本日は3月30日開催の「表現者クライテリオン沖縄シンポジウム〜戦後80年、沖縄から考える対米独立への道〜」
の開催を前に7年前の2018年の沖縄シンポジウムに関する記事をお送りいたします。
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二〇一八年八月二十日、沖縄県宜野湾市のフェストーネで表現者クライテリオン・シンポジウム「沖縄で考える保守思想」が開催された。旧盆直前の慌ただしい時期であったことに加えて、翁長雄志沖縄県知事が急逝したことを受けて当初十一月に予定されていた沖縄県知事選挙が九月に前倒しされることが決まる等、沖縄の政局が風雲急を告げる様相を呈していたこともあり、「果たしてどれぐらいの人に参加していただけるのだろうか」との不安の中で当日を迎えたが、蓋を開けてみれば予想を超える人々にご参加いただき懇親会も含めて盛会のうちに終えることができたのは、シンポジウムのコーディネイト役を務めた私にとって望外の喜びであった。シンポジウムの冒頭、進行役の私から西部邁先生が創刊した『表現者』を引き継ぎ、現在の編集体制で『表現者クライテリオン』を発行することになった経緯や沖縄でシンポジウムを開催する意義等について説明した後、藤井聡編集長、柴山桂太氏、浜崎洋介氏、川端祐一郎氏に私が加わった五人で、現在の沖縄が直面している諸問題──沖縄に固有の問題と、沖縄のみならず日本の多くの地方が共通して抱えている問題とに仕分けることができる──について議論することができた。時間的な制約と不慣れな進行役のために「十分に論議を尽くすことができなかった」等の討論会には付き物の不満は残ったものの、以下に記すシンポジウムの概略を一読すればお解りいただけるように、少なくとも「沖縄の問題は沖縄だけの問題ではなく、全て『日本国家の歪み』を反映したものである」ということを示すことはできたと自負するものである。
規準(クライテリオン)としての「常識」……藤井聡編集長
我々が日々の暮らしの中で物事の良し悪しを判断するには何らかの「規準」が必要であり、「我々が何を規準に生きているのか」を考えると「常識(コモンセンス)」に基づき判断しているということができる。「常識」や「伝統」とは、地域を越えた共通部分を持ちつつも、北海道や沖縄といったそれぞれの土地の歴史や風土に根差した違いもある。「規準」を伝統や歴史の中に脈々と受け継がれた「常識」に求めるのが「保守」である。残念ながら現在の日本には「常識」ではなく「新自由主義」や「経済合理主義」等の机上の空論やイデオロギーに基づき考える人たちが多く、社会そのものが相当歪められている。国民全体で「常識」を取り戻さなければならない。
グローバリゼーションで拡大する格差……柴山桂太氏
現在のグローバリゼーションの中で世界全体が一つの市場経済に統合される動きがあり、それによって格差が拡がっている。その格差とはお金持ちと貧しい人たちとの間の格差であり、都市と地方の格差である。米国ではニューヨーク等の大都市にヒト、モノ、カネが集積し、メディアも大都市の意見しか取り上げない。都市と地方の格差が拡がる中で、ラストベルトを典型とする没落した地方から「自分たちは見捨てられた」「自分たちの声が全然政治に反映されていない」といった従来の都市だけを重視する政策への不満の声が上がり、トランプ政権の誕生に結びついた。このような都市と地方との格差拡大は、日本にとって対岸の火事ではない。東京オリンピックを控えてあらゆる資源が東京都市圏に集中しており、ここまでヒト、モノ、カネが中心に集まる構造は先進国の中でも日本が別格に酷い状況にある。本来の国家のあり方、中央と地方の関係を改めて考える必要がある。
パトリオティズムとナショナリズムの相克……浜崎洋介氏
沖縄の地において、パトリオティズムとナショナリズムは突き詰めれば突き詰めるほど互いに齟齬をきたしてしまう。「日本の中の沖縄」の問題としてナショナリズムを唱えればパトリオティズムが悲鳴を上げ、パトリオティズム突き詰めれば本土とは異なる歴史と経験から「沖縄独立論」に行き着かざるを得ず、「国家単位で動くしかない」事実を上手く引き受けることができなくなる。国民国家の営みとは、国民と国家が「折り合う」ことであり、その「営み」が一番毀損されている場所が沖縄である。平和主義を維持しようとすれば安全保障の問題が立ち上がり、戦後民主主義の欺瞞が浮かび上がる。本土では見え難い戦後民主主義の欺瞞が最も露わになっている場所が沖縄なのである。日本の国家は果たして自国民と米国の何れの方を向いているのかとの問いに対して「米国の方を向くこと自体が国民のためになる」と言ったところで「その国民の中に私たちは入っているのだろうか」という沖縄の感覚を否定することはできない。本土においてでさえ「米国の方を向くことが日本の利益ではなくなっている」という感覚が生じつつあり、日本が米国を庇護国ではなく脅迫国として認識する時代に入りつつある。これらの対米従属の問題を解決するには、日本の国力を上げることと憲法改正以外に途はない。憲法改正に向けた声が沖縄から上がってもよいのではないか。それこそが恐らく最も筋が通った対米従属解放論になるはずである。
