先月末に、統一教会の詐欺被害者を支援する弁護士が記者会見を開いて、「第1次安倍内閣が終了すると霊感商法の摘発が急増したが、民主党政権時代を経て第2次安倍内閣が発足すると同時に、摘発が全く行われなくなった」と指摘していた。自民党や安倍元首相と統一教会の癒着についてはおびただしい数の報道や論説があって、いちいち精査するだけの気力も関心も私にはないが、「数ある支持団体の一つに付き合いで顔を出している」という程度のものでないことは想像できる。
統一教会は、他の新宗教と比べても特異なほど、無法性と持続性をしたたかに両立させてきた。政界へのはたらきかけはその重要な手段の一つであったとされ、それは少なくともこれまでのところ、大成功を収めていると言うほかない。文鮮明をメシアとあがめる個人崇拝や、そのメシアの祝福を受ける合同結婚式によって「無原罪」の子に恵まれるというような教義は「カルト」そのものだが、組織があまりに巨大化したので、宗教社会学者の研究書においても、ある意味ではカルトの定義を超えるとすら言われている。
安倍氏の暗殺が起きてから意外に感じたのは、山上徹也の暴力行為を非難する声が、事件直後の政治家たちのコメントを除いて、ほとんど聞かれないことである。私自身は、山上の行動は全く支持しないものの、暴力が歴史を動かす可能性も、法の根底に暴力が伏在している事実も受け入れるしかないと考えるので、「民主主義を脅かすテロは許さない」などと綺麗事を叫んで満足する気にはなれない。しかし、暴力を忌み嫌ってきた戦後日本人の平均的主張に照らせば、元首相の死を「自業自得だ」と言わんばかりに「政治と宗教の関係」だけが云々されるのは奇妙なことではある。それだけ統一教会に対する怨念は深いということなのだろうが、この奇妙な熱狂が若干の乱脈をはらむことには注意しなければならない。
たとえば、細かいことにこだわるようだが、「政治と宗教の関係」というような表現には違和感を覚える。統一教会の活動が社会問題となってきたのは、詐欺、脅迫、洗脳に類する勧誘手法が盛んに用いられてきたからである。政治家が宗教団体と付き合うのは一般論としては構わないのであって、「社会的に容認しがたい行為に手を染める宗教団体」にお墨付きを与えたり、行政上の処分に手心を加えたりすることが問題だというふうに限定しておかないと、議論の混乱を招くのではないだろうか。
もう一つ気になるのは、「反社会的勢力と認定されれば関係を断つが、そうではないのでお付き合いしていくつもり」という自民党議員の発言がきっかけとなって、統一教会は「反社会的勢力」なのか否かという議論が生じていることである。世間で言われているのは主に法解釈や法整備の問題なのだろうが、私はこの「反社会的勢力」という言葉そのものに対して疑問を持っている。
統一教会は、いわば社会に「寄生」することで勢力を拡大してきたのであって、ある時期以降のオウム真理教のように社会そのものの転覆を企てているわけではない。「日帝支配の罪を負った日本人からはいくら収奪しても構わない」というような教説は「反日的」とは言えるだろうが、そこでもカネづるとしての役割が期待されているのであり、日本はあくまで寄生の対象なのだ。
統一教会に限らないが、カルト宗教はどちらかといえば、「反社会的」というより「裏社会的」とでも形容すべきだろう。呼び方など些細な問題ではあるのだが、どうしてもこだわりたくなるのは、悪質なカルト宗教は我々の社会や心にとって「外在的な敵」なのではなく、むしろ我々自身の中に「内在する闇」として捉えるべきだと思うからだ。
麻薬、売春、金貸しなども同様だろうが、裏社会の商売が成り立つのは、「表社会」を生きる一般市民の中に、それを求める人びとが無視できない規模で存在するからである。そしてカルト宗教について言えば、さまざまな因果で「心の支え」を失った人びとをターゲットにしているわけだが、彼らから心の支えを奪ったのは、往々にして社会そのものなのである。
統一教会の典型的な勧誘事例をみると、学生や主婦を日常の社会関係から隔離した上で、彼らの心に潜む小さな不安を発見し、そこに手を突っ込んで押し広げることで「救済」への渇望をつくりだす。1960年代から70年代にかけて、そうした心理操作の技術が確立されて、多くのカルト教団に利用されたらしい。健全な心理トレーニングと不健全なマインドコントロールの線引きは難しいが、教団の正体を隠し、金儲けを目的として、勧誘ノルマ達成のために他人を引きずり込む統一教会の手口はどう考えても後者である。
