよ、前提として新型コロナの危険度に関する見解(仮説)を持つ必要があって、専門家であろうとなかろうと、自分なりのリスク評価を示さない限り対処方針を論ずることはできません。しかし完全に客観的な見解というものはあり得ないわけで、その脅威の評価には人それぞれの想像や感覚が織り込まれることになります。そして、伝染病の危険度や不確実性がどの程度であれば自粛が必要になるかという線引きも、「恐怖感」や「リスク許容度」という曖昧な感情に基づいてなされるとしか言いようがない。要するに、見ているデータが同じでも、自粛論者は「怖いウイルスだ」と感じ、反自粛論者はそうでもないという感覚的な差異が、判断中にどうしても混じっているはずです。
また自粛の中身に関しても、「飲み屋からは締め出すが、家族内の団欒までは禁止しない」というような判断の背後には、「苦痛」などの感情による曖昧な線引きがあるはずですよね。
線引きが曖昧であること自体は、何も悪いことではありません。私が言いたいのは、自粛するか否かという線の引きどころを決めているのは事実や論理だけではなく、「感情」や「人生観」も大きな役割を演じているのだということです。そして、いたずらに相対主義を唱える必要はないものの、感情や人生観に大きな個人差があるのは事実であり、その差異をめぐる議論も欠かしてはならないと思うのです。
今般の新型コロナ騒動では、客観的事実に関しても未決の論点が多々ありますが、仮にこのウイルスの危険度や振る舞いが完全に明らかになったとしても、対策の方針について唯一の正解を得ることはできません。ある人が神経質な性格で、またある人が無鉄砲な性質であれば、両者のあいだの相違は消えることがないからです。その上で良質な合意を形成するためには、双方が、自らの見解の土台となっている価値観や人生観を多少なりとも言語化した上で、感情論も含めた会話を重ね、「言いたいことを言ってスッキリしたし、あいつの気持ちも多少理解できたような気はする」というような境地に達するしかありません。
いま、報道や世間話に乗って聞こえてくる新型コロナ談義には、そういう人間論的な基礎が欠けているように私には思えます(なお、我々の『ペスト』座談会は、その基礎を確認する作業の一環です)。人間の感情というものの複雑さ、曖昧さ、多様さに目を向けず、あたかもそれが一枚岩であるかのような前提に立って、「どうだ俺の考えた方針のほうが合理的だろう」というような論争があちこちで交わされていて、それは不健全であると思うわけです。付け加えて言えば、新型コロナというやつが、人によって感情的反応が大きく割れそうな微妙なラインを突いてくる脅威だからまた厄介なのですが。
私自身は、そもそも病気というもの全般を舐めてかかっている人間で、楽天的で軽率な性格なので、そのうち事故か変な病気で早死にすると思います。その過程で人に迷惑もかけるでしょうから、正当化するつもりはありません。世の中には心配性の人がいることも知っているし、伝染病のリスクは自分だけのものでもないので、できるだけ気を使って生きようとは考えています。しかし感覚を変えるのが難しいということもまた、認めざるを得ません。新型コロナによる死者数の推移や病床の埋まり具合のデータをみても、どれだけワイドショーに煽られても、今の段階では大騒ぎする気になれないのです。
「国内で最大40万人が死ぬ」という説については、そもそも客観的(であろうと努めた上での)判断としても大げさな予測だと思いますが、仮に信じるとしても、「なるほど上限で40万人なのか」と妙に安心してしまう面もあるのです。南海トラフ地震では最大30万人超が死ぬとも言われており、もちろん防災インフラへの投資を進めて犠牲を減らすべきなのですが、「インフラが完成してリスクがゼロになるまで、5年でも10年でも、全員机の下か高台に隠れて自粛してろ」とはべつに思いません。途方も無い犠牲ではあるものの、かといって、防災のために躊躇なく暮らしを破壊するような道も、選択してはならんだろうと思うわけですね。
新型コロナの話に戻しますが、わかりやすく少し誇張して言うと、私のような人間は何の根拠もなく「俺にはもう新型コロナの抗体があるんじゃないか」というような感覚を持って生きています。もちろん馬鹿げたことだと頭では分かるのですが、これは拭い難い生活感覚であって、容易に変えることもできません。こういう楽観派の人間は、頭ごなしに「お前には危機感が足りない」というような説教をされると「知るかボケ!」と言いたくなるのですが、間違っているのはたいてい自分のほうなので、口には出しません。しかし、「知るかボケ」と思う感覚そのものは否定しようがなく、そういう輩が何割か混じっているのも人間社会というものではないでしょうか。
このとき、なぜ「知るかボケ」というような反発がこみ上げるのかというと、説教者が自分自身の人生観の土台を少しも示さずに「何百人も死んでるのだから自粛しないとね!」などと唱えるのは、自らの人生観への同意を暗に強要しているのに等しいからです。もちろん、人の世というのは多かれ少なかれ、人生観の押し付け合いの場ではあるわけですが、せめてそのことに自覚的であるべきだと言いたくなります。
