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人生観の違いがもたらす政治・経済的立場

高田健志(56歳・自営業・大阪府)

 

 初めまして。私は藤井先生より少しだけ歳上の者ですが、父の仕事の都合で10歳から14歳という多感な時期を南米で過ごしました。その時に感じたのは「現地の人々は経済的には貧しいけれど、精神的にとても豊かだ」という皮膚感覚でした。

 もう少し詳しく書けば、例えば日本人学校のガードマンとして雇われていた30歳ぐらいの現地人男性の月給は、当時私が親からもらっていた小遣いと同額(!)程度でしたし、学歴があって日本人学校にスペイン語を教えにきてくれる講師の月給は、先に紹介したガードマンの倍くらいでしかありませんでした。ですが、私が感じていたのは彼らの人生の楽しみ方の上手さで、金はなくとも友人達と歌い語らって羨ましくなるほど楽しそうでしたし、そんな暮らしをしているせいか、現地基準で見ればお金持ちという立場の日本人達よりもある意味で精神的に豊かな人々に感じられました。

 勿論、色々な人間がいますし、いい人も悪い人もいるんですが、普通に真面目に暮らす現地の方々を私は敬愛の念を持って見て接していました。経済的に貧しいから金持ちの日本人よりも劣っているのか? 私はそんな風には全く感じませんでした。

 やがて私も「帰国子女」となり、日本で様々な他の国からの帰国子女達と知り合う機会もあり、私が南米で感じた気付きや疑問はゆっくりと形を成していきました。感じ始めたのは、欧米先進国からの帰国組とその他の国々からの帰国子女との間の壁です。その「壁」の正体について長く考えてきましたが、見えてきたのは、先進国からの帰国者は自身の日本人としての価値観にほとんど影響を受けず、彼らは普通の日本人のまま帰ってくるということです。

 翻って、その他の国々からの帰国子女の中には自身に日本とは全く違った価値観の影響を受けた子供たちが結構います。それが先進国からの帰国者との間に、会話し辛い、すれ違う、理解し合えないといった感覚の「精神的な壁」となっていると確信し始めました。

 では、なぜ先進国に行っていた帰国子女は影響を受けずに帰ってくるのか? それは日本と欧米諸国が「契約を守る」「勉学に励んで身を立てる」「身が立ったら、国のために尽くす」等々の表面的な価値観が似ているからだと考えます。

 文化的・歴史的な背景などは全く違うと思いますが、日常生活や商習慣上において欧米と日本は親和性の高い慣習を持つからではないかと考えています。

 対して、私の経験は南米の一国での体験でしかありませんが、人生の至上の価値として「家族や友人と楽しく過ごす時間」があり、それを阻害する「勉強を頑張る時間」や「金儲けのために努力する時間」は馬鹿げた時間の使い方で、野暮で、たとえそれで経済的に優位になるにしても真似する気にならないのではないか? おそらく、至上の価値たる「家族や友人と楽しく過ごす時間」を削ってまですべきものではないという様な感覚が彼らにはあると感じたのです。

 私が南米にいて感じた「この人たちは愚かじゃない。貧乏なままでいることを承知してまで、人生を楽しんでいる」という感覚は、つまり、人生の上で何を至上の価値と見做すかという彼らの文化と我々のそれとの決定的な相違点だったと思うのです。ラテンの国のこと、歌って、踊って、恋をして、時には泣きもする。それが素晴らしい生活であり、人生なのでしょう。多分。

 という観点から世界を見渡すならば、現在「発展途上国」と言われる国々や地域には、欧米や日本とは決定的に違う様々な文化的価値観が根深くあるんじゃないだろうか? 現在の政治的、経済的な勝ち組たる先進国の人々のような生活をしたくないからこそ発展途上国の立場に甘んじているのではないか? と考えるようになりました。

 そういった文化的価値観の違いを、世界的に感覚的に分かりやすく解説してくださる論者の登場に期待しています。藤井先生のロシア体験やヨーロッパ体験のお話の端々から、そういった匂いを感じ取っておりますので。