根本感情に言葉を与える必要性……川端祐一郎氏
沖縄の人々には、歴史的な経緯から本土に対する恨みとか復讐心、対抗意識があるのかもしれないが、そのような根本感情、原初的な感覚を持っていること自体が大切なことである。原初的な感覚や感情がむき出しになる時代を我々は生きている。原初的な感情、パトリオティズムに近い根本感情をしっかりと確認していかなければならない。グローバリズムのイデオロギーや市場経済の論理が世界中の文化や民族を平らげていく時代が続いてきた。トランプ現象や欧州における移民排斥運動が起こっているのは、イデオロギーや市場の仕組みで人間を甚い振り、ポランニーが言う「碾き臼」ですり潰すように人間を虐めていった結果、人々の根本感情が露わになってきたからである。そのために米国も欧州も大混乱に陥っている。カジノ法案や水道民営化法案を巡って、日本人のためではなく外資の金儲けのための法案が余りにもむくつけき形で出てきたことに対して「なんだか嫌だな」という日本人の根本感情が表面化することによって、これらの法案に対する反対多数の輿論や法案の提出断念といった結果に結びついた。いま我々がしなければならないのは、例えば「沖縄の人々の根本感情とはどのようなものか」について議論することで人々の根本感情に言葉を与えていくことなのである。
「インテリの噓」対「常識」……藤井編集長
「常識」に基づいて判断することが非常に大切なのだが、現在の日本にはいわゆる「インテリ」と呼ばれる基本的に噓ばかりを話す胡散臭い連中が蔓延っている。片仮名ばかりで「非常識」なことをペラペラしゃべる輩が出世する世の中になり、農業やもの作り、建設業などに真面目に取り組む人々が小馬鹿にされて彼らの賃金が失われている。インテリたちの噓に従うから日本はデフレから脱却することさえできずにいる。「常識」で考えれば、本州から遠く離れた沖縄は相当手厚い公共投資を充当しなければ他府県と対等に渡り合うことなどできるはずがない。沖縄が経済の面で後れを取ってしまうのは、決して沖縄の人々の努力が足りないわけではなく、地理的に不利な条件下に置かれていることの当然の帰結である。同じことが北海道についても当てはまる。沖縄県も北海道も日本であり、日本が普通の国家であれば、政府には最低限度の賃金を保障して必要なインフラを整備する義務がある。離島や半島等アクセシビリティが低い地域や地政学的に不利な地域への手厚い措置が必要なのは「常識」なのである。
日本の民主主義は終わっている……柴山氏
著名な社会人類学者であるデヴィッド・グレーバーが最近著『ブルシット・ジョブ』で「この三十年で社会は進歩したといわれるが、我々の生活に必要不可欠な仕事や人間の基礎的なニーズに関わるような仕事に携わる労働者の賃金が下がっており、素人には解らない理屈を振り回して詐欺みたいな仕事をしている連中の収入が増えている」と論じている。このような現状への不満の声によってトランプが登場してきた。欧州も同様であり、EUでは「国境を越えた共同体を作る」という理想があったが、その歴史は国家が駄目になっていく過程でもあった。EUが各国の主権を制限しているためにそれぞれの国が独自の政策を打つことができず、過去三十年間の政治に対する反省が始まっている。議論をしようとしている分だけ米国や欧州の方がまだマシであり、その意味で日本の民主主義は終わっている。民主主義とは「民衆の声を聞くこと」であるはずが、現在の日本の政治は外国の真似をするか外国資本の言うことを聞いているだけである。国内の民衆の要望よりも米国の要望が優先されており、この状況に対して声を上げることから始めていかなければならない。
「自由」を奪う「新自由主義」……浜崎氏