じつは、客観性が求められるとされる学術研究や政策論争においても、原理的には、言説が「人生観」「価値観」「人間観」「世界観」といった主観的なフレームの制約から免れることはあり得ません。かつて西部邁先生が、社会科学の理論も「自分論」抜きには完成しないのだと指摘していましたが、原理的に言って、まったくその通りなのです。
私は、安全側に倒した自粛論だって、ひとつの立派な立場だと思います。ただ、「致死率が低いと言われても、肺炎で死んだ親戚を見ているのでとにかく怖いんです」とか、「自粛を唱えるなんて、クソ真面目でつまらない性格だと言われるかも知れませんが」というような話も聞きたいわけで、それがあればこちらだって、「私みたいな能天気の言い分は忘れてください。道連れにされたんじゃかなわないでしょうからね」となるわけです。保守派は「常識」を重んじますが、その常識というのは、特定の具体的な正解を指すわけではありません。むしろ、人生観を異にする者同士が、自らの立場を明らかにしながら相互理解を目指して語り合うという、会話の習慣や作法のようなものを言うのです。
先日のメルマガのコメント欄で拓三さんという読者の方が、「我々が中高年の目線で自粛論を語って、若者は尊敬してくれるだろうか。むしろ若者には、『自由に経済活動をやってくれ。経済はお前らに任した』と言ってやってこそ、彼らも中高年の話に耳を貸すのではないか」という趣旨のことを書いておられました。まさにおっしゃるとおり。エマニュエル・トッド氏は「社会の活力の尺度となるのは、子供を作れる能力であり、高齢者の命を救える能力ではありません」という身も蓋もない理由で自粛の解除を主張していますが、69歳のトッド氏にそう言われると、「いや子供たちだって、おじいちゃんが生きていてくれないと元気が出ないでしょう」と言いたくなるわけです。
(5/9追記 スウェーデンでは、子供の教育機会や貧しい親の事情などを老人の健康よりも優先して、社会活動を制限しない方針が取られており、他国に比べて死亡者がかなり多いので賛否両論のようです。が、興味深いのは、この「ノーガード戦法」に対する支持が、若者で4割なのに対し、高齢層では6割に達し、イメージとは逆になっていること。また、「他人に対する信頼感」の高い人ほど支持する傾向にあり、さらにこの信頼感が、スウェーデンは他国よりも高い。国論が二分されてはいるのでそのうち転換する可能性もありますが、少なくとも、スウェーデン国民が長年かけて築き上げてきた価値観・人生観・社会観が政策の方向づけに大きな影響を及ぼしていることは見て取れます。)
政策決定は、建前としては「一つの正解」に近いものであることを装う必要があります。しかしそれを「準・正解」として多くの人が受け取ることができるのは、政策論争に先立って、人間の感情をめぐる充実した会話の積み重ねがあってこそです。いま起きている政策論上の対立も、原因の少なくとも何割かは、その積み重ねを怠ってきたことにあるのではないでしょうか。
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コメント
知るかボケ!に最も値するのが日本国憲法です。それは川端先生の代わりに語りますと、西欧の歴史そのものだからです。では、始まりは英国のピューリタン革命と同時進行の大航海時代に由来しており、その中身は侵略と略奪と奴隷による暗黒の歴史となります。それから欧州各国の侵略が開始されました。その代表がフランス革命になり、先ずはブルボン王朝の滅亡。それからナポレオンを作り担ぎ上げてのロシア侵略の二段階からなされていました。また、それと平行して米国の侵略も行われており、米国を侵略した後に、アジア諸国とロシアの侵略が具体的に開始されました。それがアヘン戦争と明治維新を経由して、日露戦争となり、FRBの創設を経て、WW1とロシア革命を意図的に起こしたわけです。それから、満州の利権を巡り我が国は先の大戦による敗戦となり、デタラメ憲法を受け入れているわけです。ちなみに、この憲法により独立と安全保障の軍事制限を受けているのです。これが、大まかな、知るかボケの実態として認識するべきかと思います。
「知るかボケ!」ではなく『日本人の自滅を心より願っています笑』
って感じで今回のコロナ禍を眺めていますね。生活保護受給者の一人として。日本人の卑しさ、差別感情が強い、他人を利用できる手駒としてしか見ていないなど、色々日本人の汚さを見てきましたからね、滅んだ方がいい。
保守陣営なら生活保護を手の空いている労働者だからなんとしても働かせたい(こちらが傷病者だということは微塵も理解していない。)
左翼なら貧困ビジネスで補助金貰うために生活保護受給者を取り込みたいっていう輩ばかりですからね。
