学校は何のためにあるのか 関西シンポジウムに参加して、考えたこと

髙江啓祐(37歳・公立中学校教諭・岐阜県)

 

はじめに

 信州支部の前田一樹氏とも意見が一致したのだが、筆者は「表現者クライテリオン」を答えにするつもりはない。筆者は何らかの答えを得るために「表現者クライテリオン」を読んでいるのではない。むしろ、「表現者クライテリオン」をきっかけとして、何かを考え始めることができたらよいのだ。したがって、筆者は本文を読む前から結論が見え見えの論考とか、どういった書物に影響を受けたのかよく分からない根拠薄弱の論考は読む気がしない。

閑話休題。本稿は、筆者が「表現者クライテリオン」の関西シンポジウムに参加した後の思索の記録である。

 

尼崎でのシンポジウムにて

 令和六(二〇二四)年七月六日、筆者は「表現者クライテリオン」の「関西シンポジウムin尼崎」に参加した。このシンポジウムは、第一部が浜崎洋介氏の新刊『絶望の果ての戦後論』トークセッション、第二部が「『腐敗』の象徴大阪万博の地で保守を再興する」という流れであった。実を言うと、国語科の教員である筆者にとって、もともと楽しみにしていたのは第一部であって、居住経験のない関西に関する第二部の期待値は低めであった。

 ところが、あまり関係がないだろうと思われた第一部と第二部が、ある点で結び付いたのだ。換言すると、文学と大阪には何やら似通ったところがあるということが学べたのであった。

 

 村上春樹氏や村上龍氏あたりまでは、対米従属のようだが対抗している。けれども、田中康夫氏あたりから安っぽくなり、古臭い文学を馬鹿にしている。そして、文学作品のそういった変化は、日本そのものの姿と似ている。昭和の終わりまでは、反戦平和を訴えながらもアメリカに経済戦では負けないぞ、という意識が経営者などにあったのに、小泉純一郎氏や竹中平蔵氏が登場した頃から「アメリカのほうが優れている」という考えが広がり、日本が否定された。つまり、アメリカに戦っていた日本が白旗を揚げてしまった。

 

 第一部において、柴山桂太氏は以上のような内容の発言をしていたと記憶する。

 一方、第二部では、昭和の途中までの大阪には東京への対抗心があったのに、今の大阪は一体何なんだ、といった話題が出ていたと記憶する。唐突だが、ここで「競争」という語を用いるならば、今の日本はアメリカと競争する気がなく、今の大阪は東京と競争する気がない、という言い方もできるだろう。

 

「競争」の登場

 鹿毛雅治『モチベーションの心理学』(中公新書、二〇二二)によると、「競争」はそんなに大昔からあったわけではないらしい。

 競争という手法が出現する以前は、罰を与えることが唯一の動機づけの方法であって、競争心を煽るという手法が広まったのは十六世紀半ば以降であったという(二七〇頁)。同書には、「結局のところ、競争のメリット・デメリットを踏まえ、ケースバイケースで検討せざるをえない」(二七五頁)という無難な結論が書かれている。要するに、競争の是非を決めるのは心理学的にもなかなか難しいのだろう。

 

「競争」という語の誕生

「競争」という日本語の産みの親は、福澤諭吉である。『福翁自伝』(以下の引用は、富田正文編『福沢諭吉選集』第十巻、岩波書店、一九八一による)には、

 

私がチェーンバーの経済論を一冊持(もつ)て居て、(中略)早速翻訳する中に、コンペチションと云ふ原語に出遭ひ、色々考へた末、競争と云ふ訳字を造り出して之に当箝(あては)め

 

 と書かれている。ところが、翻訳を「今で申せば、大蔵省中の重要の職に居る人」に見せたところ、「イヤ茲(ここ)に争と云ふ字がある、ドウも是れが穏かでない」と言われ、結局「競争の文字を真黒に消して目録書を渡した」というのである。競争や争いに賛否両論があるのは、今も昔も変わらないようである。

 競争について、福澤は「隣で物を安く売ると云へば、此方の店ではソレよりも安くしやう、又、甲の商人が品物を宜くすると云へば、乙はソレよりも一層宜くして客を呼ばうと斯う云ふので、(中略)互に競ひ争ふて、ソレで以てちやんと物価も定まれば金利も極まる、之を名けて競争と云ふので御座る」と述べ、話し相手の「西洋の流儀はキツイものだね」という感想に対しては「何もキツイ事はない」と返答し、競争に肯定的であることが読み取れる。

 

