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【寄稿】性急な教育と悠長な教育

髙江啓祐(36歳・岐阜県・中学校教諭)

 

恩師の講義

 令和四年秋のある日、筆者はある教室に座っていた。そこで筆者は、十数年ぶりに大学の恩師の講義に出席した。この講義は、学生ではなく一般の受講者を対象としたもので、『論語』の書き下し文を声に出して読む時間のほかは終始先生の話を聴くのみであった。だからといって、意味がないとか、ためにならないという感覚は一切なかった。おそらく他の受講者も同じ感想だろう。しかし、この「講義形式」が、教育現場では多くの教員から忌み嫌われている。

 

講義形式と対話形式

 小学校、中学校、高校といった教育現場において、講義形式の授業は「一方通行」と揶揄される。静寂に包まれた教室で、先生の声とチョークの音だけが響く、そんな一見すると緊張感のある授業風景は、保護者が見たら喜ぶかもしれないが、業界内ではすこぶる評判が悪い。一方通行の授業を目撃された若手が、放課後に先輩教員から授業改善を要求されるのは、この世界では珍しいことではない。

 講義形式を忌み嫌う教員が理想としている授業は、簡単に言えば「先生よりも児童生徒がしゃべる授業」である。これは大きく二種類に分けられる。

 まずは、先生が児童生徒を指名し、生徒がそれに答えていく授業だ。十年以上前、大学を出たばかりの筆者は、一学期に行われた研究授業において、ただこちらから説明するだけの一方通行の授業をしてしまい、先輩教員からとにかくもっと当てるようにと指導されたことを今も覚えている。確かに、大人であれば静かに話を聴ける(はずだ)が、多くの子供はただ話を聴いているだけでは飽きてしまう。よって、「指名されるかもしれない」という緊張感を授業にもたせようというわけである。

 だが、教師が児童生徒を指名する形式に対しても、最近は否定的な意見を言う人が少なくない。なぜかというと、教師と子供が対話するのではなく、子供どうしが対話し、教え合ってこそ学力が向上するというのである。つまり、子供どうしがペアを組んだり、グループを作ったりして、どんどん話し合うような授業が望ましいというわけである。それがとりもなおさず文部科学省の提唱する「主体的・対話的で深い学び」なのだろう。児童生徒が主役の授業こそ素晴らしいというわけだ。故に、とうとう最近では「先生がなるべくしゃべらない授業」こそが理想的だとする意見を耳にすることが多くなった。

 ただ、現実は厳しい。児童生徒にしゃべらせる授業は、なかなかハイリスクである。筆者は、雑誌の投書欄でそういう授業の難しさを吐露したことがある。

 

 授業というと、教室が静寂に包まれる中で教師が淡々と説明する講義形式の授業をよしとする風潮がまだまだ根強いように思われる。(中略)いくら生徒が 静かでも心ここにあらずでは無意味である。(「文藝春秋」平成二十六年三月号「三人の卓子」欄より)

 

 このように、当時の筆者は、講義形式の問題点にも触れつつ、海外に比べ日本ではなかなか行われていないディベート形式の授業については、「多くの教師がただのおしゃべり時間になるのを恐れて行えないのが実情だろう」(前掲誌同欄より)と指摘した。学習意欲の乏しい子が多い教室において、教員が握っているハンドルを生徒に握らせるような行為は、危険極まりないのが現実だ。ただうるさくなるだけだったり、口論が始まったりといったハプニングを誘発するぐらいだったら、生徒には静かにしてもらって先生が一方的に説明してしまったほうが、手っ取り早く重要事項を注入できて安全なのである。

 批判の矢面に立ちながらも、講義形式の授業は今も全国各地の学校で続けられているだろう。いや、学校だけではない。有名予備校が行っている動画視聴型の授業だって、立派な講義形式ではないか。

 講義形式の授業は、言わば「性急な教育」だ。教員の側からどんどん教え込むわけだから、時間は掛からない。一方、生徒が主役で、教員はなるべくマイクを握らず、児童生徒に考えさせ、答えを見つけ出してもらおうとする「主体的・対話的で深い学び」は、時間の掛かる「悠長な教育」と言える。

 ちなみに、これは前田勉『江戸の読書会』(平凡社、二〇一八)や辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』(岩波書店、二〇二一)を読んで知ったことなのだが、講義形式批判の元祖は荻生徂徠であるらしい。徂徠は、『訳文筌蹄初編巻首』の中で、

 

  予れ講を悪む。毎に学者を戒めて、講説を聴かざらしむ。

  (予悪講。毎戒学者、不聴講説。)

 

 と明言している(『荻生徂徠全集2』みすず書房、一九七四)。

 一方、荻生徂徠と対照的だったのが山崎闇斎で、話し言葉そのままの講義の記録が現存している。講義形式の肯定派と否定派が江戸時代からいたというのは実に興味深い。

 

二つの教育方針

 筆者が教育の世界に飛び込んでから十年以上が経過した。多くの学校に勤務し、それぞれの学校で多くの先生から多くの教示を受けた。そして筆者の辿り着いた結論が、結局のところ教育は二種類に大別できるということなのだ。すなわち、性急な教育と悠長な教育である。

 教育の世界において、これが絶対正解だという教育方法など、おそらく存在しないだろう。なぜなら、じっくり時間を掛けて育てるのか、それとも急いで一人前にするのか、というそもそもの教育方針の違いによって、教育のやり方は変わってくるからだ。