上下左右どちらを見ても話の通じない日本国民なら、そう遠くない将来自滅するでしょう。(私は意図的に話を無視してますよ笑。)
私は日本人の自滅を最後まで見届けてから死にたいので、ここ最近の報道を見てるとむしろ元気が出てきますね。
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中国に飲み込まれる日本の最後はこの本と似たよう感じなんでしょうか?それを確認したい
【チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史】
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901657
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生活保護受給者が「以前はホームレスだったんだから、打ち切りにしても元通りのホームレスで生活していけるだろう。」と打ち切りにされた翌日、自殺した町に住む者より。
直前にあった小田原市の生活保護ジャンパー事件は連日メディアで話題になったのに、自殺事件は国民の間でほとんど話題にならなかった、あれこそが日本人の品性でしょう笑
ハシブトガラスさん
私は貴方の感想にうなずけます。
コロナの死者よりも児童がイジメで自殺する数が多いのです。年間約800人です。戦慄を覚える数字ではないですか!!
自殺に追い詰める人間の心の方がコロナウイルスより怖いというのが真実ではないでしょうか?
日本人の大人がイジメをしているから子供が真似ているのです。
日本人の本質は冷淡さではないでしょうか?
これは今は論じないでおきましょう。
アメリカのコロナのケースですが、何万人死んだと騒ぎ、中国を非難していますがコロナ死者を嘆き、ウイルスを呪うなら、アメリカは国家として原爆投下を懺悔すべきでしょう。広島長崎の原爆は一瞬で何万人を殺戮したのですか?と私は言いたいです。
リーダーたちは自分たちのことが何もわからないのです。
人間の貪欲さ、殺戮や狂気を考えると私も時々もうコロナ肺炎で死にたい。
肺炎で死ぬ方が高熱と意識不明で短期間にに死ねるからと思います。
絶望と孤独から希望の光を見出すしかないですね。
、──頭ごなしに「お前には危機感が足りない」というような説教をされると「知るかボケ!」と言いたくなるのですが──。
え?危機と対峙する雑誌と銘打っているのに……逆ギレですか(笑)。
国民の生命が脅かされている状況で、「よくもそんなことが!」とどこかの環境活動家の少女のように怒鳴りつけたいところです。
「コロナ怖れるに足りず」をいうのが、様々な情報に接してわたしなりに思っていることです。いま世間に蔓延しているのが、コロナ全体主義です。このコロナ全体主義は、意図的に作り出されているのではないかとわたしには思えます。横行する様々な「理不尽」に人々が怒ることができない。地方へ単身赴任している者は長期間家族と会えないでいます。移動できる「御墨付き」がないからです。日本人は御墨付きを待つ忍耐強さという点において非常に優れた国民性を持っているでしょう。それは逆にお墨付きがあれば「理不尽」なこともやってしまえるという一面であると思います。互いの生き方や価値観をぶつけてたたかうという習慣性の希薄がその根底にあるのでしょう。それをそれと自覚するということは大変大事だと思います。いたずらに踊らさせられない、踊っている人に対しては、自分は踊らないよという「論拠」を示すことが大事かと思います。
>むしろ、人生観を異にする者同士が、自らの立場を明らかにしながら相互理解を目指して語り合うという、会話の習慣や作法のようなものを言うのです
仰る通りで、自分は過剰な自粛論はおかしいという立場なのですが
自粛するべきだとしても もっと膨らみのある話や会話が生まれるような事言うべきで、行きなり赤の他人に自粛しろとか自粛警察みたいな事をやってる人は
一番駄目な事をやってると思います。それにこういう感染症は行き過ぎたグローバリズムが原因だと思うし、今の人や物の過剰な移動を自由にできるグローバリズム
をどう思ってるのかも自分の立場を明らかにして言って欲しいものです
初めまして
グローバル化が結果的にコロナ禍を起こした、と考えている方はおられると思いますが、ダニ学者の五箇公一博士はパンデミックが経済効率だけを目指したグローバル化を止めたとも思えると婉曲的に新聞に書いておられます。
資本主義は人間の心に絶えず欲望を掻き立ててこそ持続するものでしょう。
その果てがグローバル経済化で、自然環境破壊で地球温暖化ですが、突き進んでいくともう地球を破壊する自滅に向かっているのではないかと思えます。
夏になると気温をチェックし熱中症で死なない方法を毎日気遣うストレスで苦しくなります。50年前は扇風機で過ごすことが出来たのに、そのうち「空襲警報、空襲警報、高温ですから外出はダメです!家で待機してください!」と言われるのではないでしょうか?