しかしその一方で、統一教会やその他のカルト宗教の信者の手記やインタビューを読めば、「自分の話を聴いてくれる人」「自分の存在が認められる場所」がそこにしかなかったという例が少なくない。カルト宗教への需要は、少なくともその半面は、我々の社会が作り出したものなのだ。統一教会の「寄生」は格別にタチが悪いので、それを糾弾する運動に私は反対しないし、政治家は単に手を引くだけでなく取り締りに力を注ぐべきだと思うが、外部からの侵略者を追い払っても解決しない「内なる闇」のほうが、より深刻な問題であると思える。
現代社会の規範は主として「法」と「科学」に根拠を置いていて、カルト宗教に「反社会的勢力」のレッテルを貼る人びとも、無法な手段を用いて非科学的な信仰に引きずり込むこと、あるいは非科学的な教説を利用して法外な額の金品を騙し取ることを指して「反社会的」と言っているのだろう。ところが厄介なことに、法や科学は我々の心や人間関係を隅々まで支配することができない。それどころか、法や科学への過大な「信仰」が、ゆっくりと時間をかけて、心の支えや人びとの絆を奪っていったのが近代社会だとすら言える。
支えだの絆だのとセンチメンタルなことを言うのは、個人的には性に合わないが、それはともかく、不法行為や非科学性をいくら非難したところで解決しない「闇」が人間社会に内在しているのだということはわきまえる必要がある。山上の凶行を目の当たりにして本当に考えるべきなのは、「テロをいかに防ぐか」でも「カルトをいかに根絶するか」でもなく、「統一教会さえなければ山上親子は救われたのか?」という問いではないだろうか。
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コメント
彼らから心の支えを奪ったのは、往々にして社会そのものなのである。
→仰ることはわかります。その社会により影響を与えている政治家が、統一教会と関係があるということが一番問題ではないでしょうか。
特に、安倍元総理をはじめとする保守と呼ばれている政治家が、です。
クライテリオンでは、今もなお安倍元総理を好意的に発信されており、困惑しています。
他の執筆者がカルト問題をどう考えているかは分かりませんが、私は統一教会のような反日詐欺集団を許す理由はないと思っており、それにお墨付きを与えてきた安倍さんをはじめとする自民党(清和会)の議員の罪は重いと思います。そのことは↑の記事にも書いたとおりです。
ただ、「悪いのは安倍」「悪いのは統一教会」という糾弾運動を熱心にやろうとは、私は思いません。糾弾運動をやっていると、往々にして「敵をやっつける戦い」に参加しているだけで満足してしまい、身近にいる心の弱い人、不安を抱えた人、疲れている人、悩んでいる人、寂しがっている人の話をきいてやる努力をサボってしまいそうな気がするからです。
■安倍氏の暗殺が起きてから意外に感じたのは、山上徹也の暴力行為を非難する声が、事件直後の政治家たちのコメントを除いて、ほとんど聞かれないことである。
それ以上にカルトとの関りがより大きく表れてきたからではないのでしょうか。
■行政上の処分に手心を加えたりすることが問題だというふうに限定しておかないと、議論の混乱を招くのではないだろうか。
その限定の議論さえもが自称保守を標榜する書物や論陣から混乱するほど起こっていないのが問題ではないのだろうか?
■「反社会的」というより「裏社会的」とでも形容すべきだろう。呼び方など些細な問題。
近代社会が徐々に居場所を失ない心の支えをいつしか内在的な闇に依拠せねばならぬ人の存在をカルトの存在理由にしてはいけない。
■「テロをいかに防ぐか」でも「カルトをいかに根絶するか」でもなく、「統一教会さえなければ山上親子は救われたのか?」
人が生きていく上にはそれぞれの運命なり宿命が存在するわけで救われるかはたまた違うものに巻き込まれるかはわからない。
ただカルトなりテロなりからは極力防御したいのは市井を生きるものの常識ではないだろうか?
悪質なカルトの存在を容認しろとも、防御する努力をするなとも言ってないのですが、誤解を招いたなら私の書き方が悪かったのでしょう。
補足すると、私の指摘したかった問題は、カルトを外在的な敵として捉えてしまうと、政治家にとっても一般社会にとっても、「カルト教団さえ追い払えば我々の責任は果たされる」みたいな話になってしまうことです。
統一教会をバッシングするのは、正義のための戦いに参加している高揚感もあって楽しいですが、心の不安を抱えた人の話を聴いてあげたり、励ましたりし続けるなんて、肉親でもない限り、実際に自分がやるのはけっこう面倒だったりします。正直、私自身にもそういうところがあるのを否定できないので、そのことをもっと問題視しなければと思いました。