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【浜崎洋介】「クライテリオン」が呼び求められるとき

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

今回から、『表現者Criterion』の編集委員として毎週メルマガを配信させて頂くことになりました。ただ、文芸批評を生業にする私が、いきなり政治、経済、社会を語った処で説得力がないでしょうから(それでも語っていこうとは思いますが)、やはり最初は「言葉」についての話からはじめるのが筋だろうと思い、今回は、「危機に対峙する保守思想誌」と銘打ってはじめた雑誌のサブタイトルに因んで、まず「危機」という言葉の分解からはじめて、次第に、批評と「クライテリオン」の関係についても触れていきたいと考えています。

まず、「危機」という言葉ですが、その英語は、言うまでもなく「クライシス」(crisis)で、語源はギリシア語のクリシス(krisis)、つまり「決定すること」「境界確定をすること」だと言われています。それで、面白いのは、このクリシスは、同時にクリティーク(critique=批評)の語源でもあるということです。つまり、「危機」とは、まさに何を選ぶべきか分からない迷いに突き当たって、それでも何かを「決定」しなければならないその瞬間であり、また、その際にどうしても必要になる反省、それがクリティーク(批評)だというわけです。

ただ、「危機だ! 批評だ!」といたずらに騒いでみても、空転してしまいかねないので、まずは誰もが生きている日常生活のレベルから、この「何を選ぶべきか分からない迷い」について考えてみたいと思います。そこで思いつくのが「文章表現」という営みです。

というのも、「文章」ほど、実は、その良し悪しを決定しづらいものもないからです。

たとえば、名文調なのに心に残らないもの、悪文なのにやけに心に響くもの、あるいは知識は豊富で論理も整合的なのに詰まらないもの、論理も破綻気味で知識も貧弱なのにやけに訴えかけてくるものなどなど、文章ほど、その評価を一つの物差しに還元できないものも少ないでしょう。
実際、文型も決まっていない日本語の場合、主語と述語の対応関係さえ分かれば、修飾節の位置は自由だし、一つの意味内容に対して和語と漢語の行き来はあるし、漢語に限っても類義語は多様で、しかも、主張内容とは基本関係のない「である」「のだ」「だった」などの文末処理で、その文章の印象は全く変わってきてしまいます。

というわけで、特に文学などやっていると、どう考えても、完璧な日本語マニュアルは不可能であるように思えてくるわけです。いや、ウィトゲンシュタインの驥尾に付して言えば、全ては生成する「言語ゲーム」なので、言葉における完璧なマニュアルは原理的に不可能なのです――その点から言っても、AIによる言語操作は原理的に一定程度しか実現し得ません――。

そこで人は、文章を書く際に、よく「最後は自分の心に聞いてみるしかない」とか、「自分の主観的判断に任せるしかない」とか言うことになるのですが、しかし、ちょっと考えてみれば分かることですが、それはそれで、相当に困難な道行きではないでしょうか。

というのも、自分で書いている文章(実は、この文章もそうなのですが)の良し悪しを、自分の「主観」で判断することほど難しいことも他にはないからです。私自身の場合で言えば、自分で「いい文章が書けたぞ」などと思っても、その翌朝に読み返してみると、「いや、相当に自己陶酔していたな」などと反省して修正したりするのですが、しかし、午後になってみると、今度は、その修正そのものが論理的整合性に囚われた詰まらない修正に見えて来る…といったことがしばしばあるのです。
つまり、自分で書いた文章の良し悪しを批評しているのが自分の「主観」でしかない場合、どうしようもなく、文章を書いている自分の「主観」を批評し、それを批評している自分の「主観」を批評し、またその自分の「主観」を批評する…といったような無限後退的な事態が避けられなくなってしまうのです。

では、どうやって「主観」の批評=無限後退を止めることができるのか。言い換えてみれば、もう、これ以上無限後退していても埒が明かない、失敗するかもしれないが、それでも一歩踏み出さなければならない、にもかかわらず、それを「決定」する論理的根拠はない。そんなとき、どうやって人は自分の「飛躍」を肯定することができるのかということです。

結論を先取って言えば、その「飛躍」を納得させているもの、それこそが「クライテリオン」の手触りであるということになります。が、それについて、一回のメルマガで語り切ることはできません。
今回は「文章表現」という日常的営みのなかに、「危機」(クライシス)と「批評」(クリティーク)の契機が潜んでいること、またその批評の限界点で呼び求められるものとして、「規準」(クライテリオン)があることについては分かっていただければ十分です。また、それゆえに「クライテリオン」が、単なる「マニュアル」や「規則」といったものでもないということについても理解いただければと思っています。

ただ、そういった意味では、「クライテリオン」に対する思いは、ほとんど「祈り」に近いものにもなってくるのですが、次回、その辺りのことについて、もう少し踏み込んだ形で語らせて頂ければ幸いです。その先で、なぜ「文芸批評」などという営みから、小林秀雄や福田恆存などの「保守」の言論人が多く出て来たのかということについても自然と見えてくるのではないかと考えています。

(明日は、川端祐一郎さんの配信となります。よろしくお願い致します。)

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