いえ、既に「熱中症に気を付けて水分補給してください。」と連呼されています。
「夏になれば避暑に涼しい沖縄へ行こう!」と関西圏の私は真面目に考えています。
スウェーデンの少女グレタさんは鋭い感性で地球の危機を感じておられるのです。
そう考えると、コロナ禍は自国の自給自足を見つめ直す好機をもたらしてくれた「福」だと思いたいです。
そして出来れば貪欲に走らず、足るを知り、自分たちの欲望を縮小する必要がある事を確認してほしいのです。
狂牛病、豚コレラ、鳥インフルエンザは人間のおぞましい「貪欲」が生み出した大量生産過程で発生したウイルスで、僅か数匹でも感染が判明すると元気な動物までもが何万頭、何十万羽と大量殺処分されてしまいます。
経済効率を考え抜いた生産方法が却って経済効率ダウンの結果になりますが、この反省はなされてきたのでしょうか?
人間は罪深い生物ですね、とため息がでます。
宗教家、特に仏教の僧侶は祈願行事と同様に、法話で釈迦の教えを説いて欲しいですね。
深く真剣に私達の未来を考えないとコロナウイルスが終息すれば、また元の木阿弥で再び過度の経済競争が始まります。
もう自滅の道を辿るのはゴメンです。
コロナ騒ぎで飛行機や車の輸送がストップし空気が少しきれいになりました。
深呼吸してガラクタ情報の洪水から脱して自省をしてみたいです。
ここまで読んで頂いて感謝します。
人生観の押し付け合いというのは面白い意見だと思いました。
私は初期には自粛を厳格にし、当然政府が財政出動し補償する。
落ち着いたら段階的に自粛を緩和するのが正しいと思っており、最初の1か月などは自粛をしっかりしたほうが良いと考えておりました。
しかしそういう意味では自粛はむしろ緩やかだった印象で、東京はいまだに燻っている印象を受けます。
そして世の空気は自粛延長という流れになっているのだと思います。
しかし自分は最近医療を通じて自粛をこれ以上やったほうがいいのか「医学的に」そろそろ厳しいのではないかという印象を受けております。
当たり前ですが、COVID-19の自粛は国民の健康が主目的で、次が医療崩壊など制度などの保護ということになると思います。しかしもし自粛することが健康に悪影響を与えるのならそもそも意味がありません。
自分は糖尿病専門医、内分泌専門医、総合内科専門医で特に糖尿病の患者さんを診察する機会が多いのですが、ここ1~2か月で劇的に、それもいままで経験したことがないレベルの集団的な糖尿病の悪化を目にしております。おおむね7割くらいが悪化し2割が同当、1割が改善といったところでしょうか。
ほかにも高齢者が診察室で「久しぶりに外に出るための格好をした」といってこられるのですが、明らかに前回受診時よりも歩行や動きが悪くなっているケースを見ております。
極めつけは愚痴のようで恐縮ですが、癌を疑う患者さんの検査紹介を3月からCOVID-19を理由に延期していたら今月に癌であることがより明確になる症状が出現したケースに遭遇しました。これは流石に自分も強いショックとこんなに早く問題が出るものなのかと衝撃を受けました。運がないのか、自分が強引にでも患者さんが嫌がる病院へ紹介して検査させるべきだったのか今で難しいと考えております。
まるで懺悔室でグダグダお話をしているような内容になってしまい恐縮ですが、申し上げたいのは・・・
今の自粛の継続と緩和の議論には、「自粛の医学的弊害」という側面についての話題が相当少ない・ほとんどないという印象を受けます。
自粛=健康にいい かのうような議論になっているようにすら見えます。
確かに3日間だけ自粛して感染症が消滅するなら絶対自粛がいいでしょう。
しかし14日間なら、1か月なら3か月なら…としていくとどこかで健康事態逆転現象を起こすでしょう…
先の糖尿病であればほぼ一般内科のすべての医師が経験・感じていることだと思います。
国内に統計上1000万人糖尿病の患者さんがいて、数か月の間7割の方の糖尿病が悪化したら、この先10~20年でどの程度影響があるのか、(短期の悪化程度なら一般的には気にしませんが、700万人が悪化すれば一体どうなるのか。糖尿病による脳・心血管障害、その他合併症は10年以上経ってからの方が影響すると科学的に証明されており、直ちに問題がでないという難しさもあります)。
