前々回のメルマガでは「リベラル空間」のナルシシズムについて、前回のメルマガでは「翼賛保守」のナルシシズムについて述べておきました。が、そもそも「ナルシシズム」という言葉の原義には「感覚麻痺」という意味があるらしい。
もちろん、その手前には、水面に映った自分の姿に恋をしてしまい、その姿に口付けしようとして、そのまま水に落ちてしまうナルシスの神話があるわけですが(水の中に映った自分の姿に釘付けになって、そのままやせ細って死んでしまったという説もありますが)、ナルシスが死んだ場所に水仙(毒性がある植物)が咲き出たことが暗示しているように、そもそもナルシスの名前自体が、ギリシア語のナルシコス(麻痺)に由来しているとのことです。
つまり、あまりに美しい自分の姿を眼にした男が、視覚以外の感覚と、それを統べる統覚(常識)とを麻痺させてしまった話、それがナルシスの神話だということです。
そこで興味深いのは、実は、この「ナルシシズム」が、生理学的な意味をも含意しているという点です。ほとんど耐えられないほどの強い不安や刺激を受けると、人は、感覚を纏め上げる中枢神経(常識)を麻痺させて、その強い刺激を受けた感覚器官を切り離してしまう習性があるというのです。つまり、「ナルシシズム」とは、強いショックに対する自己防衛策であり、その限りでの中枢神経の麻痺であるということです。
しかし、それなら、このナルシスの神話(統覚=常識麻痺の物語)ほどに、戦後日本人の「性格」を描くのに適当な物語はないと言うべきなのかもしれません。
というのも、敗戦という事実に、耐え難いほどのショックを受けた戦後日本人は、それを蒙った感覚器官――つまり「国家」――を一時的に自分から切り離し、それを統合する「常識」をほとんど麻痺させてしまったように見えるからです。事実、戦後日本人は、「国家」という二文字を奇妙に避けながら、「市民」や「社会」や「国民」といった主題については、異様に饒舌に、好きなだけ語ってきたではありませんか。
たとえば、50年代から安保闘争に至るまでの過程で唱えられた「反米ナショナリズム」は、それが「ナショナリズム」の一語を冠しているにもかかわらず、その核心に見据えられていたのは「平和と民主主義」でした。つまり、大陸での中国共産党の勝利(49年)と朝鮮戦争(50年)以後、日本を反共の砦にしようとしたアメリカに対して、「反米左派」が見出したナショナル・アイデンティティの旗こそは、「国家」とは無縁の「平和主義」であり、また、その限りでの「民主主義」(国民主義)だったということです。
とはいえ、そんな平和主義の「理想」を唱えているだけで事済まないのが「現実」なのだとすれば、「国家」は次第に「国民」の外に自らの支えを求めざるを得なくなっていきます。そして、「国民」に頼ることのできない「国家」は、「平和」という表看板の裏側で、アメリカ(日米安保)に縋りつくといった悪癖を習い性にしてしまったのでした。
こうして、「戦後レジーム」は整えられていったわけですが、その過程はまさしく、自らのアイデンティティに平和憲法(ポツダム体制)を見る「反米左派」(国民)の理想主義と、後ろめたくも日米安保(サンフランシスコ体制)に依存せざるを得ない「親米保守」(国家)の現実主義との相互補完性、その〈9条―安保〉体制とでも言うべき「偽善と欺瞞」のなかに、戦後日本人が、自らの「生き方」を見失っていった過程と完全に重なっています。
とすれば、この「国民」と「国家」との分裂のなかで麻痺させられてきたもの、それこそ「私たちとは誰なのか」という問いだったとは言うことはできないでしょうか――事実、「ポツダム体制」も「サンフランシスコ体制」も、アメリカによって用意されたものでしかありません――。言い換えれば、戦後日本の「ナルシシズム」(中枢神経=常識の麻痺)によって、長く抑圧されてきた主題こそ、「国民」(感情)と「国家」(理性)を結び合わせ、平衡させようとする努力、つまり「ナショナリズム」ではなかったのかということです。
ところで、この度の『表現者クライテリオン』(7月号)が問おうとしているのも、これと違ったことではありません。「ナショナリズムとは何か」と題された特集の副題は、「『右』と『左』を超えて」となっていますが、それは、まさしく「『反米左派』と『親米保守』を超えて」であり、また「『国民』と『国家』との分裂を超えて」であります。そして、それは、もちろん戦後日本人の〈ナルシシズム=中枢神経の麻痺〉を超えることも意味しています。
一人でも多くの方に、『表現者クライテリオン』を手に取って頂ければと思います。
さて、最後に「感覚麻痺」に話を戻しておくと、それを治すためには、どうも五感の配分比率を組み替える必要があるらしい。とすると、今一度、日本人は自分自身の感覚=観念から徹底的に自由になってみる必要があるのかもしれません。対象(知覚)に目を凝らすだけでなく、対象(知覚)と自分(統覚)との関係を振り返り、それを考える必要があるということです。そのなかで、ようやく見えてくるもの、それこそが自分自身の「性格」であり、その「性格」に対する適切な距離感、つまり「ユーモア」だということになります。
とすれば、逆説めきますが、今、喫緊の課題は、いかにして「ユーモア」を取り戻すのかということになるのかもしれません。いずれにせよ、日本の「リベラル」や「保守」に、「ユーモア」が欠けているということは間違いないように思われます。
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