 筆者が思うに、現在の教育は、後者の「じっくり時間を掛けて育てる教育」、すなわち悠長な教育が主流だ。もちろん、即効性を求めず、急がずゆっくり育てていくことも時には必要だろう。ただ、いつまで経っても幼いままの生徒を見ていると、あまりに悠長な教育一辺倒なのもいかがなものかと感じる。なぜ今の日本は悠長な教育に偏っているのか。その背景として、平和化・長寿化・高学歴化の三点が挙げられる。

 

平和化

 まず、日本が平和になったこと、つまり平和化したことによって、教育が性急である必要はなくなったのだと考えられる。世が平和なら、子供はじっくりと時間を掛けて育成できる。けれども、戦時中ならそうはいかない。

 筆者は戦争を賛美する気など毛頭ない。だが、かつての日本の若者は、きっと今の若者よりずっと精神年齢が高かったのだろうと推測する。戦時下の子供は、すぐに一人前になってもらわなければ困るだろう。「いつか一人前になってくれるよ」と大人が微笑んでいただけでは、戦いに間に合わない。故に、一刻も早く一人前にしようという性急な教育によって、短い年月で一人前になったのだろう。

 かつての教育現場には体罰があったと推察する。体罰は性急な教育の代表例だろう。一方、現在の教育現場では、とにかく繰り返し言い聞かせて、いつか理解してくれる日を待つのが大原則だ。まさに悠長な教育であると言えよう。ちなみに、誤解してほしくないが、体罰が学校教育法第十一条で明確に禁止されていることぐらいは筆者も心得ている。

 

長寿化

 「人生一〇〇年時代」という言葉を頻繁に聞くようになった日本人は、自分たちの人生が非常に長い間続くのだろうとなんとなく思い込んでいるようだ。そして、高学歴化が急速に進行し、今いる教育機関で一人前になれなければ次の教育機関へ放り込まれるという甘ったるい構造が築き上げられている。

 かつて、人は自分の人生をおおよそ何年と思いながら生きていたのだろう。一〇〇年生きられそうだ、などと期待に胸を膨らませる人が増えたのはつい最近のことであるはずだ。

 森本哲郎『生き方の研究』(新潮社、一九八七)には、こんな記述がある。

 

 ほんのすこし前まで、人生は五十年だった。(中略)ところが、その後十年の人生が、ここ二、三十年のあいだに、なんと一挙に八十年近くにも延びたのである。二十一世紀の半ばまでには、おそらく百歳になるだろう。

 

 このように、かつては人生五十年と言われ、一昔前には人生八十年と言われるようになり、ついには二十一世紀の半ばを待たずして「人生一〇〇年時代」と言われるようになった。もし自分の人生を五十年程度と踏んでいる人が多ければ、人生の四割を経過した二十歳になっても学校に在籍しようと考える人はもう少し減るのではないか。一方、一〇〇年の人生の中の二十年と考えたならば、抵抗なく長い長い学生生活を楽しめるだろう。

 「人生一〇〇年時代」についてインターネットで調べると、「人生一〇〇年時代構想推進室」と書かれた看板の横でにっこりと微笑む安倍晋三内閣総理大臣と茂木敏光経済再生担当大臣(いずれも当時)の写真を発見することができよう。難病を克服した安倍元首相も、もしかしたら人生一〇〇年であったかもしれないのに、その命を奪ったのはよもやの凶弾であった。

 安倍元首相だけではない。令和四年は、あるいは令和四年「も」、多くの著名人の突然の訃報に多くの人々はその都度驚き、深く悲しんできた。

 医療技術がいくら進歩しようとも、食べ物がいくら豊富にあろうとも、我々は必ずしも一〇〇年生きられるとは限らない、という現実が、皮肉にも数多の実例によって我々に突き付けられた。新聞の訃報欄を見ても、一〇〇歳以上の方はあまり見かけない。筆者も、一〇〇歳以上の方と実際に対面したことはいまだにない。つまり、「人生一〇〇年時代」と言われ、なんとなく長生きできそうな気持ちになっている人々は、思いのほか長生きできないという大変な現実に直面していると言える。

 

高学歴化

 長寿化に伴い、高学歴化も進んでいる。義務教育はあくまで中学校までなのに、高校に入るのはもはや当たり前だし、大学に進む生徒も増加した。この現状を問題視する声はほとんど聞いたことがない。むしろ、児童手当の拡充とか言って、義務教育を終えたはずの生徒に金を支給しようという主張もあちらこちらから聞こえてくる。だが、この高学歴化こそ、見直すべき大きな問題であると筆者は考えている。

 政治家たちは、少子化対策として金銭的な支援をしようとする。だがそれだけで少子化は改善されるのだろうか。そもそも、十五歳で社会に出るのか、十八歳なのか、二十二歳なのか、それだけでもその後の人生は全く異なるではないか。高学歴化が進めば進むほど、晩婚化が進み、初産が遅くなるのは当然である。少なくとも、中学校で一人前になれないから高校へ進み、高校でも一人前になりきれずに大学に進まざるを得ないというような哀れな生徒は一人でも減らさねばなるまい。

 今こそ、我が国は「低学歴化」に舵を切ってはどうだろう。それでこそ、学校に緊張感が生まれ、いつまでも幼いままの子供が減っていくのではないだろうか。未来を担う子供たちに、「永すぎた春」ならぬ「永すぎる春」は必要ないだろう。筆者は「中卒を育てる」思いで日々生徒と向き合っている。中卒を育てるからには、悠長な教育ばかりでなく、性急な教育も織り交ぜなければならない。