戦後の長い膨大な時間を一つの枠組みの中で勝ち上がってきた人間がエリートになり、その枠組みを「疑う」こと自体ができなくなっている。エリートといわれている人間は「疑わないからエリートになれた」のであり、「疑う」作法や「疑い方」を知らない。「疑い方」とは「枠組みの外」に自分の足の置き場所を求めることであり、「枠組みの外」とは「生活する」ことである。人は何処かで生まれ、育ち、死んでいく。人は「自由」になれない。いわゆる「新自由主義」ほど「自由」の感覚を失わせるものはなく、「新自由主義」とはある種の欺瞞である。「グローバリズム」「新自由主義」といったとき、その規準を作るのがアングロサクソンである場合、我々はアングロサクソンの自由をあてがわれるわけだから不自由になるに決まっている。アングロサクソンの生き方とは画に描いたような個人主義であり、彼らには「競争を勝ち抜き自己実現することが即ち神に承認されることである」という文化がある。我々はその他人の文化の中でできあがった「規準」を「グローバル規準」と言いながら使っているわけであり、我々にとってこれほど不自由なことはない。
「端っこ」(国境)を守らねばならない……川端氏
例えば学生の就職活動に如実に表れているが、現在の日本の経済構造では東京が圧倒的に有利であり、沖縄を含めた地方は極めて不利な条件の下に置かれている。大阪ですら例外ではない。「沖縄に投資をしなければならない」というのは、「沖縄が不利な条件下にあるから」という理由ではなく、日本の南と西の「端っこ」(国境)だからであり、北海道も北の「端っこ」という意味で同様である。世界が分裂して多極化する時代に突入し、欧米では「自由民主主義が強い時代が終わりつつある重要な歴史の曲がり角に来ている」という議論が増え、「成長するには自由民主主義でなければならない」という思い込みがどんどん覆されている。以前と比べて日本は外国との関係を鋭く意識せざるを得ない局面にいる。まさに「沖縄をどういう地域にしておきたいのか」ということが、日本の国家の根幹に関わる問題となっている。中国人が北海道や沖縄の土地を買い占めているといった話があるが、そもそも日本の規制が緩すぎるから外国人が土地を買えるのであり、他の国では外国人が簡単に土地を購入できるといったことなどあり得ない。日本政府が北海道や沖縄に十分な投資をせず、日本の端っこからジワジワと外国によって浸食されてきている。しかもそのことに対する我々日本人の意識が低いということこそが問題である。
沖縄の強みは地政学的位置……藤井編集長
沖縄の最大の強みは地政学的位置であり、軍事的に重大な意味を帯びているだけではなく平和的な意味でも日本国家全体にとって極めて有益である。例えば沖縄に投資をしてハブ空港やハブ港を作ること等は国家戦略としてできるはずである。沖縄だけの視点で考えるのではなく、国家的な考え方を通して初めて出てくる考え方であり、このような国家戦略が全部なくなっているのが、現在の沖縄の状況である。
<編集部よりお知らせ>
2018年、私たちは沖縄の地において表現者クライテリオン・シンポジウムを開催し、この国の対米従属の歴史とこれからの未来を考えました。
そして今、戦後80年という歴史の節目を迎える本年、もう一度沖縄で集まり、議論しなければならない—そうした強い使命感を抱き、7年ぶりに沖縄シンポジウムを開催いたします。
沖縄こそ、日本の「戦後」が今なお続く場所であり、沖縄を語らずして戦後は語れない。ここにこそ日本の真の独立を考える鍵がある。
日時:3月30日14時~
第1部 14時00分〜15時00分
ポスト2025の世界と沖縄—第二次トランプ政権がもたらす試練
第2部 15時10分〜16時30分(質疑・応答含)
戦後80年の検証 ー 沖縄に見る対米関係の実像
懇親会 17時00分〜19時30分
会場:沖縄県市町村自治会館
(那覇空港から車で10分、バスターミナルから徒歩3分、旭橋駅から通路直通、徒歩5分)
会費:一般、3000円、塾生・サポーター:2000円
懇親会:5000円
表現者塾は『表現者クライテリオン』の編集委員や執筆者、各分野の研究者などを講師に迎え、物事を考え、行動する際の「クライテリオン=(規準)」をより一層深く探求する塾(セミナー)です。
◯毎月第2土曜日 17時から約2時間の講義
◯場所:新宿駅から徒歩圏内
◯期間:2025年4月〜2026年3月
◯毎回先生方を囲んでの懇親会あり
◯ライブ配信、アーカイブ視聴あり
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コメント
前回(2018年)の沖縄シンポジウムの動画も見返しました。
私は本州の人間ですが、改めて、戦後の政治と行政と一部世論への強い怒りを禁じ得ません。