自粛によって想定される問題は、癌の発見の遅れ(これはたまに報道されている)、生活習慣病の悪化、身体機能の低下、認知機能の低下、医療アクセスの低下、精神的ストレスの低下など考えて挙げてみればきりがないです。
そもそも厚労省の統計上人間が死ぬ生活上の原因(疾患もありますが主に生活習慣です。死因となる疾患は当然癌です)として挙げられる2位の高血圧に悪影響を与えていることはもちろんのこと、3位に身体活動が少ないことが挙げられており、これはあらゆるデータが支持しております。この自粛で身体活動を減らした人がほとんどではないでしょうか。例えば米国の糖尿病協会(ADA)はsedentary timeが30分以上にならないよう勧告しており、身体活動が少ないことは当然中長期で死に直結しております。
問題はこの自粛による純粋な医学的健康被害は定量化がCOVID-19よりもっとできないことです。
COVID-19がいまだ未知の部分が多い病気であり、40万人死亡するriskも想定されており私は川端先生と残念ながら意見が違い、すごい脅威ではないかと感じております。(もっとも実際には7%感染していると推測されている東京で500~600人程度のmortallyなので、70%の感染で終息すると仮定すると東京都の人口が日本の1/10と計算すると550人×10×10=55000人くらい?)
しかし、この自粛もそういう意味では定量化できないが実は全く未知の強い脅威だと思います。(定量化という観点ではむしろCOVID-19の方がretrospectiveには定量化しやすい問題だと思います。ただ遡って定量化できるから脅威ではないとは言えないと思います)
私は今完全に揺れております。自粛が正しいのか、さっさと緩和したほうがいいのか・・・
経済的保障があればまだ自粛を伸ばすという手もあるのでしょうが、教育やこのような健康被害など経済的保障ではカバー不能な領域があり、何が正解なのかわからないという感覚です。
経済的保障がなく、ショックドクトリンが横行し、専門家会議は感染症のことしか論じず、他の医学的問題についての議論を完全に欠き、終いには名刺交換をオンラインでと意味不明なことを繰り返している始末で、この騒ぎの顛末について不安しかありません…
というとりとめもない話ですが、家族にも友人にもここまで長々愚痴を言える状況ではなく、また識者の先生方に健康への害についての議論も少し議題に挙げてもらえれば心が救われると思い書かせていただきまし。つまらない内容なのでさっさと削除していただいて構いません。
ちなみに最後に、この状況で医者をやっていることも相当ストレスになっております。
現在の医者の状況は
電話診察やオンライン診療を要求される
患者さんが不安になっている
患者さんの状態が悪化する
受診を拒否する。
一人ひとりCOVID-19について詳細に説明しないといけない
などマスクなどの医療物資や感染するリスク以外にも挙げたらきりがないほどの問題が山積しております。
特に緊縮財政という観点でひどいのはオンライン・電話診察で、医療事故が起きやすい極めて高難易度の医療提供の要求を強要しておきながら、制度は複雑、行政に報告義務を課して仕事を増やされる、診療責任は医師にすべて丸投げ、終いには患者負担を増加させて医療機関への収入を減少させる(患者に特殊な実費の自費支払いを要求することで医療機関が低い診療報酬を補うような仕組みになっており、医療機関と患者さんが双方で損し、財務省が得するというとんでもない仕組みになっております。ここまでやるのかと思います)など、こんな不条理があるかと思って日々過ごしております。
これでも経済的破綻リスクが飲食店よりまだ低いかもしれないので恵まれているのかもしれません。
こんな状況で破綻までさせられる経営者や失業する労働者に同情します。
ただただ悲観的になってしまうこの頃です…