学校教育における「競争」

 学校教育において、競争はどのように扱われているだろうか。例えば、筆者が勤務してきた学校の中には、試験の成績上位者を校内で発表していたところもあったし、希望する生徒本人にだけ順位を開示する学校もあった。そこにはそれぞれの学校の様々な背景があるわけだが、現場に身を置く者の感覚を正直に言ってしまえば、競争は生徒を活発にする。例えば、定期試験以外の評価材料として各生徒のノートを点検した場合、ただスタンプを押すだけで返却するよりは、ページの片隅に点数やABCといった評価を書いて返却した方が、自分の評価はこうだった、向こうはああだったと生徒は比較し合い、次はもっと高く評価されたい、あの人に勝ちたいと燃えてくれる。無論、低い評価を受けるとただいじけるだけの生徒もゼロではないが。

 

危機との対峙

 ところで、「表現者クライテリオン」の表紙には、毎号必ず「『危機』と対峙する保守思想誌」という記載がある。この「対峙」を「競争」と言い換えるのは的外れであろうか。

「対峙」とは、もともとは山が向かい合ってそびえ立つことを言い、そこから「にらみ合って対立する」といった意味も派生した。つまり、AもBも逃げずに競い合うこと、と言ってもよいのではないか。

「危機との対峙」の反対は何だろうか。それはきっと「危機の排除」であろう。自分を困らせる何かに直面したとき、一昔前の我々ならば、それが存在することは仕方がないと諦めつつ、それが存在する中でどんな工夫ができるか、あるいはそれをどうやって負かそうかと思案してきたのではないだろうか。

 ところが、昨今はどうだろう。それの存在自体を許すことができず、とにかく目の前の邪魔者を消し去ろう、排除しようという雑な解決方法が主流になってしまってはいないだろうか。

 例えば、かつて、自分の学級にどんな人間がいようと、それは仕方がないことだと考える人が多数派ではなかっただろうか。反りが合わない人間が近くにいるのはもう運命だと観念した上で、その状況でどう生きていくか、そしてどう勝ち上がっていくかという生存競争が、かつての学校・学級にはあったように思われる。

 今は違う。自分と合わない人間は遠い席にしてほしい、別の班にしてほしい、別の学級にしてほしい……といった生徒・保護者の要求は、おそらくどこの学校でも少なくないだろう。

 だが、学校に必要なのは快適さだろうか。あらゆる危機を排除し、至れり尽くせりの時間を提供するのが学校の役割なのだろうか。そうではないはずだ。本来、学校とは人工的な試練の場であったのではないか。そして、教員はもっと悪役だったのではないか。

 筆者が記憶する数十年前の「学校の先生」は、今どきの「学校の先生」より、ずっとずっと冷たかった。話しかけにくかったし、厳しいことを容赦なく言っていたし、簡単に言えば今よりも生徒を突き放していた。

 

「過親切」という問題

 かつて、教師は悪役であった。今は、そもそも親に愛されていない生徒が多いように思われる。したがって、教師が親代わりになって、生徒を愛してやらねばならない。

 愛情不足の子の親の多くは、仕事に追われている。本当は子に寄り添いたいはずなのだが、時間がない。かつて、「男女平等」というのは「男は仕事、女は家事」の男女が逆になって「主夫」がいたっていいじゃないか、という話だったと思われる。ところが、いつの頃からか、「男も女も働くことこそ素晴らしい」という世の中になった。

 学校では「突き放し型」の教員が影を潜め、「寄り添い型」の教員が今は大半である。なぜなら、自殺、いじめ、不登校といった諸問題の防止・解決のためには、一人一人に親切になる必要があるからだ。この親切さがちょうどいい生徒ももちろんいる。ところが、手加減しなくてもいい生徒まで生ぬるい教育に染まってしまっているという現状がある。これは「過親切」と言える。

 過親切は学校に限ったことではない。現代は過剰配慮の時代である。

 例えば、テレビ番組にせよ、インターネット上の動画にせよ、昔より字幕だらけだと言ってよい。もう今から約二十年前のことだが、お笑い芸人のネタにも字幕を出す番組が登場したときは大変驚いた。それが今では、音を消していても内容を理解してもらうためなのか、あるいは個人で視聴する人が増えたからなのか、理由は様々だろうけれども、とにかく全ての発言に字幕が出るし、画面の上の方にはテーマが表示されていることが多い。分かりやすいのは確かだが、教育現場にいると、その弊害に直面する。どうも今の子供は耳からの情報だけで理解する力が弱い。生身の人間と話す機会が減っていて(当然、生身の人間との会話に字幕など出るわけがない)、字幕付きの動画で視覚的に理解するばかりになっていることが背景にあると考えられる。

 

おわりに

 関西シンポジウムに参加し、あれやこれやと考えていたら、いつの間にか教育のことを書いていた。最近、教員という仕事は人気がない。ブラックだ、定額働かせ放題だ、と騒がれているが、そんなにブラックだろうか。出勤しただけで評価される仕事が他にあるのだろうか。果てしない個別対応に追われ、教員と生徒が「猪木―アリ状態」のような関係にある今の学校が、このままでよいはずはない。