始めに、今回のコロナ禍についての私の基本的考え・立場を記しておきますと、私自身の家族(60代の叔母、70代の母)は人との接触が避けられない仕事をしておりますので、感染してしまったらそれは自分が看取ることも含めて仕方がないかという気持ちでいます。自粛生活の中で心身の健康を損なうより、という思いもあります(私自身については、自分の命にこだわりはありません)。
ただ、私の友人には、自分の家族に感染するのが怖い(自分はかかっても仕方ないけど、基礎疾患があって免疫的に脆弱な家族が死ぬのが怖い、家族が死んだ後に向き合わなければならない悲しみや、それでも続く生活を考えるのが怖い)という子もいるので、そういう人向けの対策で何ができそうか考えた、という部分を記します。
まず私は、半自粛を実行するにおいてはどうやって世帯分離をするのか、ということが一番の課題だと考えていたのですが、60代以上の方を施設に隔離するより、高齢者は自宅に残して息子世代以下、若めの方々が職場や避難所に寝泊まり・生活する方がいいと思うのです(なぜなら藤井先生が引用された東洋経済の統計を見ても、その施設での高齢者の集団感染があった場合、致死率が一割を超える大変な被害になるはずですので)。
つまり、集団感染してもほぼ死に至ることのない、基礎疾患を持たない40代以下の若い方々を自主避難させて生活してもらう場所が必要で、避難所の運営体制含め、世帯分離先を用意することが喫緊の課題だと思います。そして案内や誘導が適切に行われるには、役所のみならず会社組織や町内会に任せるなどの措置が必要ではないでしょうか。
それと、記事の本題ですね。自分史についての私の考えですが。自分史がなければ、あるいは自分史への理解がなければ、本質的に世界史は理解できない、というのが実感です。
たとえば、私には生まれた時から父親がいなかったので、欠損家族を正当化する一部のフェミニストの欺瞞に子供の頃から苛立って仕方なかったのですが(彼女らの発想法は自分の母親に似ていたので余計です)、藤井先生や三橋先生方の言論に触れ、そうした対立もMMTに基づき、政府が十分や予算を投じることで解消できるのだということを知ったことは私の個人的な人生での最大の発見でした。
そしてそれはどの業界でも同じなのだと知ったことも。
日本政府が税収分のみを予算にしようとするという間違った財政健全化にこだわりすぎてIT業界に投資しなかったから、主要なベンチャーが人材も技術も米国政府由来の資金力を誇るシリコンバレーに根こそぎ引き抜かれてしまったし、そのせいで海外のリードを許してプラットフォームビジネスでも敗北した(日本政府が1997年時点で消費増税などもせず、きちんと投資を続けていればIT業界が低賃金問題のせいで構造的にねじくれることもなかったし、たとえばホリエモンさんだって本当の意味でIT業界の雄になってただろうに、というのが私の本音なのですが)。
たとえばホリエモンさんが宇宙にロケット飛ばしたりやりたいこといっぱいあっても、その頭を、政府支出を削る=緊縮財政という環境が押さえつけている。ほかにもたくさんの新興企業の芽はありますが、同じように圧迫されて潰れるか海外に引き抜かれるかして日本に何も残らないのは、日本にとってこの上ない不幸です。
それに私にも夢があります。歴史の研究、特に西ローマ帝国末期からフランク王国成立までの歴史の流れを調べたいし、神聖文字とか楔形文字とか古代文字の言語を一通り勉強して考古学的な調査にも参加したいし、デフレ環境から抜けて世界も滅びさえしなければやることはいくらでもある(ちなみに、西ローマ帝国末期からフランク王国成立までの歴史には「文化の断絶と、異なる担い手=民族による遺物からの継承」つまり「易姓革命」があったのです。しかもそのことが巧妙に隠蔽されている。ヨーロッパにも易姓革命ってあるんだって思って私は関心が強いです)。
権力には興味も関心もないですが、ただ私は神の意図を知りたい。
財政問題を口実に未来が潰されているという問題は、小さな政府思想が席巻する今の世界のどこでも起こっていることですよね。そして日本で国際社会への参入を口実にして日本のグローバル化(両者は違うものですが)を進めようとする人々の何が問題かというと、これらのこと、つまり国際社会で起こっている本質的問題を何一つとして理解していないことですよね。
私は(選択的だろうが)夫婦別姓推進には両性の平等と幸福という本来の目的に資する効果がないと考えるから賛同できないけど、国籍や人種や男女の別で区別されることなく勉強できる環境はあるといいと思います。でないと環境の格差がある子供たちが貧困から抜け出せない(もっとも、国柄や文化を急速に変えると情勢不安が生じますが)。
特にこれは統計的にも顕著かと思いますが(人口に占める移民の比率と治安悪化の相関関係の統計データ自体は高橋洋一さんが桜の番組で紹介していた)、一世はともかく移民二世や三世がその国の教育者の絶対数に対して多すぎて教育に手が回らないと、教育格差から経済格差が生まれ、彼らの貧困から抜け出せないという絶望がテロリズムを誘発する……
つまりもし日本が移民入れるなら育てられない人数は絶対に引き受けちゃダメ、入れるなら育てられる人数に抑えながら入れなさい、あるいは教育者の絶対数を増やしなさい、ということ(まあそもそも文化から自己同一性が失われている国にまともな教育なんかできやしないが!)を移民推進派の方に言ったのですが理解されなかったのです、ドイツやフランスあたりにいい先例があると説明したうえでもです。
それで、外国が失敗した理由を理解しないまま輸入して二の轍を踏んでしまう。まあ別に私に何か言われたからと言って行動しなくてもいいけど、理解したうえでの反論がないというのはどうなんだろう、と。これってやっぱり、私はその人たちの学問に自分史が含まれていない、足元がないからなんだと思うんですよね。つまり、ローカルの問題を理解できない人は、グローバルの問題も理解できない。
例えば、日本で海外留学の推進を口実に9月入学を進める方々にまず第一に言えるのは、以上のような国際社会が抱える問題への無理解もそうですが「日本人がなぜわざわざここに来たのか? 日本文化の継承者として自分たちにはない独自の視点からの見解を出せるのか?」を問われる場面では、グローバルスタンダードのみを強調しても意味がない、という点をまったく理解していないこと。
だって、別に技術や知能だけ求めるならアフリカ人でもアジア人でもアラブ人でも人種なんて関係ないし日本人じゃなくていいわけですよ。国際社会に送り出す側が「われわれがほかでもない君を選ぶべき理由は何?」と問われる場面があることすら想定しないまま子供たちをすっぽんぽんで送り出すのはかわいそうです。子供にきちんとした問題設定を与えることもなく留学させるのはただの「大人」の見栄ですよね。そのせいで、留学したかなりの割合の皆さん(この中には竹中平蔵氏も含まれると思いますが)がここで躓いているようですが。
私には、外国への憧れが無理解に基づいている度合いと、留学して得られる経験の中身の軽さ・薄さは比例しているように思います。そしてそれは、その人の自分史への理解の薄さが他者への無理解につながっていることと根っこが同じだと思います。
――以上、長くかつなかなかまとまりのない話になってしまいましたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。
逸脱したことなんです。
前々から思っていましたが、拓三さんてF教授さんではないか…と。
それだけでお邪魔してすみません。
(思うに判る読者は判ることなので承認は望んでません。)
少なくとも私のよく知っているF教授ではないです(笑)
さうだとしたら面白過ぎ(笑)
あの…F教授って藤井氏のこと?
京都大学教授…エエな! よし!明日から京大行こ!
ところで京大は京都のどこにあんねん? 祇園から近いんか?
私の知り合いがもしこのコメントを見たら大笑いするでしょう。
「天と地が引っくり返ってもないわw」と…それもまた、悲しいけど…
そうでしたか、すみませんでした。
私は10年前の新日本経済新聞の東田剛さんと鶴田(個人的に大昔熊本に還られたこの姓の先輩も居るので)正平さんのダブルゴーストライターを想起させられていたようです。
あの方達のお陰で少しは、政府の経済学が日常茶飯事を多大に脅かすことになっている、実はヒト意識に因るこの第一仮想現実のことが広まってきたのなら幸いなのかもしれません。
支離滅裂にお邪魔しました。